黒耳の騎士と靴屋の新月
第二章
『靴職人と街の騎士』
レスターニャでも一番の賑わいを見せる港区から離れ、街の中心である中央区の噴水広場から少し路地に入った目立たない場所に、小さな佇まいの靴屋があった。店の主人の名はソノラ。先代である祖父から店を引き継ぎ五年目になる靴職人の青年だ。小柄でもないが大柄でもない身体をこれでもかと動かして、四年前に祖父が、二年前に母親が亡くなってからは一人で店を切り盛りしている。父親も彼が幼い頃死に別れたので二年前から天涯孤独の身の上だが、周囲の人間に暖かく見守られソノラが寂しさを感じることはあまりなった。
動くたびにふわふわと揺れる栗毛色の髪と照れたようにはにかむ姿が密かに街の女性に評判だが、彼自身にまだ恋人はいない。店が忙しくてそれどころではないし、気になっている人物は高嶺の花を通り越して雲上の人なので、たまに顔を見られたら僥倖で当分ソノラにその気はなかった。
穏やかだが少し冷たい風の吹く秋空の下、店の奥の工房で今日もソノラはせっせと注文された靴を仕上げていく。
「ンー……あとちょっとかな」
作りかけの靴を手にとって色んな角度から眺めたソノラの顔は満足げだ。後二回程コーティング材を塗ればこの靴は仕上がりと、ソノラはいったん止めた手をまた動かし出した。
先代の時から知る人ぞ知る店という『カヴィール靴工房』の軒先に並ぶ靴は少ない。そもそもそれは全てソノラが展示用に作った習作で売り物ではなかった。
ソノラの店は基本的にフルオーダーメイド制で、注文を受けてから客の意向に合わせた靴を作る。大量生産は出来ないが先代の祖父にしごかれた腕は年齢にしては確かだったから、客足が途絶えることはなかった。街の人全てが知る評判はないが、先代の時から客に愛される腕は確かな靴屋。それがカヴィール靴工房だ。
昼の鐘が鳴ってしばらく経った頃、そろそろ遅い昼食にしようとソノラが作業の手を止めた時、店舗の方のドアベルが高い音を立てた。奥の作業スペースから店舗の方へ顔を出したソノラは、客の顔を見て普段より随分と可愛らしい笑顔を浮かべる。
「ヴィグン副師団長じゃないですか。今日はどうしました?」
靴墨で汚れた手を前掛けで拭いながら奥から出たソノラは、ここ最近一番贔屓にしてくれる精悍な有名人を出迎えた。店舗に飾ってある靴を手に取って眺めていたヴィグンはソノラの姿を見ると、薄く微笑んで挨拶をする。
「こんにちは、ソノラ。これは新作かな?」
手にしていた革靴を掲げて、ヴィグンはソノラに尋ねた。照れたように笑いながらまだ少し汚れている手で頭を掻いたソノラが、そうですと一つ頷く。
「ちょっと試してみたいデザインがあったので、作ってみたものなんですよ。お気に召しましたか?」
「ああ、良いデザインだ。前に話した件は考えてくれたか?」
手にしていた靴をそっと棚に戻したヴィグンは、随分と真剣な表情でソノラに問いかけた。ソノラもへらっとした笑みを消して、今度は困ったように眉を寄せる。
「その件ですけど、やっぱりちょっと無理そうですね。俺一人だと流石に何年先になるかわかりませんし……」
ヴィグンは初めてこの店を利用したときからソノラの腕を買っていて、前々から自警団の軍靴【ぐんか】を作ってくれないかと頼んでいた。ソノラの作る靴は軽く丈夫なので、支給品の軍靴をすぐボロボロにする団員にはピッタリだと。
しかし団員全員の靴ともなると小さな工房のソノラ一人ではとても手が回らない。ソノラは申し訳なさそうに頭を下げた。
「すいません。とても光栄で有り難いお話だとは思うのですが」
「いや、仕方あるまい。弟子を取る気はないのか?」
「まさか! 俺にそんな腕はありませんよ!」
頬を染めて取れそうな勢いで首を振るソノラにヴィグンは謙虚だなと笑った。そうすると鋭い眼孔がしっとりと濡れたように柔らかくなり、ソノラは少し頬を染める。男のソノラから見ても、ヴィグンは相当に魅力的な男だ。赤らんだ顔を誤魔化すように一つ咳払いをしたソノラはそれでと、職人の顔に戻る。
「本日はどういった御用聞きですか?」
「ああ、長旅用のブーツを一足揃えてくれないか。持っていたものが駄目になってしまったんだ」
「良ければそちらを仕立て直しますけど」
「せっかくだから、この店のものが欲しくてね」
「それは……ありがとうございます」
ソノラにとって、ヴィグンは先代から引き継いでない初めての客だった。その客がこうして贔屓にしてくれるのは、作り手として素直に嬉しい。
「何か要望とかはありますか? ヴィグン副師団長はお得意様なので、出来るだけお聞きいたしますよ」
「君の腕は信用している。でも、そうだな。丈夫なものがいい。長い間使いたいから」
「では、特別丈夫なものを仕立てます」
カウンターの上でゴリゴリと注文書を作成しながら、ソノラは今受け持っている仕事の進行速度を計算して、差し迫った注文がないのを良いことに、すぐ取り掛かることを決めた。ヴィグンは特別なお客様なのだ。
「そうですね……お渡しは三週間後、新月の頃になると思います」
「ああ、大丈夫だ。取りにくればいいかな?」
「副師団長はお忙しい方ですから、差し支えなければ第二支部の方へお届けに行きますけど」
「いいのか? 悪いな」
「いえいえ、とんでもないです」
注文書の欄外に支部へお届けと記入して、他の欄も手早く埋めていく。
「サイズにお変わりはないですか? 測っても?」
「ではお願いしよう」
出来るだけ足に合うよう正確に計測する。以前注文を受けた時も測ったが、身体は変動するものだからソノラは客が嫌がらなければ毎回測るようにしていた。書きかけの注文書とペンをいったんカウンターに置き、前掛けのポケットから巻き尺を取り出したソノラは椅子を引き寄せてヴィグンをそこに座らせると、丁寧にブーツを脱がせた。その足を床についた自分の膝に乗せる。
「くすぐったかったら言ってくださいね。善処します」
ソノラの言葉に喉の奥をくつくつと振るわせたヴィグンが一つ頷く。ソノラはヴィグンの素足に触れながら、密かに、気取られぬよう胸を高鳴らせた。ヴィグンの足は軍人のそれらしく足首が太く逞しい。足裏は訓練で出来た肉刺が幾度も出来ては潰れたのだろう。酷く硬かった。
思わずその硬い皮膚を撫でたい衝動に駆られ、変に私情が指先に滲む前にとソノラは作業を進めていく。
「長旅用のブーツがご入用ってことは、どこかに遠征に行かれるんですか?」
レスターニャ港を拠点とする商船の商人が、他街への行商中に盗賊に襲われる事件は少なくない。レスターニャ自警団ではそういった商人の護送をする場合もあるので、もしそうならどんな重要な積荷の護衛だろうとソノラは純粋に気になった。何せ強さを誇るレスターニャ自警団の、第二とはいえ副師団長が護衛する品なのだ。しかしヴィグンから返ってきたのは「私用でな」という、なんとも珍しい言葉で。
「え、旅に出られるんですか?」
「ああ、一ヶ月程行こうかと」
「……戻ってこられますよね?」
驚いたソノラは手を止めて高い位置にある精悍な容貌を穴があきそうな程見つめてしまった。レスターニャ自警団第二支部の副師団長は、とにかく堅物で真面目な人物として知られている。仕事を放り出してどこかに行くようにはとても思えない。
思わず問い掛けた言葉はその話を聞いて真っ先きに浮かべた不安だった。とっさに口を吐いて出た本心に、ソノラは少し瞳を揺らす。
(なに、を……言ってるんだ俺は。バカか!)
しかしソノラの動揺など知らぬげに、ヴィグンはただアーモンド型の目を見開いて見上げてくる靴職人に苦笑を浮かべた。
「ちゃんと一ヶ月で帰ってくる」
「なんでまた、副師団長がそんな……」
明確な返答はソノラの気持ちを落ち着けたが、今度は羞恥心が湧き出てそわそわと視線を外しポツリと漏らす。落ち着きのない靴職人を見下ろしてヴィグンはなるべく柔らかく微笑んだ。
「私は亜人種だからな」
ハッと、ソノラは手で口をおおった。ちょっと考えればわかりそうなものを、常に温暖な気候がそれを忘れさせる。内心青くなったが顔は盛大に赤らんでしまって、口元を隠していた手で今度は目を隠し、どうしようと思考をさ迷わせるが、あいにく己を助けてくれそうな考えは浮かばない。
「……もうそんな、時期でした?」
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