清峰 葉流火の執着

清峰 葉流火の存在を思い出したのは本当にたまたまだった。



テスト前に掃除がしたくなることをセルフ・ハンディキャッピングというらしいが、まさにそれ。いてもたってもいられず本棚を整理し始めて見つけた小学校のアルバムはかなりの時間泥棒だった。特に後ろの寄せ書きページは思い出たくさん詰まっていて、一人一人の幼く拙い字を辿ると懐かしさに胸が詰まる。
そんな寄せ書きページの最後、1ページまるまる使われたそこにはたった一言【けっこん】と書かれていた。右下には【キヨ】の文字。

「キヨ、キヨ……?」

そんな友達いたっけ?思い出せない。だけど、アルバムのラスト一ページを託すくらいだからきっと、仲が良かったはず……

「あ」

そこで清峰 葉流火のことを思い出した。当時、隣の家に住んでいた男の子だ。よくお兄ちゃんにいじめられては泣いていた男の子。
『名前ちゃん』と呼ぶ声が急にフラッシュバックした。彼は今、どこでなにをしているんだろう。




「お母さん、清峰 葉流火って覚えてる?」
「清峰?」

何となく気になってリビングにいた母親に聞くと、少しだけ思い出すそぶりをしたあと「あぁハルちゃんのこと?覚えてるわよ。懐かしい」と頷いた。
「お兄ちゃんに可愛がられては泣いてナマエのとこ来てたハルちゃんでしょ?」

思い違いではなかったらしい。「何で急に?」と聞く母親にアルバムのことを話せば「そうだったそうだった」とケラケラ笑い始めた。

「『名前ちゃんと結婚する!』って駄々こねてたわ」
「全然覚えてない」
「うそ!あんた、『すぐ泣く男の子なんて嫌』ってつっぱねてたわよ」 
「うそ……」

全く覚えていないが、アルバムの【けっこん】を見るに多分記憶違いではないはずだ。母親は目を細めながら懐かしそうに笑った。

「それでまた泣くから、呆れた名前が『私より大きくなったら考えたげる』とか『野球で一番になったら結婚してあげる』って言って」
「野球……」
そこでまた一つ思い出す。そうだ、彼は要圭くんという男の子に誘われて野球を始めたのだ。公園でキャッチボールをしている二人をブランコを漕ぎながら見ていた記憶が引き摺り出される。というか、

「私そんな高飛車なこと言ってたの?」
「言ってたわよ!母さん達笑っちゃって笑っちゃって」

恥ずかしいことこの上ない。なにが『結婚してあげる』だ。上から目線にも程がある。熱くほてった頬に手を当て「最悪」と一人ごちていると、「元気にしてるかなぁ」と母がまた懐かしそうにする。

「まだやりとりしてるの?」
「年賀状でね。でも、お兄ちゃん……ほら葉流馬くんが恥ずかしがるからって写真なしなのよ。だからどんな感じに成長してるかはわからないわ」
「ふーん……」
「野球、続けてるのかしらね」

なんとなく、会ってみたいなと思った。低学年の頃はほぼ毎日遊んだ気がする。野球を始めてからの記憶は薄いけど、だけど彼がとても楽しそうにボールを投げていたのは何となく頭の片隅に残っていた。

「来週、創立記念日だから学校休みじゃない?だか友達に会いに東京に行くから、会いに行ってみようかな」
「あら」

お母さんが顔を上げ、ニヤッと笑う。

「よろしく言っておいてちょうだい。未来の旦那様かもしれないしね」
「はいはい。どこの高校行ったかわかる?」
「あー……確か去年年賀状に書いてあった気が……」 

言いながら、小物入れを漁りハガキを探し出す。ややあって「あったあった」と一枚の年賀状を差し出した。

「小手指、高校……」





新幹線で東京に向かう最中、スマホで【小手指高校】について調べてみた。
吉祥寺に近い位置にある都立高校。驚いたことに野球部はないらしい。
なんだ、辞めちゃったのか、野球。
ルールとかあんまり分からなかったし、やったこともないけど彼がするキャッチボールは楽しそうで、見ているのが好きだったのに。まぁ、思い出したのはつい最近なので私がとやかくいう権限もないのだが。
乗り継いでやってきた吉祥寺は人の多さは大阪とどっこいだが、どこかオシャレさが滲み出ている。Googleマップで小手指高校へのルートを検索し、視線を落としながら歩みを進める。母は「住所わかるし家まで行けばいいじゃない」と言ったが、小学校の同級生、それも異性がいきなり家に行くなんてヤバいやつだと思われかねない。
メインは東京の友人に会うことで、彼と会うのはついでだ。最悪、会わなくても吉祥寺を満喫すればいい。会えない可能性の方が高いため、マップ上のカフェとか服屋さんを確認しつつ、目当ての小手指高校に向かった。



「あれ、野球部あるじゃん」

グラウンドには数人の男子生徒がいた。
髪の長い男の子が振り切ったバットから、優雅な放物線を描き、ボールが空に舞い上がる。青い空に白色が綺麗なコントラストを描いていた。笑ったり、走ったり、言い合ったりする人達は野球を心の底からの楽しんでいるようだった。ぼんやりと眺める面々の中に、思い描いた“ハルちゃん”はいない。
わざわざ呼び止め、聞いて探すまでもないか、と帰ろうとした時だった。

「名前ちゃん?」

後ろから低い、落ち着いた声が私の名前を呼んだ。「え」と振り返ると、180pは裕にあるだろう大きな男の人が立っていた。目が合うと、徐々に見開かれ、ズンズンとこちらにやってくる。

「え、あ、ぇえ!?」
「名前ちゃんだ……」

距離を詰めた男の人が覆い被さるみたいに私の背に手を回し、息が止まるほど、ギュッと抱きしめた。いきなりの出来事に頭が追いつかず「え」とか「あ」とかしか言えないが、ぎゅうぎゅうと彼の胸板に顔が埋まるのでそれさえもうまく発音できない。汗の匂いと柔軟剤の匂いが鼻を掠めた。

「わ、え!?き、清峰くん!?!?!?」

焦ったような声がして、誰かが近くに寄ってきたのが音でわかる。未だ顔は男の人に押さえつけられているので見ることは叶わない。
そんなことより、彼は、今、なんと。

「清峰、くん?」
「名前ちゃんは俺のことそんな風に呼ばない」

ぎゅ、と抱きしめられる力が強まる。「うぇ」とつぶれたカエルみたいな声が出て「ちょ、ちょ、死んじゃうよ!」と仲裁の声が入った。ほんの少しだけ緩まった腕から何とか顔を離し、見上げる。

「は、ハルちゃん?」
「ん」

男の人がこくりと頷いた。記憶にある黒い細やかな髪が風に揺れる。

「う、うそ」
「嘘じゃない」
「だ、だってハルちゃんはもっと、」

私と同じかそれより小さくて、いっつも不安げな顔をしてて、可愛い感じだったのに。こんな、こんなクールで無表情で身長が高くなってるなんて、そんな。
ワナワナと震え、後ずさる私に対しハルちゃんが逃すまいと大きな手で腕を掴む。服越しでもわかるくらい厚くてゴツゴツした手は、やっぱり私の記憶のハルちゃんとは似ても似つかない。

「名前ちゃん、なんか小さくなった?」
「い、やいやいやいや。ハルちゃんが大きくなりすぎなんだよ」
「そ」

ちょっとだけ彼の目が細まり、昔泣いていた彼を慰める時にしたように私の頭を撫でた。

「俺、大きくなった」
「うん、すごく」
「だから結婚できる」
「え」
「野球も一番になった」
「え」
「だから結婚できる」

ふざけている様子は一切ない真面目な顔。頭にあった手がスルスルと下がって頬を撫でる。緊張で私は固まったまま動けない。

「約束した。結婚するって」

忘れたとは言わせない、と彼は真剣な目でそう言った。

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