「申し開きがあるなら聞こうかな」



「申開きがあるなら聞こうかな」

教室のドア前で腕を組み仁王立ちになっているのは、この世で一番恐ろしい国都英一郎くんその人だった。ゆっくりと細められた瞳はいつもの優しさを潜めてとても冷ややかで、自然と背筋が伸びる。行く手を遮るように立ちはだかるその姿は教師の何千倍も恐ろしい。

「あの、えっと何で怒ってるのか分かんなくて」
「怒ってないよ」

絶対怒ってるじゃん、とは言えなくて俯く。

「怒ってないけど、そう聞くってことは怒られる節があるってことでいいかな?」
「……多分」

だって稀有な昼休みの時間に隣のクラスにやってくるなんて、普段の彼からは想像がつかない。いつもの彼は休み時間だろうと時間を惜しまず野球の向上に費やしているのに。それに開口一番の『申開きがあるなら聞こうかな』というのも完全に私に非がある言い方だ。そんな言い回し、彼以外からは聞かないだろう。
私の何に怒っているのか言ってくれれば早いのに、と不満を口にできない。180センチ以上の彼に見下ろされ、圧をかけられ、反論できる人なんてきっと誰もいない。

「ヒントが、欲しいです」
「クイズじゃないんだ」

この正論マンめ。
ぐ、と拳を握って口を曲げ、この状況が不服であることを表現してみるがまったく掬い取ってはくれない。いや、多分気づいて入るけど無視しているのだ。私が彼を怒らさせた原因を見つけ出し、謝るまで。

「……飛高先輩に電子辞書借りたこと?」
「へぇ。それは初耳だな」

あ、違ったっぽい。墓穴だ。
彼が纏う雰囲気がもう一段階重く、冷たくなる。
額に冷たい汗が伝う。おかしいなまだ春なのに体は真夏の炎天下にいるかのように暑く、気温は真冬の豪雪の中のように寒い。

「陽ノ本先輩にジュース奢ってもらってまだお礼してないこと?」
「先輩に?へぇ」

あ、これも違う。もうやめてほしい。早く答えを教えて欲しい。国都くんも拉致が開かないと思ったのか、はたまた時間がないと思ったのか「門限」とだけ呟いた。あ。

「昨日、友達とファミレスで20時まで話してたこと、ですか」
「ご名答」
「やった!」
「……」
「……」
「……」
「……謝らない」

別にファミレスで駄弁ってようがジュースを奢ってもらおうが国都くんには関係ないのに。
彼と私は幼稚園時代からの幼馴染で昔から真面目でしっかり者の国都くんとその後ろをついて回る私。お世話する側とされる側、それがスタンダードな認識だった。学年も同じなのに、圧倒的に彼の方が立場が上のように感じるのは不思議な話なのだが、それを許されるくらいに彼は有能で真面目で正しい。だから例えば「門限は18時」と謎のルールを課されても歯向かうことはできない。思い返してみると、門限以外にも「誰とどこで遊ぶかは事前に教えて欲しい」とか「忘れ物は俺が貸すから、他の人に迷惑をかけてはいけない」とか、あなたは私の親?彼氏?でしたっけ?と言いたくなるようなルールがたくさんある。
が、彼に意見するなんて恐れ多いことできるはずなく、なんの抵抗もせずにここまできた。そんな私だって今や華の女子高校生、小学校の頃のアホな私とは違うのだ。なのに彼は依然として、私のことを小学生のように、下手したら赤ちゃんのように扱ってくるのである。
だって門限18時って。私、寮生じゃないんですけど。寮母さん曰く野球部だって(練習の諸々をのぞいた日は)門限20時だというのに。私だけ18時。
明らかにおかしい。クラスメイトも友人も多分、おかしいと思っているけど、誰も口にしない。なぜなら彼が正しいと思っているからだ。彼の言うことに従っていれば私は幸せで安全だと思っている。誰も私の味方はいない。

「別に提出物の確認してただけだもん」
「それは門限を破ってまですること?」
「いつも期限は守れって言うじゃん」
「名前ちゃんは優先順位も分からないの?そんな時間にファミレスいることが優先されるとでも?」
「そんな時間って20時だよ?みんなもっと遅くまで遊んでる」
「みんなの話はしていない。名前ちゃんの話をしてるんだ」
「だとしても18時はおかしい!」

反論し始めたら勝てる気がした。今日という今日は負けない。せめて門限だけでも撤回してもらいたい。意を決して叫ぶ。
「18時なんて全然明るいじゃん!小学生だって公園で遊んでるし!それに―――「名前」」

いつもの数倍低い声。私の勢いがシュワシュワと失われていくのがわかる。

「返事」
「……はい」
「門限は何時?」
「18時、です」
「うん」

頭を撫でられる。これじゃ、小学生でも赤ちゃん扱いでもなくてペットだ。ぐ、と唇を噛み締める。まだ諦めちゃ駄目だ。こんなことだから、いつまでたっても上下関係があり続けてしまうのだ。同い年なのだから、そんなのは間違っている。

「で、でも、さぁ!」
「……」
「……」
「……」

ダメだった。絶対零度の瞳に見られたら言いたいことの一つも言えない。苦痛で地獄みたいな時間が経過する。謝れば済む話なのは明らかだが、謝ってしまうと進展はない。

「国都、あ」
「なんだなんだ」
「うお、びっくりした。こんなところで何やってんだ?」

移動教室だろうか。小脇に教科書を携えた野球部の先輩達が廊下の向こうからやってきて、パッと空気が変わった。
私にはまるで彼らがこの地獄から救ってくれる天使のように見えた。が、状況判断がすこぶる早い小里先輩は、私達の顔を見ると彼の誇る俊足ではるか向こうに行ってしまった。
千石先輩も「ほどほどにな」と苦笑い気味についていった。残るは陽ノ本先輩のみ。私は縋るようなきもちで「陽ノ本先輩!」と名前を呼んだ。
優しく聡い陽ノ本先輩さ私が怒られている、というのを瞬時に察したようで「あんまり怒ってあげないで」と彼を諭してくれた。優しい。大天使。私はブンブン首を縦に振って陽ノ本先輩の方に駆け寄ろうとしたが、ぐん、と手首を掴まれて引き戻された。

「陽ノ本先輩」
「んー?」
「名前にジュースを買ってくださったそうで。ありがとうございます。後日お礼を持っていきますね」
「いいのに、全然。美味しかった?」
「とっても!ありがとうございました!」
「あはは」

ギュ、と掴まれている手首に力がこめられる。痛くはないがダイレクトに国都くんの感情が伝わってドギマギしてしまう。

「二人も喧嘩しちゃダメだよ」
「はい。すみませんお見苦しいところを見せてしまって。でも僕と名前は仲良しなので」
「そうなの?」
先輩が私を見下ろして首を傾げた。【仲良し】なんて恐ろしい響き。ブンブン首を横に振った。ギュ、また手首が軋む。

「ナマエ、仲良しだよね?」
「ち、ちが」
「ナマエ」

まるでよく躾された犬だ。名前を呼ばれただけで私は肯定するほかなくなる。ゆっくり頷き「トッテモナカヨシ」とカタコトで答える。

「そっか」

先輩はにっこり笑って「それはいいことだね」と廊下の奥へ消えていった。彼の背中が見えなくなるまでジッと国都くんは見てめている。私も何も言わないので静寂が戻ったが、完全に戦意喪失してしまった私は門限撤回交渉を諦め「ごめんなさい」と謝った。ぎりぎり聞こえるか聞こえないかの声なのがせめてもの反抗心だった。

「怒ってないよ。心配なだけ」
「ん」
「そんな顔しないで」

そんな顔、とはどんな顔だろうか。自分が今どんな表情をしているかはわからないが明るい顔ではないはず。半ば無理やり笑顔を作って国都くんを見上げれば、彼も目を細めてうっすら笑う。良かった、事なきを得たようだ。昼休み終了のチャイムが響き、教室がざわめき始めた。解散する最高のタイミングだ。

「国都く「続きは明日にしようか」……続き、とは?」

にっこり、それはそれは綺麗な笑顔を私に向ける。ひゅ、と息を呑んだ。

「飛高先輩に電子辞書をかりた事、陽ノ本先輩に餌付けられてる事、僕と話している最中に他の男の名前を呼んだ事」

国都くんが「言い訳、ゆっくり聞いてあげるから」とそう言いながらゆっくりとその大きな手で私の頬を撫でた。
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