別モン
誰にだって、世間の大多数とは違うって所があるだろ。趣味とか嗜好とか。
せっかくなので、はっきり言っておこう。
俺は自他共に認めるマザコンである。
と言っても、世間の抱くイメージとは少し違うかもしれない。
マザコンの母親は過干渉というイメージではないだろうか。だが、俺の母親は子供の俺が少し首を捻るくらいには放任主義である。
俺に一度だってあれをしろだのこれをしろだのと指図所か口を出した事すらない。
かと言って放任主義な本人はけして子供に無関心な訳ではなく、運動会には炭化したデカい弁当箱を携えて応援に来てくれたし、俺の服はセーターでもないのに何故か毎回買い直ししなければならない程縮むまで洗濯をしてくれた。家だって毎日掃除をしていた。掃除すれば皿や花瓶が割れたが。
そう、俺の母親は笑って流せないくらいには家事が出来なかった。俺がまだ幼稚園だった頃、何故親父に母と結婚したのか真剣に尋ねるくらいには家事が出来なかった。不器用過ぎた。
つまる所、俺のマザコンはこの良い母親であるが壊滅的に不器用な彼女に起因していると思う。
俺が包丁を握ったのは六歳だった。料理中にボヤ騒ぎになり母親が脚に大火傷をして。
洗濯機を回し始めたのは七歳。忘れもしない夏休みの日曜日、俺の母親は何故か洗濯機で溺れた。
掃除に手を出したのは九歳だった。掃除機を豪快にぶち当て割った花瓶の上に母親が転び、腕を八針程縫った時だ。
俺は思った。俺の母親は、家事をやらせたら冗談ではなく目を離した瞬間に死んでしまうと。
母親は物凄く不器用で天然だったが、何より可愛かった。華奢で優しくて柔らかくて、抱きつくととても良い匂いのする、すこぶる魅力的な女性であった。俺が大学に入った今でもそれは変わっていない。
俺は幼い頃からこの恐ろしく不器用だがとても可愛くて優しい母親が自慢で大好きだ。
だから、家事で死ぬとかそんな事あってはならなかった。本人はまったく気にしてないが腕にまだ花瓶で作った傷が残っている。
だから俺は若干九歳にして母親に宣告した。
『僕ね、おかーさんが大好きなの。おかーさんがここにいてくれるだけでうれしいの。家事は僕がやるから、おかーさんはお願いだから家事をしないで』
故に、俺は母親からけして目を離せなかった。学校へ行ってる間も心配で心配で心配過ぎて何度も職員室へ行き、家へ電話をした。
家事は帰ってからだと遅いので、朝早く起きて学校へ行く前に完璧に終わらせておいたとしても心配だった。
仕舞いには一時登校を拒否したが、最終的には親父と担任に引き摺られ教室へと向かった。
そんな俺がだ。
「どうしたらキヨ先輩の家で暮らせると思う」
「どうしたらっておま、え?」
目の前で憔悴した髭面の男は俺が切々と話した事を一応大人しく聴いてはいたが、結果俺の言葉に疑問を返した。
大学内のカフェテリアでの出来事である。
俺の対面席に座る髭面の男は奥山清実。この間付き合ってめでたく一年を迎えた、二つ年上の俺の恋人だ。
キヨミという女みたいな名前を気にして知り合った当初から髭を伸ばしている、少しばかり間抜けな可愛い人である。大学内ではクマさんの愛称でなかなか女子に親しまれている男前。
そのキヨ先輩に、俺は先程プロポーズのようなものをされた。
『俺が卒業したら、俺ん家に越して来ないか』
と。それはそれは真剣な声で。
その返答がつまり、切々と語った事柄であったのだが──どうもキヨ先輩のキャパをオーバーしてしまったらしい。
「もう一度繰り返そうか」
「や、いい。要らない」
キヨ先輩はすっかり冷めたキャラメルラテを、不味そうな顔で飲み干す。甘い物が好物のくせに。
「……つまりだ、ノリはまったくこれっぽっちも、実家を出るつもりがないと?」
因みに、ノリは俺の愛称で、本名は谷田部紀之という。
「母が死ぬまで有り得ないな」
「お前、もしかして飲み会やら休日どんだけ誘っても出てこなかったのは、それが原因か?」
「もしかしなくともそれが原因だ」
「エッチが毎週金曜、互いの講義の合間をぬってだけなのもそれが原因か!」
「そうだ」
言ったら、キヨ先輩は「ガッデム!」と叫ぶなりカフェテリアの白いテーブルを投げ飛ばした。テーブルは美しい弧を描き、三つ隣のテーブルをなぎ倒した。カフェテリアがざわつき野次馬が俺達を取り囲む。
「何人のつもりだ」
しかし、俺は至って冷静に避難させたアイスコーヒーを飲んでいた。キヨ先輩の性格は一年で把握しているし、俺は彼の突飛な行動が嫌いじゃない。むしろ好き。
「黙らっしゃいこのクールマザコンが! エッチになりゃ嬉しそうにしゃぶりつく癖にやたら回数少ないと思ったら、原因それ! わかる? 週一だよ週一! 月四回、年換算なら四十八回! 付き合って三カ月目で初エッチだから俺らまだ三十六回しかしてないんだよ!」
「正確には三十八回だな」
「どの道少ねぇぇえ!」
「内容は毎回濃くしてるだろう? 何が不満なんだ」
「不満だらけじゃ馬鹿野郎ォオオ! 倦怠期夫婦じゃあるまいしっ、俺はもっとあはんうふんとチチクリたいっつの!」
キヨ先輩は叫びながらそのまま地面に突っ伏した。仕舞いにはいじけてうじうじと泣き出す。いやぁ、面白くて可愛いよねキヨ先輩って。本当大好きなんだけど。
「一緒に住んだらもっと一緒に居られると思ったのに、よりによって母親、母親とか! 就職して自立してノリといつも一緒なパラダイス、仕事から帰ってきたらノリがエプロンで出迎えてくれて、『キヨ、飯か? 風呂か? それとも俺か?』とか! 言いながら『もちろんノリだよ』と返す! そんな俺の些細な夢を! まさかの母親に阻害されるなんてっ」
泣きながら面白い妄想を繰り広げるキヨ先輩を、周囲は怖々と、俺はニヤニヤと眺めていた。そんな事を夢見てたのか、キヨ先輩。面白過ぎるだろう。
「ノリはさぁ、エッチ好きだろう? 俺は好き! 大好き! 男の子だもんな、気持ちいいの好きだよな。それなのに週一回、まだ三十八回! なにこれ? イジメ? 付き合って一年も経つのにまだ一緒に朝日を見てないとかどんだけーって俺新宿で叫んじゃうよいいのか!」
「いいよ」
「愛は潰えた!!」
そう言い残し、キヨ先輩はカフェテリアの床ととても仲良しになった。周囲からは俺への非難の目のプレゼント。
それでも俺は未だ立ち上がりもせず、呑気にコーヒーを飲んでいた。
所でキヨ先輩は、多分ギャラリーの事など頭にないのだろうな。突飛な行動をするがそれはあくまで衝動的無意識で、その時に限り彼の頭からはTPOが吹っ飛ぶだけで、キヨ先輩は基本的に周囲に気を使う常識的な人だから。
ちなみに俺としては、マザコンが理由で登校を拒否るぐらいには厚顔であると自覚している。
周囲の存在を教えた時の反応を予想しながらニヤニヤしていた俺は、そろそろと口を開いた。恋人だから、愛してるから、キヨ先輩の好物な甘い物だって惜しみなくあげないと。
「キヨ先輩は、お決まりの台詞を言わないんだな」
「あ?」
「"私と母親、どっちが好きなのよ!"」
「!」
俺がその台詞を口にすると、床と仲良くしていたキヨ先輩は慌てたように顔だけ上げた。焦っているのか不明瞭な早口で告げる。
「だっておま、それはまったく別モンだろうがッ!」
「そう、別ものなんだよ。俺は自他共に認める立派なマザコンだが、母親とエッチしたくはないな。どんなにエッチが好きでもね。それをわかってない奴が多くて困る」
キヨ先輩に向かって、俺は会心の笑みを送る。伝わらなかったら金曜日にでも耳元でしつこく言ってやろう。
俺ね、キヨ先輩が。
「キヨ先輩は、ちゃんとわかってる」
大好きなんだ。
「好きだよキヨ先輩。大好き」
「の、紀之……」
「だから、エッチ少なくてもキヨ先輩の家に越せなくても別れてやらない」
「別れるか! バカ!」
「うん」
「俺なんか愛しちゃってるんだからな!」
「うん、所で」
「何だ」
キヨ先輩はいたく感動したらく、若干涙目になりながらその感動に水を差した俺を不満気に見上げてきた。ずっと床と仲良しか。
俺はにやける顔を抑えつつ、コーヒーの最後の一口を飲み干して周囲を指差す。
「すげー騒いだけど、いいのか?」
「あ? ……あ!!」
次の瞬間、キヨ先輩は新体操選手も驚くだろう跳躍を見せ、仲良くしていた床から離れ奇声を発しながら走り去った。
無論俺は爆笑である。あの人は本当に面白くて可愛い。
野次馬は気の毒な目をしながら走り去るキヨ先輩の背中を見てバラバラと解散していった。明日は凄い噂が駆け巡るだろうが、キヨ先輩はみんなからも愛されているので大丈夫だろう。
俺は寂しくなったカフェテリアで、地味にキヨ先輩の吹っ飛ばしたテーブルを戻しながら考えた。
俺は自他共に認める立派なマザコンだから、母親が死ぬまで実家を出ることはないだろう。忙しい親父は夜中にならんと帰ってこないから、役には立たんし。
しかしながらキヨ先輩、俺の母親は家事をさせたら死にそうなぐらい不器用なだけで、本当に素晴らしい母親なんだ。
可愛くて優しくて寛大で、子供の俺がびっくりするぐらい放任主義だけど良い母親なんだ。
だからキヨ先輩、キヨ先輩の家じゃ一緒に暮らせないけど、俺の家なら別に何の問題もない。
あの母親は、多分笑って良いわよと言ってくれる。
そういう人だ。
大学内のカフェテリアは普段通りの騒がしさを取り戻していた。透明な窓ガラスから見える空が心地良い気分を運んでくれる。
あのあまり似合わない髭面の可愛い先輩は、今頃トイレで悶えてでもいるのだろう。
「次は、俺がキヨ先輩にプロポーズするかな」
そうしたら、キヨ先輩はどんな顔をするだろう。
end