不釣り合いな糖度
全体的に汚ねぇな……が、第一印象だった。割りと最悪な印象だと思う。
その人は有名なパティシエで銀座の一等地に店を構える程腕がたった筈なのだが、今じゃ落ちぶれて地方の、人通りの少ないビルの合間の袋小路に小さな店を構えているだけだった。
お陰で探し出すのに苦労してしてしまいようやっと見付けた人物は……そんな印象の中年。
冗談ではなかった。どんな記憶の齟齬なんだと憤った俺は、けして間違ってはいない。
第一、目の前のおっさんは甘ったるい菓子よりスルメイカでも作ってそうである。
挙げ句、このおっさんは店に入った俺に向かい、
「ちょっ、ちょっ、らめぇぇぇええっ」
と、叫んだのだ。
成る程、目が点になるとはこの事か。
不釣り合いな糖度
「……あの?」
思考停止をした束の間、小汚ない目の前のおっさんは何故か俺同様目を見開きながら、口元を抑えて真っ赤になっていた。
どんな行動なのだそれは。まったく意味が解らない。解らないのだが。
「ちょっと待ってくれ。舌が縺れた」
「……は?」
何故か、どことなく、可愛い……?
とにかく訳が解らないながら待てと言われたので待つ事にする。
特に急いでいる訳ではない。話なら落ち着いてからゆっくりすれば良いのだ。
俺はおっさんが真っ赤になって深呼吸してる間に、ざっと店内に視線を流す。
狭い店だ。テイクアウト専門なのかイートイン出来る気配すらない程、小ぢんまりとしている。五人も入れば店は一杯になってしまうだろう。
床には塵一つない。だから余計に様々な色に汚れたコックコートを着た無精髭のこの男が汚なく見えるのだろう。
顔は小麦粉とチョコで斑模様になっている。
店と厨房を区切るガラスのショウケースには、宝石みたいに輝くスイーツが整然と美しく並んでいた。
(ああ、本物なんだ)
それを確信した瞬間、俺の胸は一気に高鳴った。
スイーツは、一種の芸術作品だ。味は無論、見た目が良くなくては売れる味も売れない。
ショウケースに並んだそのスイーツは、パティシエ、ユキノジョウ・ジンナイの作品で間違いなかった。
見ただけで解る。それぐらい何度も何度も眺め吟味してきたものだ。
ユキノジョウ・ジンナイの作るスイーツは他のどんなものとも違う。
だから俺はここに来た。
本人の見た目は随分と草臥れてしまったが腕は落ちて無いようである。
それに安堵しつつ、ユキノジョウ・ジンナイに目を戻すと、彼は赤らんだ頬をパシパシと汚れた手で叩きながら、ようやくまともに俺へと視線を寄越した。
「ええと」
無精髭の生えた顎を撫で、口を開く。黄ばんでいると思った歯は思いの外白い。
「先程はしっ、失礼した。君は、神宮寺遠野君だろ」
「俺をご存知で……?」
「雑誌でやっていた特集を、見た事が、あるんだ」
最初とは違い、ゆっくりと落ち着いた、丁寧な口調である。多少どもってはいるが。
俺は改まり、ユキノジョウ・ジンナイを真っ直ぐに見据えた。微かに彼が怯む。
こちらを知っているなら、話が早い。
「パティシエ、ユキノジョウ・ジンナイさんですね」
「ええと、はい。そうですけど」
「弟子にしてください」
「はい……えっ!?」
ユキノジョウ・ジンナイは、ビックリした! と解りやすい表情を浮かべて俺を見る。
掃除が行き届いた床に膝をつき、俺は見下ろしていた彼を今度は見上げる形で頭を下げた。
「改めて……俺は、神宮寺遠野といいます。経験は浅いながらパティシエをしています。どうか、弟子にしてください。貴方の作るようなスイーツを、俺も作りたい」
「えっ、まっ、嘘ォォオ!?」
「嘘なんか吐きません」
心外である。こちらは至って真面目に言っているのだ。
「だっ、だって君はあの"ジャンヌ"でチーフパティシエをしてるって……」
「先日辞めてきました」
「はぁ!?」
同業者である友人達のツテを総動員してようやく見つけたのだ。
こちらも生半可な覚悟で来ている訳ではない。
これは、俺の長い間見続けてきた夢なのだ。
「俺は、貴方のようなスイーツを作るパティシエになりたい。貴方の弟子になるまでここは動きません」
「まっ、待て待て待て、待って。君の様な才能ある人を弟子になんて出来ないよっ」
「俺は、貴方が銀座の"フェティッシュ"で働いていた頃から知っています。貴方の作るスイーツは他のどんなものとも違う」
俺にはけして作り出せないそれは、繊細で美しいのに、何処までも優しい面差しをしている。
あの日テレビで見た時に、俺は歩む道を決めたのだ。
「だから、知りたい。どうしたらそんなスイーツが作れるのか」
「っ……!!」
熟れた苺の如く顔を赤らめたユキノジョウ・ジンナイは、しゃがみこんでしまいガラスケースの向こうへ姿を消す。覗いた厨房から、出来たばかりのタルトが並べられるのを待っていた。
俺は立ち上がり、しゃがみこんでいるユキノジョウ・ジンナイを覗き込む。
「わっ、私は昔こそちょっとちやほやされたパティシエだが、今じゃ地方の、こんな小さな店しか持てないような男なんだ。君の様な人を雇うなんて」
「雇って下さいとは言いません。給料は結構です」
「はぁぁああ!?」
「俺は、ただ、貴方が知りたい」
「なっ……!?」
そうだ。俺は知りたい。どうすれば、あんなスイーツを生み出せるのか。
側で見て、感じて、あんなスイーツが作れるようなパティシエになりたいのだ。
「側に置いて、くれませんか」
「……くっ、口説かれてる、みたいだ」
「口説いているんです」
「うっ、えっ!?」
「弟子にしてください、と」
「あっ、そ、そうだよねっ」
……それ以外に何があると言うのか。
ユキノジョウ・ジンナイは赤い顔のまま立ち上がると、ペコリと頭を下げてこう言う。
「私には弟子を取る技量はない。お引き取り……」
「断る」
「……は?」
「もとより、一度で引き受けて貰えるとは思っていませんが」
だから俺は、そんな甘い覚悟で来た訳じゃないのだ。
店が狭かろうと、給料が出なかろうと、師匠になる人物が小汚ないおっさんだろうと、どんな理由があろうと構いはしないし聞く気もない。
ユキノジョウ・ジンナイに師事する事に意味があるのだから。
「貴方に教われないのなら、俺の手は意味がない。いっそ潰してしまっても」
「!! らめぇぇええっ」
ユキノジョウ・ジンナイは俺が掲げた手を勢いよくガッシリと掴んだ。その後、胸に抱き寄せるようにして俺を睨む。
「潰すぐらいなら私にくださいっ!」
「はい、あげます」
「えっ!?」
言ってから、ユキノジョウ・ジンナイは何とも言えない顔をした。赤くなり困惑し、失敗したという表情。
俺はしかし、言質を得たとほくそ笑む。
「弟子にしてくれるんですよね? ユキノジョウ先生」
「っ……!!」
彼は無精髭の生えた顎を下げ口を開いたまま数秒固まると俺の手を放り出して厨房の中へと逃げ込んでしまった。
見た目は汚いが、やはり随分と可愛い人だなと、俺はひっそりと笑う。
覗いた厨房からチラリと見えたのは、大分前に出た俺の特集が組まれた記事のある雑誌。
どうやら俺と彼は、出逢うべくして出逢ったと言ってよさそうだ。
明日がこんなにも楽しみなのはいつぶりだろうか。
俺はさっそくと、厨房の奥でうずくまるユキノジョウ・ジンナイへと声を張り上げた。
END