荒船



鞄の中に明日が提出期限の書類が入っていないことに気づいたのは防衛任務が終わったあとだった。幸いにも夜勤ではなかったため、置いてきたであろう書類を取りに学校へと向かうと、自分の教室に一つの影が佇んでいるのを見つける。

「うーーーーーん」
「どうした」
「うわぁっ!……荒船か。びっくりしたよーもう」

苗字は俺が学校へと戻るきっかけとなった書類と同じものを手に持ち、机に伏せるように座っていた。

後ろから突然声をかけた俺も悪いが、想像以上に大きな声が華奢な体から飛び出したものだから、襲いかかってくる犬に怯える時のように肩が震えてしまった。

「びっくりしたのはこっちなんだが」
「ごめんごめん。で、何か用だった?」
「いや、困ってそうだったから声かけた」
「流石荒船!モテる男は違うねえ」
「茶化すな」
「いや、たいしたことじゃないの。志望校どうしようかなって」
「結構たいしたことだと思うが?」
「えー?最悪荒船はボーダーに就職できるわけじゃん。人を助けることで将来が確定付けられてる荒船も人並みに進路のこと結構重く考えてるんだね」
「お前な……」

目の前の女は、ことあるごとにボーダーやボーダー所属の俺に対して棘のある言葉を吐く。最初はそういう奴なのだと割り切って接していたのだが、何の因果か三年間同じクラスになった俺は嫌というほど奴の性格を知ることになった。そこで気づいたのは苗字の性格の良し悪しについて。やや八方美人気味ではあれど誰に対しても優しく、ささやかな気遣いもできる。それに、一般人であるクラスメイトには棘を吐く素振りを一度も見せなかった。
それなのに何故か俺や、たまに絡んでくる犬飼に向けて発せられる言葉には時々棘があった。会話の内容を鑑みた結果、ボーダー関連のことになると彼女の優しさが100%あるうち、30%にまで薄まってしまう。

「なあ、一つ聞いてもいいか」
「うん?わたしに答えられることなら何でもどうぞ」

苗字は掴んでいた進路希望の書類を机の上に置き、ゆっくり立ち上がって彼女の隣の席の椅子を引く。言葉にも仕草でも出さないが、おそらくここに座れということなのだろう。
引かれた椅子の背もたれに手をついて、ゆっくり座る。

「なんで苗字はボーダーを嫌うんだ?」
「……え、そんなくだらないこと聞くためにわたしの進路考える邪魔したの?」
「くだらなくはないだろ。俺は現にボーダーの人間だ。お前がボーダーを毛嫌いするのは構わねえけど理由が分からねーと俺としては気持ち良くはないからな」
「ああ、気を悪くさせてた?ごめんね。そしたら…荒船だけじゃなくて犬飼もかな、悪かったって伝えておいて」
「謝って欲しいんじゃなくて、理由が知りてえんだけど」
「乙女の秘密を知ろうとするなんて荒船くんって結構デリカシーないんだね」

何が乙女の秘密だ。乙女の秘密だかなんだか知らないが、こんなふうにはぐらかされたらもっと気になるもんだろ。

「まあ、どうしても知りたいっていうんだったら教えてあげなくもないけど…」

普段通りにっこりと微笑んだ苗字は、書類を丁寧に折り畳んだにもかかわらず鞄の中へ乱雑にしまい立ち上がる。

「…けど?」
「ここじゃあなんだし、お腹も空いたし、夜ご飯食べに行かない?」
「奢れってか?」
「いやいや、そこまで言ってないよ。全然割り勘のつもりだけど、ボーダーで高給もらってるはずの荒船が今月厳しいって言うならわたしが全部払ってもいいし」

そういうところだ。悪気が一切感じられないあっさりとした表情で俺に言い放つと、換気のために開放されていた教室の窓を一つ一つ丁寧に閉めて行く。

「わたし今日、夕飯一人なの。だからご一緒してくれるなら荒船が喉から手が出るほど知りたいらしいわたしのボーダーを嫌う理由、教えてあげる。まあ、たいした理由じゃないし、話した後にそんな理由かよ!って怒られたらたまったもんじゃないし、嫌なら断ってくれてもいいけどね」

俺に話す隙を与えることなくペラペラ喋る苗字は、黒板の右下、日直と書かれた文字の下に次回の日直の名前を書いた。相変わらず、教科書のような綺麗な字だ。確かこいつは幼い頃から書道を習っていたとかで、書道のコンクールで金賞を取っていたのを思い出す。

「荒船って、わたしの字好きだよね」
「……あ?」
「あれ、違ったかな?ボーダーの任務だかでお休みしてた授業のノート、頑なにわたし以外の子から借りなかったし、今さっきまで険しい顔してたくせにわたしが書いたこの文字、ぽやーっとした顔で眺めてたからそうかなって思ったんだけど。自意識過剰だったね」
「……いや、たしかにお前の字、好きだわ」
「よかった!」

その「よかった」は、俺が字を好きだと言ったからなのか、それとも自分の予想が当たったからなのか、聞くのはやめた。











「へぇ、荒船ってお好み焼き好きなんだ」
「…まあな」
「いつもボーダーからの帰りにここに来てるって感じかな?」
「は、何で知ってんだ」
「ええー、だって、あの今にも襲いかかってきそうな猫みたいな顔した店員さん、友達でしょ」

ボーダーの。語尾にそう付け加えた苗字。空調はかかってはいても鉄板で熱くなっているはずのこの空間が一瞬で冷えた気がした。しかし、何事もなかったかのようにメニューを手に取る。

「わたし、ベビースター好きなんだよね!これ、どのお好み焼きにも乗っけられるのかな?……ちょっと?聞いてるの?」
「…店変えたいって言うと思った」
「席に通されてお冷までもらって、荒船は言える?それに、荒船の友達がバイトしてるお店でそんなことしないから、安心してね。暴れ出すなんて思われてはいないと思うけど、もちろんおとなしくするから!」
「そう、してくれると助かるわ」
「まあ、ボーダー嫌いって勘づいてるのにボーダーの人間が噛んでる場所に連れて行くのはどうかと思うけど」
「……」
「それよりそれより!このベビースターってどれにも乗せられるの?乗せられるんだったらわたしこの味と、こっちのもんじゃも食べたい。あと、ごはんも!お好み焼きでごはん食べるの、ちょっと憧れてたんだ」

それより、という言葉で話を切り替える目の前の女の神経に驚きつつ、目を輝かせながらメニュー表に指を指す彼女の表情や言動が激しく変わる様を見て素直に面白いと感じた。同時に、俺の知っている苗字はこいつのほんの一部分だけだったのだ、と思い知らされ不思議な気持ちになる。

「お前そんな頼んで大丈夫かよ」
「うん?お金なら大丈夫だよ。わたしだってアルバイトしてるから」
「そうじゃなくて、腹に全部入んのかって聞いてんだよ」
「あぁ、そっちか。こう見えてわたし、中学まで運動部育ちだったから結構食べるの」

また知らない情報が俺に突き刺さる。脚も腕も細っこいこんな華奢な体で元運動部と言われてもあまり説得力がないが、こんなところで嘘を吐く必要もないはずだ。本当のことなのだろう。

「…でも、昼飯の弁当小さくなかったか?」
「お昼はそんなに食べないの。夜にボカーンと食べるためにね!」
「は?普通逆じゃね?」
「分かってないなあ!学校なんて窮屈な場所でご飯を美味しく食べられるわけないもん」
「……はあ」

何を言っているのかはよく分からないが、苗字の言うことを鵜呑みにするならば、今この空間は窮屈な場所ではないということでいいのだろうか?








「お待たせしました。ご注文の品はこれでお揃いでしょうか」

テーブルに料理を持ってきたのはカゲだった。苗字もカゲも余計なことを言わないよう祈っていたのだが、苗字は目を輝かせながらカゲに「ねえ」と声を掛けたのだった。
二人に聞こえない程度にため息を吐いた。


「お好み焼き、焼いてもらえませんか?」
「あ?」
「わたし、ちゃんとしたお店でお好み焼き食べるの初めてなんです!屋台で売ってるお好み焼きは食べたことあるけど、あれはちょっと違うでしょ?目の前で"わたしのお好み焼き"を焼いてもらうの、夢なんです」

何だコイツと言いたげなカゲの目に気づかないふりをして、俺からもカゲに頭を下げた。

「まあいいけどよ。店で食べンのが初めてなら自分で焼いた方がいいンじゃねーの」
「ううん!せっかくならプロに作ってもらいたい。…影浦さんってここの息子さんでしょ?」
「は?」
「俺は話してないからな」

こいつのことだ。店の名前とネームプレートの文字が一緒であることに気付いたんだろう。こいつの観察力の高さには圧倒される。


「荒船とは仲良いの?」
「まァ」
「そうなんだ。荒船って、ボーダーでどんな感じなの?」
「おい苗字、やめろよ」
「えー、なんで?好きになるかもしれないのに」
「それはねえだろ、今までの態度的に」

何だコイツら、という顔しながら律儀にお好み焼きを作っていくカゲ。考えてみたら俺たちの今の会話には主語がない。好きになるかもしれないというのは苗字がボーダーを、という解釈で話しているつもりだが、カゲからしたら恋愛絡みだと思われているかもしれない。しかし、今訂正するのも面倒なことになりそうなので後日説明することにしよう。





「わー!美味しそう。お手数おかけしました、ありがとう」
「別に」

特に苗字とカゲに確執が怒るわけもなく平和にお好み焼きは完成され、カゲは舌打ちしながら裏へと戻って行った。

「うーん、ソースのいい匂い!ね、食べていい?」
「おう。火傷すんなよ」
「あれ、わたしのこと妹か何かだと思ってる?」
「お前が妹だったら俺、胃に穴空くわ」
「どういう意味だろ?」

苗字はディスられていることに気づいているのに、知らんぷりをしてお好み焼きを口元へ持っていく。
相当美味しいのだろう。今まで見たこいつの表情の中でもっとも幸せそうな顔をして見せた。


「おいしーーー!!!なにこれ!?お好み焼きってこんなに美味しいんだ…」
「そりゃ連れてきた甲斐があったな」
「わたし、お好み焼きの美味しさを知らないまま今まで生きてきたんだって思ったら、何だか悲しくなってきた」
「忙しい奴だな。怒ったり喜んだり悲しんだり。次は楽か?」
「わたしの感情に怒はないよ」
「おいおい、どの口が言うんだよ。いつもボーダー関連になると突っかかってくんだろ」

そろそろ本題に入りたかった俺は、少し無理やりかもしれないがボーダーの話をちらつかせてみた。

「あれは哀だよ、どちらかというと」
「哀?」
「そう。わたし、近界民に家族を奪われたの」
「そうだったのか………え?近界民に家族を、」
「うん。当時、ボーダーの人は助けてくれなかった」
「その場にいなかったのか?」
「いたよ!いたのに、見捨てた」

手際良くお好み焼きを食べやすいサイズに切り分ける手を止めずに話す苗字の声からはたしかに「怒」というより「哀」を感じた。

「両親が"この子だけでも助けてください"なんて泣きついたのも原因だけど。ボーダーの人、ほんとに見捨てたよ。"すまない、もっと俺が強かったら全員助けてあげられたのに…きみのご家族を殺したのは俺だ"なんて思ってもいない言葉をわたしに掛けてくれたよ」
「……」

何も言い返す言葉が出ない俺は、思っていた以上に壮絶な過去を持つ目の前の女を直視できなかった。せっかく半分にしたお好み焼きが冷めてしまうだろうに動けないでいる俺に対して苗字は時々「美味しい」と声を漏らして一口サイズのお好み焼きを頬張っていた。

「でもね、たしかに一人しか救えない状況だったんだよね、あの時。だから、あのボーダー隊員はどう頑張っても一人を除いて残りの市民を見捨てることになってたから、あの人は悪くないよ。わたしがこうやって今ここで美味しいお好み焼きを食べられているのはボーダーのおかげだもん!感謝しなきゃ」

言葉とは裏腹に、両目からこぼれ落ちる涙。制服のポケットにちょうど入っていたハンカチを取り出して苗字に差し出す。

「言いたくねえ話させて悪かった」
「ううん。わたし、ボーダーの入隊試験受けに行ったことあるんだよね」
「え?」
「一人でも多くの人間がボーダーに入れば、わたしみたいに大事な人を失う人が少しでも減るんじゃないかと思って」

でも落ちたの。苗字は最後の一口を持ち上げてパクりと口に含んだ。

「わたし、元運動部だし自信はあったんだけどね。トリオン量?っていう根本的なものが絶望的らしくて。だから諦めた」

こいつが辛い思い出を乗り越えようとしていたことに驚いた。ただ単にボーダーを否定するのではなく、自分もその一員になってみようとしたとは。

ただ一つ、俺は思い当たることがある。ボーダー隊員というのは戦う人間だけが集っているものではない。トリオン量が足りなくたって、エンジニアやオペレーターとして活躍している人もいる。コイツの視野の広さや観察力がこのまま日の目を浴びないのでは少し、いやかなり勿体無いように思う。

「なあ、ボーダーにもう一度入らねーか」
「あれ?わたしの話聞いてた?もしかしてわたし荒船に一度同じ話、最初からする?」
「いや、ちゃんと聞いてた。そうじゃなくて、お前にも向いてる仕事があるんだよ」
「そうなの?」








もんじゃを不慣れな手つきで作る苗字に、一通りボーダーの仕組みや仕事内容についての説明を終える。「ふうん」の三文字のみを返してきた目の前の女に悪態をついてやろうと、自分のもんじゃをよそったのち、彼女の顔に目線を移す。

「荒船ありがとう」
「…」

苗字は今までの刺々しさはどこへやら、穏やかな表情で俺に微笑む。文句を言おうと準備していた言葉は俺の頭から消えて行った。
やっぱり喜(怒)哀楽の激しい女だ。俺がカゲだったら、いろんな感情をぶつけられて頭がおかしくなりそうだ。

「ねえねえ」
「なんだよ」
「わたしも高給取りなれるかな」
「そりゃお前の活躍次第だな」


優秀なエンジニアが入ったことで、上から感謝されるまであと数日。


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