山田太郎の困惑

山田太郎は困惑した。

準備運動中、いきなり走り出したチームメイトを追いかけた先で思いもよらない光景を目にしたからだ。

「え、え???どういう状況?」

要圭がとっぴ推しもない行動に出るのは慣れていたが、そのバッテリーである 清峰葉流火が行動をおこすのは初めてみた。それも人を巻き込んで。近寄ってきた山田を見て「あ」と少女が視線をよこす。

「すみません。おじゃましてます」
「え、あ、いや、」 

ピッタリと張り付いた清峰はまるで背後霊のようだ。何をするでもなくほぼゼロ距離で少女のことを見下ろしている。不思議な状況に何と言葉を返せばいいかわからずアタフタしている山田を見た少女が「ほら、清峰くん。びっくりされてるから離れて」と清峰のお腹あたりをポンポンと叩いた。

「いやだ」
「嫌だじゃなくて」
「名前ちゃんは俺のことそんなふうに呼ばない」
「はぁ‥‥」

めんどくさいという感情を隠そうともしない大きなため息をついたあと、「ハルちゃん」と少女が彼を見上げた。名前を呼ばれ、目があったことに満足したのかほんの少しだけ、ほんとうに少しだけ清峰が距離を取る。

その様子を目の当たりにした山田は驚愕した。
あの唯我独尊を地でいく清峰 葉流火が、飄々としてクールな清峰 葉流火が、要圭の言うことしかまともに聞かないのでは?と思われている清峰 葉流火が、一人の少女に従っている。開いた口が塞がらないとはこのことだ、と言わんばかりにあんぐり開いた口から、なんとか「え、っと清峰くんの、お友達ですか?」と声を絞り出す。見たところ、少女は小手指の生徒ではない。山田は少女に聞いたつもりだったが、答えたのは清峰だった。

「ヤマ、名前ちゃん。名前ちゃん、ヤマ」

ピ、ピと指差し確認のように人差し指を動かしたが何が何やらだ。呆れたように「そう言うんじゃないと思うよ」と名前が肩をすくめた。

「初めまして。苗字名前です。清峰く「違う」‥‥ハルちゃんとは小学校の幼馴染なの」
「初めまして。山田太郎です」
「山田くんね。よろしく」

名前が手を差し出す。一拍置いて山田も片手を差し伸べた。ほっそりとした長い指が山田手のひらを握った。野球とは無縁のスベスベで柔らかい綺麗な手にドキドキしていると、“エンガチョ”をするように清峰が繋がれた手を断ち切り「あ、こら」と名前が嗜めた。

「長い」
「一般的な握手の時間だったよ」
「あはは‥‥」

これはこれは、と山田は心の中でもう一度驚く。入学当初、寄ってきた女子生徒に対して『うっとおしいから二度と俺たちに近づくな』と言ってのけるような男が、そのうっとおしいのお手本のような振る舞いをしている。
まだ名前の手の感覚が残る右手を見て、清峰を見た。いつもとあまり変わらない表情の中に少しだけ見え隠れするのはきっと嫉妬だ。

「もしかして、」
「ん?」
「苗字さんと清峰くんって付き合ってたり、する?」

思いがけない質問だったのか、名前は目を見開いて口ごもり、ややあって何か言おうと口を開きかけたが、それを遮るように清峰が「違う」と首を振った。

「まだ付き合ってない」
「まだ!?」
「付き合ってないけど結婚する」
「結婚!?」

【付き合う】【結婚】彼の口から出たとは思えない言葉の数々に今日一番の驚きを見せた山田は「こ、婚約者ってこと?」と至極真面目に質問する。

「そう」
「いやいやいやいや」
「昔、約束した。『大きくなったら』『野球で一番になったら』って」
「それは、」

思い当たる節があるのか名前は「そうかもしれないけど」と一応の肯定はして、「でも野球で一番って何」と反論する。

「え、苗字さん知らないの!?」
「え、何を?」
「清峰くん、リトルシニア時代に要圭に【怪物バッテリー】と呼ばれて恐れられた剛腕投手なんだよ!一番って言っても過言じゃないよ」
「そ、そうなの?ごめん、野球詳しくなくて」

清峰は特に気にすることなく、自慢げでもなく「だから結婚できる」と繰り返す。
「要圭と野球をすること」と「投球」にしか興味がないので常時塩対応な男がここまで執着するなんて、と山田は息を呑んで行く末を見守る。
清峰葉流火は側から見ても本気だった。

「ハルちゃん、別に良いんだよ。小学校の頃の約束を守ろうとしてるんでしょ?気にしないでよ」
「違う。結婚する」
「いやいやいや。ハルちゃんこんなかっこよくなったんだからモテるでしょ。ね、山田くん」
「そりゃ、もう」
「名前ちゃん以外に好かれても意味ない」

その声には熱があった。ふざける様子なんて微塵もなく、ただ、ただ純粋に名前を見つめ「俺は名前ちゃんが好きだから」と。

その言葉は辺りの音をすべて持ち去ってしまう。グランドから清峰と山田を呼ぶ声だけが清々しく響いた。