陽ノ本照夜の好きな人


一度だけ兄貴の彼女と家で会ったことがある。 

俺が中1で兄が中2の時、明るい黄色のワンピースを着て、綿毛みたいなふわふわな髪の毛を下ろしたどちらかと言えば“可愛い”という部類に入るような女の人だった。
どうして学生時代の年齢って一歳しか変わらなくてもあんなに大人に見えるのだろうか。
兄の横に立って「当くんの弟さん?」と首を傾げた彼女は驚くほど大人に見えた。
年上の女性と会話するのなんて母親くらいしかいないから、突然の質問に声を詰まらせる俺を見て「そう。ほら、照夜、挨拶して」と代わって兄貴が答えた。幼ながらに「名前くらい自分で言えたのに」と思ったのを覚えてる。
ドギマギと黙り込む俺はそのあと何か言ったのか、何も言ってないのか思い出せない。ただ、なんとなく恥ずかしくて、居心地が悪かった。
そんな俺を見て、彼女は微笑んでいた。

「照夜くんって言うんだね。苗字名前です、よろしくね」

と言った。合唱だったらソプラノ担当するんだろうな、と思える高く落ち着いた声は、俺のクラスにはいない耳障りの良さだった。
あの瞬間、彼女の所作と声を今でも鮮明に思い出せる。

俺は、兄の彼女が好きだった。



俺が知っていたことは、名前と、部活と、彼氏が兄貴であること、兄貴と同じクラスであること、それくらい。
学校は一緒だが学年は違い、クラスがある回数も違うため、校舎内で会うことはほとんどない。でも、時たま移動教室の時なんかに渡り廊下で会うと、お互い「あ」といった表情をするだけで、会話は特にない。でも、あの時の俺は名前さんが俺のことを認識している、というその事実だけでその日一日が幸せだった。
親曰く、その後も何回か家に来ることもあったらしいが、兄貴と名前さんが一緒にいるところなんて見たくなくて、何かと理由をつけて家にいないようにしていた。

学年が上がってからは兄貴も俺もどんどん野球に本腰を入れ始めたこともあってか、結局二人がどうなったか分からないまま、兄貴も名前さんも卒業してしまった。
もう、完全に名前さんへの想いは冷めていたと思ったのに、卒業式、名前さんの名前が呼ばれた時にやけに緊張し、もう見ることのないであろうその後ろ姿をじっと見つめた。退場する時、name2#さんが俺を見て微笑んでくれたのは気のせいではないと思いたい。

名前さんがどこの高校に行ったのかは知らない。誰かに、というか兄貴に聞けば確実に分かるだろうが、知ったところで、という気持ちと、忘れてしまいたい、という気持ちがあった。中学から高校に上がる時、周りも気持ちも諸々リセットされる。また、ゼロから新しい環境で頑張ることができる。どうしようもない、持て余してしまう感情は捨ててしまいたかった。
なのに、

「名前さん、‥‥?」

小手指高校の入学式。宝谷シニア時代、憧れだったバッテリーを追ってあえて帝徳ではなく選んだ小手指高校。
そこに、忘れようと思って忘れられなかった彼女の姿があった。何も、何一つも変わっていない。そりゃ、一年やそこらで目に見入る変化はないだろうけど、俺は身長も伸びたし声変わりもした。野球も、兄貴と並べるかもしれないくらい、上手くなった。
そんな俺を見て欲しかった。
気づくともう一度、さっきより大きな声で名前を呼んでいた。

声に反応した名前さんが、ふわふわの髪の毛を靡かせて振り返り、俺の姿をビー玉みたいなまん丸の瞳に映す。
忘れていてもおかしくない。彼氏の弟、それもちゃんとした会話なんてほとんどない相手だ。しかし、名前さんは二、三度瞬きをした後に「照夜くん?」と恐る恐る尋ねた。

「はい!陽ノ本照夜です」
「わ、わぁ~!すごい!久しぶりだね!身長伸びた?」

何も変わらない声色は、一気に初めて会った時の淡い気持ちに引きずり戻した。覚えていてくれて嬉しい、同じ学校で嬉しい、また話ができて嬉しい。いろんな嬉しいが募って言葉を阻んだ。

「小手指の野球部にはいるの?」
「は、はい!シニアの時の憧れの人がいて」
「清峰くん達だね」
「し、知ってるんですか?」
「うん。色々あってマネージャーの手伝い?とかしてて」

ぎゅっと心が伸縮する。野球は俺と兄貴を繋いでいて、もしかしたら兄貴と名前さんも繋いでいるのかもしれない。
兄貴の行った帝徳は全寮制だ。スマホも原則禁止だと聞く。付き合っていくのは苦労するだろうし、もしかしたら恋愛も禁止かもしれない。だが、弟から見ても優しく頼りになる兄貴が、一度付き合った人と簡単に別れると思わなかった。もしかしたら、まだ、付き合ってるかもしれない。色々な憶測が浮かんでは消え、何も分からない焦燥から一番口にしたくないことを聞いていた。

「帝徳に、行かなかったんですか?」
「帝徳?」
「兄貴がいるのに。もう、別れたんですか?」

どう答えて欲しいのか分からなかった。
好きな人同士が付き合うなんて嬉しいには違いないから「別れてないよ」と言ってほしい、その反面「別れちゃった」という言葉が返ってきてもなんとなくホッとするかもしれない。どうにもならない感情が綯い交ぜになって自分でもよく分からない。
名前さんは俺の質問に、ポカンと不思議そうにして、数秒経って笑い始めた。
何がおかしいのか分からなくて、今度は俺が困惑する番だった。

「なんで笑うんですか」
「ごめんごめん。照夜くん、勘違いしてる。私、当くんと付き合ってないよ」
「え」

笑い泣きするように人差し指で目尻を撫ぜた名前さんが「ただのクラスメイト」と言う。

「いや、でも家に遊びにきてたじゃないですか」
「あぁ!あれね、私たち学級代表だったから。色々決めなくちゃいけないことが多くて。土日とか放課後残れない時はおじゃましてたの」
「なんだ、そんな‥‥」

全部俺の早とちりだったのか。
そう、ホッとする自分がいて俺はかぶりを振った。捨てるんだろ、忘れるんだろ、ゼロから頑張るんだろ。
そうか。正真正銘、俺はゼロから頑張れるのか。そのチャンスが巡ってきたのか。

「名前さん」
「ん?」
「俺、野球頑張ります。だから‥‥だから、俺のことを応援してください」

一世一代の告白みたいなテンションで俺は言った。今、できる、伝えることのできる全てだったと思う。今、この場に兄貴はいない。名前さんは兄貴の弟としての俺ではなく、まっすぐ陽ノ本照夜としての俺を見てくれている。
初めて会った時みたいに優しげに微笑んだ彼女が、初めて聞いた時みたいな優しげなソプラノで「当たり前」と言った。
一歩、二歩、近寄った彼女がトン、俺の胸を叩く。

「目指せ甲子園、だよ。頑張れ期待の新人」

初めて触れたその手の温かさをきっと俺は一生忘れないだろう。


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