前途多難な千早瞬平




「千早、彼女いたんだ」

朝のホームルーム前、教室に入ってきたクラスメイトが俺の姿を認めるやいなや、そう話しかけた。

「しかも沖縄に」
「いや、え?」
「藤堂くんの彼女さんは北海道なんだっけ?」

めっちゃ遠距離じゃん、と疑うことなど知らないように彼女が笑う。やばい、と冷や汗が吹き出しそうで、心を落ち着かせようとメガネのブリッジを人差し指で弄ぶ。

「ど、どこでそれを?」
「要くんが言ってたよ。要くんの彼女さんはカンボジアにいるって」

信じるなよ、そんなわけないだろ、ていうかなんてことを、誰に言ってくれたんだあのバカ、と募りまくる鬱憤をなんとか飲み込んで「それ、冗談ですよ」と涼しい顔を試みる。

「その場のノリです」
「え!藤堂くんの北海道も要くんのカンボジアも!?」
「いや、それは知らないですけど。とにかく俺に彼女はいないです」   

目をぱちくりと瞬かせた彼女が「そうなんだ」とびっくりしている。どうやら誤解は解けたようで「びっくりしちゃった」と屈託のない笑顔見て、俺は内心、安心しつつ、その笑顔に心臓が飛び跳ねた。真向かいで見るには些か刺激が強い。
まさか、後輩に尊敬されたいがためについた嘘が、回り回って自分の想い人に伝わってしまうとは。
彼女は野球部に全く関係がないから油断していたが、どこからどう自分の発言が広まるかわからないから、これからは気をつけないと、と自省し、でも、そのおかげで彼女から話しかけてくれたのだから儲け物だ、とない混ぜになった感情を落ち着かせるよう、こほん、とひとつ咳払いをした。

「今までそんな話してなかったから驚いたんだよね」

そりゃそうだろう。恋人なんて生まれてこの方存在していないのだから。
まさか、想い人と朝から恋バナをする羽目になるとは思わず、だけど、またとないチャンスだと思った俺は、ちょっと踏み込んでみることにした。一介のクラスメイトと距離を縮めるためには自分からアクションを起こさないといけないから。

「俺に恋人がいるかどうかって、そんな気になりますか?」

うわ、今の聞き方、もしかしてキモかった?俺様すぎた?
野球の駆け引きは慣れているけど恋愛の駆け引きなんて全くわからないから、思ったままを口にしてみたのだが、どうにも間違った気がして、「あ、」とか「いや、」とか童貞丸出しの戸惑い方をしてしまった。
そんな俺に対し目の前の彼女はきょとんと呆気に取られたような顔をしたかと思うと「うん」と素直に頷いた。

「気になるよ!」
「え、気になるんですか」
「うん、だって、話題が一つ増えるじゃん。恋バナできるって大きいよ」
「恋バナ‥‥」

恋バナ。恋の話。
その響きがなんだかむず痒くて、だけど話題が一つ増えるということは、彼女は俺との会話を望んでいると受け取ってもいい気がして、嬉しくて、俺は緩む口元を誤魔化すようにもう一度咳払いをひとつした。そして、彼女に向き直り、口を開く。このチャンスを逃すな、と自分に言い聞かせながら。

「恋バナくらい、いつでも付き合いますよ」
「え!本当!?意外千早、そういうの苦手だと思ってたのに!」

苦手だけど、そんなことも言ってられないだろう。好きになってからなんの進展もなかったのだから。
彼女はくすくす笑いながら、俺の前のまだ本当の持ち主が登校していないがために空いている椅子に座った。

「彼女いないなら、好きな人は?」
「‥‥‥‥‥‥‥います」
「うそ!?すごい!本当に恋バナできるじゃん!誰々?何組!?可愛い!?」

貴女ですが。
というかシチュエーションがよろしくない、というかまだ全然早い。

「言わないですけど」
「照れないで教えてよ!応援するからさ!」

脈がなさすぎて、ついついため息が出てしまった。そんな俺をみて「え、なんでため息?前途多難な感じ?」とちょっと驚くので「とても前途多難です」と頷いて見せる。

「山あり谷ありです。なんなら川もある」
「すごいね。あ、もしかして高嶺の花に恋しちゃってる感じ?姫倉先輩とか?」
「違います。同級生です」

あまりに見当違いのことを言うものだから、最大限のヒントを与えてみるも、「同級生かぁ〜」と腕を組んで難しいクイズに挑んでいるような顔をする。
まさか、その相手が自分だとは1ミリも思っていない悩み方だった。まぁ、でもそれは仕方がない。俺が勝手に想いを寄せているだけで、彼女になんのアプローチもしていないのだから。
クラスの中ではそこそこ話す仲ではあるが、そもそもそういう対象に見られてすらいない気がする。山あり谷あり川もあり、海まである。

「まぁでも、千早は賢いし優しいから大丈夫だと思うよ」
「‥‥‥貴女も、」
「ん?」
「貴女もそう思いますか?」

あ、やばい、踏み込みすぎたかもしれない、と思って咄嗟に撤回をしようと口を開くより先に「思うよ」と彼女が大きく頷いた。
その一言が嬉しくて俺はにやけそうになる顔を必死に堪えながら「頑張ります」と頷いた。
と、同時、ホームルーム前のチャイムが鳴り教室にいた生徒達が自分の席に戻り始める。
彼女も自分の席に戻ろうと立ち上がったとき、「はよ」となんとも眠そうな声が降ってきた。

「おはよ、藤堂」

ギリギリのタイミングで登校してきた藤堂くんが隣の席に着くと、カバンから取り出した教科書を机の中にしまいながら「朝から仲良いなお前ら」とかって知ったるような口ぶりで茶々を入れてきた。そう。なぜか、彼にはバレてしまっている。彼女のことが好きであると。
曰く、「同じクラスだし、隣の席だし、なんとなく見てれば分かる。姉貴の恋愛漫画とか読むし」だそうだ。信憑性にかけるとは言え、言い当てられたらぐうの音も出ず、絶対に言うな、余計なことをするな、と釘を刺したのは記憶に新しい。

「聞いて藤堂、千早、好きな子いるんだって」
「へー」
「誰か分かったら私にも教えてね」
「あー」

なんとも言えない返答を繰り返す彼に「藤堂の北海道の彼女さんの話聞かせてね〜」と自弁の席に戻っていった。
藤堂くんの視線がこちらに向いているのが分かるが、決して彼の方は見ない。

「脈、なさすぎねぇか?」
「うるさいですね」

こっからなんで、黙ってみててください、と言ってみたはものの、何の策もない。
自分の席に戻った彼女の背中を見つめながら、俺は小さくため息をついた。
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