「先輩の頼みでも許可できません」


さっきから視界の端にちらちらと見覚えのある女の子が見える。こちらから声をかけようかとも思ったが、もしかしたら彼女なりにタイミングを測っているのかもしれない、と何もせずに待つこと数分。意を決したのか、トトトと駆け足で寄ってきた。

「こんにちは名前ちゃん」
「こんにちは陽ノ本先輩」

辺りを気にしながら小声で話すのは学年が一つ下の苗字名前ちゃんだ。
身長差のせいで少しだけ声が聞き取りづらかったので、腰を曲げて「何か用事?」と聞いてみる。彼女はキョロキョロ周りを見ながらコソコソ話をするように口に手を当て俺の耳元で囁いた。

「次の試合って、いつ、どこでやりますか?」
「あー」

なるほど。そう言うことか。
彼女は爛々とした顔で俺の答えを待っている。目の前のおやつを前に、『待て』と命じられた子犬のような。その期待に満ち満ちた顔を曇らせたくはない。曇らせたくはない、のだけれど、

「ごめんね。教えられない」
「え!?」
「教えちゃダメって言われてるんだ」

お日様みたいに煌めいていた顔が徐々に徐々に雨模様に変わる。誰に、とは聞かない辺り彼女も検討はついているらしい。あからさまに肩を落として「最後の砦だったのに」としおしお呟く。

「陽ノ本先輩もダメですか……」
「え?俺“も”って?」
「みんなです、みんな。千石先輩も、飛高先輩も、小里先輩も、久我先輩も、みーーーんな、教えてくれないんです」
「わぁ」

本当にみんなだ。メソメソと悲しむ彼女に、アドバイスと言うわけではないけど「同学年の子は?」と聞けば、力なく首を横に振る。

「もう先回りされてます」
「そっかぁ」
「先輩だけが頼りだったのに……」
「そう言われると心苦しいよ」

別に野球部の試合時間や試合会場は秘匿ではない。知らないおじさんとかファンの子達とか応援に来るくらいだから、情報の検索の方法なんてごまんとあるが、彼女は律儀に許可を取ろうとしているのだ。取れるはずのない許可を。

「国都にお願いされちゃったから」
「ぐ………」

教えてあげることができない理由、それは我らが4番でエースの1年、国都にお願いされているからだ。
『苗字名前に試合のことを聞かれても絶対に教えないでくれ』と。
可愛い後輩の珍しい頼み、疑問を持ちつつも了承した。きっとみんなそうだろう。

国都と名前ちゃんとは物心ついた頃からの幼馴染だという。たまに二人でいるところを目撃するが、国都が世話を焼いていたり、お説教をしていることが多い。
曰く『名前ちゃんは昔から僕がいないと何もできなくて』とのことだが、そう言った時の国都の顔は大変、とか嫌々、とかではなくどこか嬉々としていたから、その役割自体は嫌いじゃないみたいだった。
しかし、それは国都側の意見であり、名前ちゃんは大変ご立腹だ。

わかりやすく口を歪めた彼女は「おのれ国都くん……」と忌々しげに呟いている。

「いつもいつも私の邪魔ばっかりする……」
「名前ちゃんのことを思ってだと思うよ」
「違いますよ!私が行くと邪魔だからですよ」
「そんなことはないよ」
「きっと、集中できないから」
「いや、国都は……」

そんな柔な精神力と集中力で野球をしていないから、きっと邪魔とかではないんだろうけど、上手い言葉が見つからない。
彼女に試合を見られたくない明確な理由は分からないが、彼は名前ちゃんに対して少々過保護すぎるきらいがあるから、それが起因しているのだろう。
過保護、といっても直接的な言動を俺はあまり見ていないけど、周りの話を聞くに多分そうだろう、と思う。
気が気でない、という言葉がピッタリと言わんばかりだ。それがどういう感情の延長線なのかは俺にはわからないけど、多分、彼の生活には名前ちゃんがいつもある。
流石に野球の時は切り離しているけど、だからこそ試合にはきてほしくないのかもしれない。

「見たいのに」
「国都を?」
「野球をするみんなを、です」
「そっかぁ」
「もちろん陽ノ本先輩も!」

帝徳の野球部は人数が多い。そうなると当たり前だがクラスには何人もの野球部がいることになる。そのクラスメイトの応援をしたいという気持ちもわかるし、彼女の場合、国都を通して知り合った先輩もいるから尚の事なのかもしれない。

「俺から国都に言ってみようか?」
「え!いいんですか?」
「うん」

パッと彼女の顔が明るくなる。
別に教えてあげても全然いいけど、バレた時怒られるのは彼女だ。オレのせいで怒られるのは可哀想だと思うし、それとなく国都に打診してみよう。

「ありがとうございます!陽ノ本先輩!大好きです!」
「あはは、ありがとう」

このセリフは聞かせらんないな。




「すみません。先輩の頼みでも許可できません」
「あー」

やっぱり。ダメだろうなぁとは思っていたけど、取り付く島なく却下されてしまった。
本当に申し訳なさそうな顔をしている辺り、彼がいじわるで言っているわけではないことがわかる。もっとも、真面目な彼がそんな子供じみたことするわけないとは思っているけど。

「名前ちゃんに頼まれたんですか?」

細められた瞳。これで「うん。そうだよ」と言った日には、また名前ちゃんは怒られてしまうんだろうなぁと思って「ううん。俺の判断だよ」と伝える。嘘は言ってない。
国都は真意を見定めるでもなく「そうですか」と小さく頷いた。

「なんで、名前ちゃんに来てほしくないの?」

俺の質問に国都はきょとんとしたが、すぐに眉をゆるゆる下げて「来てほしくないわけじゃないんです」と、彼にしては珍しい小さな声でそう言った。

「球場は屋根がないから」
「え?あ、うん」
「夏場は暑くて熱中症になりかねない」
「名前ちゃんって体弱かったりする?」
「いえ、健康優良児かと」
「なるほど」

これは確かに過保護かもしれない。今どき小学生だって自分から熱中症対策をしたりするのだから高校生である彼女に熱中症の心配は考えすぎだと思う。まぁ、確かに夏場の球場は暑いけど。

「それに帝徳が試合するとなると球場も広いので迷子にならないか、とか」
「あー」
「応援してくださる方に声をかけられた時対処できるのか、とか」
「あー」

心配しすぎでは、と苦言を呈すのも憚れるほど真面目な顔で次から次へと取るに足らない懸念点が挙がる。これを論破するのは至難の業だろう。萎縮して言いくるめられ、縮こまる名前ちゃんの姿が頭に浮かんだ。

「なんだ、てっきり名前ちゃんが国都以外を応援するのが嫌なのかと思った」

流石に俺の考えすぎか、と笑ったが国都はピタリと固まって、ほんの僅かに目を見開いた。
あれ、思ってた反応と違うな。
鳩が豆鉄砲を食ったような、思いもよらないといった表情で「それは」と形のいい唇が動く。

「それは考えたこともなかったです。でも、なるほど、そうか……」

口に手を当てた国都は唸った。「ふむ……」と考えあぐねるように視線を下に向けていたが、最後には俺ほうへ真っ直ぐと向けられた。

「ありがとうございます。自分じゃ気づけなかったです」

部活の練習時のようにしっかりと頭を下がる。俺の考え方は彼にとって盲点だったらしい。多分、国都と名前ちゃんの関係性だとか距離感だとかを知っている人たちは真っ先に辿り着くだろうことなのに、天然なのか疎いのか。
もしかしたら俺は余計なことを言ってしまったのかもしれない。余計な感情を自覚させてしまったのかも。それは【嫉妬】っていうんじゃないか?という言葉はグッと飲み込んで微笑む。

「役に立てたなら良かった。でも、一回くらいは名前ちゃんに勇姿を見せてあげてほしいな」
「はい」

大きく頷いた彼が「もう決めてるんです」と笑った。

「初めての観戦は甲子園の決勝に来てもらう予定です」
「それは、」

「それは記憶に残るだろうね」と微笑めば彼は大きく頷く。彼の決意は寸分の揺らぎもなくテコでも動かさなさそうだった。
名前ちゃんには申し訳ないけど、これは国都の肩を持つしかない。
ふにゃふにゃの泣きそうな顔になる彼女の顔が思い浮かぶ。だけど夏、きっと国都が特等席で野球を見せてくれるから、と脳内で慰めておいた。