君が教えてくれたもの(美馬)

五月の半ばになって日差しがだいぶ強くなってきた。
雲一つない青空の下、ジャージと軍手、麦わら帽子というフル装備で野球部のグラウンドに立っている。周りを見渡しても誰も居ない。


『やっぱり』


こうなることはある程度予測してた。
休日の土曜日に学校まで出てくる生徒は多くない。
勿論部活に参加するために出てくる生徒は沢山いる。
ただそれが園芸委員の仕事で、尚且つ自由参加だとしたら、参加人数は限りなく少ないだろう。
それでも数人はいるかと思ったんだけどなぁ。
職員室で園芸委員の先生にごみ袋、軍手、麦わら帽子、スコップを渡されたのはどうやらこういうことだったらしい。
しかも先生は先生で学校の花壇でやることがあるとか…酷い。
ふっと漏れた溜息を心地好い風が掬い上げていく。


『仕方無いかぁ』


気持ちの良い風が俯いた心を上に向かせる。
落ち込んでも仕方無いし切り替えてグラウンド周りの草取りをしよう。


今日は関東大会初日で、いつもならグラウンドで声を出し練習に励んでいる野球部員はいない。
レギュラーが遠征している間残って練習している二軍の選手達すらいないのだ。
一人ぽつんと野球グラウンドの真ん中に立つとまるでこの世に一人取り残されたような気持ちになる。
せっかく風のおかげで気分が前向きになれたのだから後ろ向きはダメだ。落ち込みそうになる心を首を振って否定し空を見上げる。あぁ本当に良い天気だ。
全部は無理にしろやれるだけやってみよう。
自分を奮い立たせて草取りを始めた。


普段は保護者の方達が草取りをしてくれているらしくそこまで目立つ雑草は見当たらない。
これなら別に園芸委員がやらなくても良かったんじゃないかとすら思ってしまう。
根の深い雑草をスコップで掬い一人物思いにふける。こうなったのも昨日の委員会が原因だ。


「野球部がね、明日から関東大会出場するんだよ。だから私達もやれることで彼らを応援しよう」


金曜日の委員会でニコニコと穏やかに告げた先生の顔が浮かび笑ってしまった。
先生が提案したことだと言うのに本来やるべき園芸委員の仕事を忘れていたとかあの先生らしい。
新任で早々に園芸委員会を任されて張り切っているのはわかるけど、忘れてたとか抜けてるなぁ。でもそれがあの先生の良いところなんだろう。穏やかで笑顔を絶やさず、それでいてどこか抜けていて親しみやすいと生徒に評判だ。


『さて、頑張りますか』


今頃先生も必死に花壇と奮闘していることだろう。
去年から引き続き園芸委員をしている私とは違い先生は今年が初めてだ。
また何か失敗して困ってそうだなぁ。そんなことを想像しながらの草取りは意外と楽しかった。


「椎名さーん!そろそろお昼にしましょう!」


無心に雑草と格闘を続けていたら、いつの間にかお昼になっていたらしい。
名前を呼ばれ顔を上げると遠くで自分と大差ない格好をした先生が片手を大きく振っている。
それに答えて立ちあがり先生の元へと向かう。


「お疲れ様、調子はどう?」
『なんとか頑張ってます。先生は?大丈夫ですか?』
「此方もなんとか奮闘中。土いじりなんてしたことなかったから新鮮なの」


ニコニコと頬に土をつけて無邪気に先生は笑う。
私よりよっぽど学生らしい反応だ。去年の私は園芸委員のお爺ちゃん先生に文句ばかり言っていた。
そのお爺ちゃん先生が定年退職して、入れ替わりでやってきたのが目の前にいる先生だ。


「先生ね、お弁当作ってきたの。椎名さんと一緒に食べようと思って。あ、もしかしてお弁当持ってきちゃった?作り過ぎちゃったから一緒に食べようと思ったのだけど」
『大丈夫です、コンビニで済ませようと思ってたので』
「なら良かった!それなら一緒に食べましょう!」


片手のトートバッグはどうやらお弁当だったらしい。
あまりに無邪気に先生が誘うから『午前中で終わりかと思ってました』とは言えなかった。
それから先生と二人、外野のフェンスの裏にあるベンチを借りてお弁当を食べることになった。


「いいなぁ、懐かしい」
『何がですか?』


手作りサンドイッチを頬張りながら気持ちの良い風に身を委ねていたら隣から声が届く。
確認すれば先生もリラックスしたようにサンドイッチを噛り周りを見渡している。


「先生ね、学生時代野球部のマネージャーやってたの」
『そうなんですか?』
「ふふ、そうなの。あの頃は楽しかったなぁ」


先生は思い出すようにすっと目を細めて口元に笑みを浮かべる。
運動部のマネージャーなんて休みもなくて重労働で、特に外の部活なんて日焼けだってするし大変なことだらけだろうに何がそんなに楽しいのか全くわからない。
私が何も言わなかったのを変に思ったのか先生が視線を此方に向ける。


「あ、そっか。椎名さんって帰宅部だっけ?」
『はい』
「中学の時は?」
『文芸部だったので』
「あぁ、そうかぁ。運動部とは縁がなかったのね」
『そうですね、運動もあまり得意じゃないので』
「運動部のマネージャーなんてぶっちゃけ大変だし面倒って思っちゃう?」
『えぇと、はい』
「ふふ、正直だね椎名さんは」


私の返答に今度はクスクスと笑う。
一頻り笑うとすっと表情を引き締めた。
その表情が大人特有のものみたいに感じられて自然と背筋が伸びる。
さっきまであんなに無邪気な表情をしていたのに不思議だ。


「でもね、いいものだよ。特に野球部のマネージャーは特別なの」
『特別ですか?』
「自分がやってたってのもあるよ。でもね、やっぱりあの場所は特別。勿論他の部活のマネージャーだって同じだと思うけど、経験してるとやっぱりね。椎名さんはそういうものってない?」
『特に思い当たりません』
「帰宅部ならそうだよねぇ。塾とか行ってるの?」
『それなら今日来れてませんよ』
「あ!なら何か習い事とか?それとも家で部活禁止って言われてるの?門限が厳しいとか?」
『全部違います。ただ入りたいと思う部活がなかったので』
「本当に?高校時代の部活って大事なのになぁ。今からでもどこか入部しないの?」
『高二のこの時期からの入部って中途半端じゃないですか?』
「あぁ、そうだよねぇ。でも絶対にやりたくないとかじゃなければチャレンジしてみればいいよ」
『機会があれば考えてみます』


帰宅部の私にはわからない何かキラキラとしたものを先生は持っている。
特別の中身を教えてもらったわけではないけど、それでも先生の表情を見てればわかった。
学生時代の野球部マネージャーの思い出が先生にとってどれだけ大切なものなのか。


「あーあ、本当は応援に行きたかったなぁ」
『今日勝てば明日も試合あるんじゃないですか?』
「そうだけど、明日も花壇と奮闘しなくちゃ。今は園芸委員会の担当教諭だから」
『そうですか』
「椎名さんは?明日はどうするの?」
『先生って本当にズルい。来ますよ、来ます』
「良かった!じゃあなるべく綺麗にして野球部の人達に喜んで貰いましょ!」


明日も草取りをしなきゃと思うと少し憂鬱な気持ちになる。けど、明日もお昼に先生はお弁当を作ってくるだろう。その時に先生の学生時代の話をもう少し聞いてもいいかなって、そんな気持ちになれた。


日曜日も気持ちの良い青空が広がっている。
昨日と同じように朝から草取りに励む。
お昼には予測した通り先生がお弁当を持ってやってきた。
先生は料理上手らしくお弁当は美味しい。
ついでに高校時代の話を聞くと途端に目が輝いた。
野球部のマネージャー業は私が想像してた以上にハードだったと言うのに先生はその一つ一つが大切な思い出になっていると語ってくれる。
何もしていない自分がちっぽけなものに感じて少しだけ羨ましくなった。


『私も何かしとけば良かったかも』
「ふふ、今からでも遅くはないんじゃない?」
『いやいや、手遅れですよ』
「そうかなぁ?」
『今からじゃやっぱり半端になっちゃうし』
「そんなことない、全然そんなことないよ」


先生は私の背中をぐいぐい押してくる。
何かをやっておけば良かったかなとは思ったものの実際に何をしていいのかは思い付かない。
運動部は論外だし文化部だって二年のこの時期から入部して何が出来ると言うのか。
家庭科部や中学の時に入ってた文芸部ならまだやれることはあるかもしれない。でも既に輪が出来ているであろう部活に単身乗り込んでいく勇気はなかった。
人と馴染むのに時間がかかる自分には難易度が高そうだ。


午後は先生と二人で草取りをする。
日が暮れる頃にはなんとか目立つ草を取り除くことに成功した。
二日連続先生に付き合って草取りをするためだけに学校に来るなんて我ながらバカだなぁって思ってたけど終わった後の綺麗なグラウンド周りを見て先生が晴れやかに笑うから私もそれにつられてしまった。
部活をするには遅すぎたけどこの経験はしておいて良かったのかもしれない。
いつか先生みたいに大人になって思い出せたらいいななんて、そんな夢みたいなことをぼんやり思った。
たった二日間の草取りだから一年後には忘れてしまうかもしれないけど、でも今は確かにそう思ったんだ。


関東大会の結果は準優勝だった。
高校野球のことなんて全然わからない。
それでも関東で二番目に強いってことは凄いことなんだって、そう思ってた。
全校集会で野球部の彼らを見るまでは。
舞台の上に並び全校生徒から拍手を浴びる彼らの瞳は少しも、微塵も嬉しそうには見えなかった。
不思議に思うもそれを尋ねることの出来る野球部の友人なんていない。
親しい男子の友人の数はゼロだ。
だからこの時の疑問は直ぐに忘れることになった。


「椎名さん椎名さん」
『えっと、何か?』
「何かね、三年の先輩が呼んでる。あの人野球部の美馬先輩だよ。知り合いなの?」


昼休み、昼食を食べ終えて直ぐにクラスメイトに声を掛けられる。
野球部の美馬先輩?クラスメイトの視線を追うと教室の入口に美馬先輩らしき人物が立っていた。
朝全校集会で野球部のレギュラーとして舞台に立ってた人だ。
話したこともなければ面識もない。顔だって今日初めて知ったくらいだ。
そんな人が私に何の用事があるのか皆目検討もつかない。


『初めましてだと思う』
「そうなの?とにかく私は伝えたから」


私の答えに途端に興味をなくしたのかクラスメイトは自身のグループの方にさっさと行ってしまった。
考えてもわからないし、呼ばれたからには私に用事があるのだろう。不思議に思いつつも美馬先輩の元へと向かう。


『あの、』
「お前が園芸委員の椎名?」
『はい』
「そうか、すまないが今日の放課後に園芸委員会の担当教諭と一緒に野球グラウンドまで来てくれないか」
『どうしてですか』
「時間は取らせない。数分で終わると思われる。何か予定があるのか?」
『それはないです』
「なら頼んだぞ」
『…わかりました』


女子生徒達の視線が突き刺さる。目の前の先輩はそんな視線に気が付いていないのか、それとも気にならないのか、涼しげな表情で用件を告げていく。
この顔立ちなら女子生徒からの人気も凄そうだ。どこか他人事にぼんやりと考えていたら別れ際に先輩がふっと笑ったような気がした。
確認しようにも既に背を向けて廊下を歩いていってしまう。
気のせいだろうか?先輩が表情を崩すようなことを言ったつもりも行動もしていない。
それなら気のせいだろうと、自分の席に戻った。
午後の授業中は終始何故グラウンドに呼ばれたのかを考えることに費やした。
何か野球部にとって良くないことでもしてしまったのか?
先生に言われた通り極力グラウンドには入らなかったし何にも触らなかったとは思うけど、それ以外に呼ばれる理由が見当たらない。
そうこうしてるうちに午後の授業が過ぎ去って放課後となり、先生と共にグラウンドへと向かうことになった。


『あの、何で呼ばれたんですかね?』
「ふふ、行ってみたらわかるよ」
『何かお叱りですかね?何も触ってないと思うんですけど』
「お叱りならその場で受けたんじゃない?そう気にしなくても大丈夫大丈夫」


先生は見当がついているのか気楽に歩いている。お叱りじゃないとするのならますます呼ばれた理由がわからなかった。


「わざわざ呼び出してすみません」
「いえ、お気になさらず。今日は花壇の手入れもなかったですから」
「此方にどうぞ」
「行きましょう椎名さん。きっとびっくりするよ」
『びっくりですか?』
「えぇ、絶対にね」


監督に挨拶をして三人で部員達が練習を始めているグラウンドに向かう。
私達が着いた途端に「集合!」と声が掛かり全ての部員が一斉に此方へと向かってきた。
その統率された動きに面食らう。先生が言ってたのはこのことなんだろうか?
私達三人が並ぶ前にざっと部員達が集まる。
ものの数十秒のことだった。いったいこれから何が起こると言うのだろう?


「土曜日曜とグラウンド周りの草取りありがとうございました!」


緊張感に包まれていたら一人が声を上げる。
それに合わせて全ての部員が「ありがとうございました!」と声を出して頭を下げた。
わざわざ私と先生のために練習を中断しここまでしてくれるなんて想定外過ぎて驚きだ。
圧巻と言っても良いかもしれない。


「ね、驚いたでしょう?野球部って凄いでしょう?」
『はい』


先生は嬉しそうに私にだけ聞こえるように囁いた。
ここまでしてもらおうと思ってやったことじゃない。お礼を言われたかったわけでもない。
断れず、ただなんとなく付き合った行為にこんな風にお礼を言ってもらえるなんて、上手く気持ちを言葉に出来そうにもない。
彼らの熱量を真っ直ぐぶつけられたみたいに身体が熱い。


「ねぇ椎名さん、先生から提案があるのだけど」
『何ですか』
「野球部のマネージャーやってみない?きっとね良い経験になると思うの。こんなに強いのにうちの高校今マネージャーいないんですって」
『えっ』
「それは良い提案ですね」


彼らの熱量を真っ向から受け止めていた。
これもきっと数年後には良い思い出になる。
先生のキラキラとした経験には敵わないけど野球部は特別だと言い切った意味がなんとなく理解できた。
あぁ、本当に凄いんだなぁ。そんな風に思っていたところに爆弾が投下されてまたもや驚いてしまう。
反射的に先生を見れば悪戯が成功率した子供かのように茶目っ気たっぷりに微笑んでいる。
隣の監督もそれに同意し頷いている。


『あの、でも私もう二年生ですし』
「まだ一年以上ある」
「ですよねぇ」
『私が野球部のマネージャー?』
「そうよ」


先生の提案は現実的じゃない。
私が野球部のマネージャーなんて、絶対に向いてない。
なのに、たった二日草取りをしただけの私達のためにお礼を告げてくれた部員達の姿が頭から離れない。
あぁ、抗えるはずがない。
私は嬉しかったんだ。自分がした些細な行為にお礼を言われて心底嬉しかった。
そしてまた草取りくらいならしてもいいかなと思ってしまったんだ。


『愛想なんて何もないです』
「そんなものはいらない」
『マネージャーが何をしていいかも知りません』
「それは当たり前だ。ただ君がマネージャーをしてくれるならその分練習出来る部員も増える。今は一年に任せてるからな」
『それでも良ければやってみます』
「ふふ、良かった。椎名さんがマネージャーになってくれるのなら先生も嬉しい」


ワッと場が沸いた。
私の返答を待っていたのか部員達が各々喜んでくれている。
これはさすがに気恥ずかしいものがあった。


『足りないところが沢山あるとは思いますが宜しくお願いします』


先程お礼を言ってくれた野球部員達のように丁寧に頭を下げる。
再び上がる喜びの声に頬が熱を持ちしばらく顔を上げることは出来なかった。
そうして私の野球部マネージャーとしての高校生活が始まった。


「夏まではあっという間だからね。悩んだら何でも聞いて、相談には乗れるから」


慣れるまで先生には色々と話を聞いてもらった。
何せ運動部の経験もマネージャーの経験もゼロ、野球のルールすらろくにわかっていなかったのだ。
そんな私がマネージャーなんて最初の一週間は自分でも信じれなかった。
早起きをして朝練に参加し一年生達に混じりマネージャー業を教わる。
土日には部員達のお母さん達に混じっておにぎりも握った。


「お前は王野に似ている」
『王野先輩ですか?』


慌ただしく一ヶ月が過ぎ、もうすぐ夏の予選が始まる。
毎日教わることばかりだった。
失敗も多かったと言うのに監督も先輩も同級生も後輩も何も言わない。
出来たマネージャーなんてまだまだ先の話なのに全員が日々私に「ありがとう」をくれる。
過去にこんなに沢山の「ありがとう」を貰ったことはなかった。
だからこそ余計に嬉しくて真っ直ぐ仕事に打ち込めた。
そんな日々の途中、練習試合に向かうバスの中で美馬先輩が私に言った。
美馬先輩以上にクールで、特にマウンドでは表情を崩さないと有名な王野先輩に私が似ている?


「そういうところが似ている。王野も同じ顔をしていた」
『まさか王野先輩にも同じこと言ったんですか?』
「あぁ、どんな表情するかと思ったんだがお前も王野も少しも表情が変わらないな」


美馬先輩は王野先輩の顔を思い出したのか喉を鳴らして笑っている。
女子生徒の間では先輩も王野先輩と同じくクールって評判ですよ。
この一ヶ月でわかったのはそんな風に思われてる美馬先輩が意外と表情豊かだってことだ。


『王野先輩に失礼だと思いますが』
「そんなことない、そっくりだぞお前達」


何がそんなに面白いのか、美馬先輩は相手校に着くまでの間終始楽しそうだった。
当の私は反対意見をことごとく潰されて、結局普段の生活でもそうやって笑えば先輩はもっとモテるだろうになぁだなんて現実逃避をすることになった。
試合の時は至極真剣だけど練習の合間は意外とみんなフレンドリーだ。
近付いて実際に接してみないとわからないことって案外沢山ある。
その筆頭が美馬先輩のような気がした。


『王野先輩、お隣失礼します』
「あぁ」


帰りのバスは王野先輩が隣だった。
バスに乗るたびに隣に座る先輩達が変わる。
最初は不思議に思ったし、空席はあるのだから好きな席に座ればいいのにと思ったけどもう慣れた。慣れてしまえば緊張することもない。
それでも王野先輩の隣はいつもより少しだけ緊張する。あんな話を聞いた後だから尚更だ。


『美馬先輩が変なこと言ったみたいですみません』
「…?」
『あの、私達が似てるって話です』
「あぁあれか」
『私は王野先輩に失礼だって言ったんですけど美馬先輩聞いてくれなくて』
「別に気にしてない」
『それなら良いんですけど』


少しだけ背筋を伸ばし小さく頭を下げる。
先輩は私の謝罪を涼しい顔をして受け流した。
試合の疲れもあるだろうし言いたいことだけ告げて後は黙っていようか、そんな風に決めたところで王野先輩の雰囲気が柔らかいものに変化する。
思い違いかと改めて隣を確認してみればいつもより確かに表情が柔らかい。これにはさすがに驚いた。


「なんだ」
『あの、えっと』
「俺が言うことじゃないが、美馬も含めてあいつらはマネージャーが出来たことが嬉しいんだ」
『は』
「椎名は驚いた時だけ表情豊かになるな」
『そんなこと』
「あるだろ、それが美馬は面白いんだと。前は俺にも色々言ってくることあったけど今は対象がお前に変わったからそれも含めて感謝してる」


嬉しい?それと面白い?私が?王野先輩に言われたことが衝撃的すぎて何も言えない。
王野先輩はそれだけ言うと腕を組んで目を閉じてしまったのでそれ以上の話は聞きたくても聞けなかった。
こうやって王野先輩と話をするのは初めてだ。
そっか、王野先輩だってただ単にクールってだけじゃないんだ。
誰だってそうかもしれない、こうして接して話してみないと本質はわからない。


それからは先輩だけじゃなく、同級生とも後輩とも積極的に話すようにした。
積極的と言っても性格上ぐいぐい行けるわけじゃなく、前よりほんの少し話し掛ける回数が増えたくらいの程度だけれど。
それでも私の変化は直ぐに周りに気付かれた。


「心境の変化でもあったのか?」
『美馬先輩、お疲れ様です』
「あぁ、お疲れ」


いよいよ明日から甲子園の県大会予選が始まる。公式戦は初めてのことで、正直不安だった。
必要なもののチェックの回数は片手じゃ足りない。何回確認しても大丈夫なのかわからない。
後輩に見てもらい同級生にも確認してもらって、それでも不安が残る。
彼らを長く拘束するわけにも行かず最終確認を一人でやってる時に美馬先輩がやってきた。
内心驚いて最初の言葉を聞き流してしまった。
心境の変化とは何のことを言ってるんだろう?


「その顔は何にもわかってないな」
『またそうやって』


いきなりやってきてあんなこと聞かれても理解出来るはずがないのに、何がそんなに面白いのか先輩は口元に笑みを浮かべる。
今は美馬先輩とそんな話をしてる場合じゃないのに。


「マネージャーが必死に明日の荷物の点検をしていて帰りそうもないって後輩に言われて俺はここに来たんだが」
『それは…すみません』
「少しはあいつらのこと信用してやるんだな。俺にも間違いなく大丈夫だって言ってたから今日はもう帰れ」
『でも』


チェック表と美馬先輩を交互に見て考える。
信用してないわけじゃないけどこのまま帰っても心配で寝れそうにない。
万が一何かを忘れてしまったら取り返しがつかない気がして心配でしょうがなかった。


「お前やっぱ王野と似てるよ」
『先輩今その話をするんですか?』
「最後のチェック付き合ってやるからお前も俺の話に付き合え」


すたすたと近付いて来てチェック表を私の手からもぎ取る。
そのまま続きのチェックを美馬先輩が始めてしまった。
任せていいものかも悩んだものの、一人よりは二人だ。先輩の隣で同じようにチェック表を覗きこむ。


「王野ってあぁ見えてかなり負けず嫌いなんだよ」
『はい』
「知ってたのか?」
『あぁ、えぇとそうじゃないですけど先生が高校球児は誰もが負けず嫌いって前に言ってたんで』
「俺は椎名も一緒だと思ったんだよ。普段クールに見えて表情も対して変わらないのに拘るとこ拘って譲らない」
『そんなこと』
「あるだろ。じゃなきゃこんな時間までここにいない」
『それは…』


確かに先輩の言う通り今日の行動だけ見たらそあかもしれない。
美馬先輩はいつもこうして私のことを言い負かす。
けど、だからって私が王野先輩と似てるだなんて認めれない。そんなの王野先輩に失礼だ。
言い返す言葉が見付からずきゅっと唇を結ぶ。
否定したところで言い負かされるのは目に見えているからだ。


「すまない、言い過ぎた」
『…王野先輩と似てるってのはやっぱり失礼だと思います』
「そうか」
『そうです』
「椎名は…俺にはあまり自分から話し掛けにこない。他の奴らには前より話し掛けに行ってるのに」


全てのチェックが終わり、先輩が私にチェック表を返す。
あぁ、私の行動が変わったから心境の変化があったのかって質問に繋がったのか。
それにしたって最後の質問の意図が掴めない。


『美馬先輩とは一番話してるような気がします。今だってそうですし、先輩は私が話しに行かなくてもこうして来てくれますから』
「…そうか」
『はい』


事実を告げると先輩の頬がほんのり紅く色付いた。そのまま片手で口元を覆い顔を背けてしまう。何か不味いことを言ってしまっただろうか?


『あの、美馬先輩?』
「お前に教えられるとは」
『えぇと、何か失礼なこと言いましたか?』
「いや、いい。気にするな」
『大抵いつも一番に先輩に指摘されるので甘えてしまっていたらすみません。今日のことも含めて』


あれやこれやの失敗に対してのお小言も部員のことを考えて自分なりに行動したことを褒めてくれるのもいつも一番に美馬先輩がしてくれる。
クールなだけじゃなくて、意外とよく笑って、人をからかうのも嫌いじゃなくて、面倒見の良い美馬先輩だけど、もしかしたら今までの行動が迷惑だったかもしれない。
ふとそんなことを思い付いて謝れば、先輩は首を横に振る。


「俺が好んでしていることだから気にすることはない」
『それなら良いんですけど』
「高校最後の夏に椎名に出逢えて良かった」
『先輩、そんな風にも笑えるんですね』


いつもの小さな笑みじゃなくて、今のはとても柔らかい微笑みだった。
見たことのないその表情に気を取られて失礼なことを言ってしまった気がしなくもない。


『あ、すみません。私も野球部のマネージャーになれて部員の皆さんと出会えて良かったです』
「そういう意味で言っていない」
『え?』
「…いや、気にするな」


頭を下げて謝るもどうやらそういうことではなかったらしい。
顔を上げて先輩の表情を確認すると何やら不満げで、この表情もあまり見たことはない。


『物分りが悪くてすみません』
「今はわからなくていい。前途多難ではあるが、こういうのも悪くないな。そろそろ帰るぞ。夕飯の時間が迫っている」
「わかりました」


歩き出した先輩の背中を追いかける。
結局先輩の言うことを全然理解出来なかった。


「大したことではあるが今はそれより明日の初戦だ」
『はい』
「全員一丸となって甲子園を目指すぞ。お前もその一員だ」
『はい!』
「良い返事だ」


その大したことを私が知るのはずっと後のことになる。
ドラフト会議が終わってそれを聞かされて、人生で一番驚いた。大袈裟でも何でもなくこの時私は失神なりそうなくらい驚いたのだ。


『惚気過ぎだと思います』
「御幸につられただけだ。照れてるのか凛」
『これ全国放送ですよね?』
「そうだな」
『御幸さんにつられたんじゃなくて対抗したの間違いだと思います』
「お前はやっぱり俺のことよくわかってるな」
『それはお互い様ですよ』


お正月、プロ野球選手の座談会なるもので選手達が奥さん達の話をしている番組を二人で観ている。
そもそも御幸さんはそこまで惚気ていない。
あまりテレビでそういうことを言いたくなさそうにもみえた。
御幸さんの奥さんは試合があっても観にこないしなぁ。
気になって聞いてみると関係者席じゃなく普通に観戦に来ているらしい。
御幸さんなりに大事にしているのだと思う。
総一郎さんもそちら側かと思っていたのに、高校時代のマネージャーと言う話を余すことなくしてしまっているので観る人が観れば私だと言うことがバレてしまうだろう。
鳴りやまないスマホを確認するのが少しだけ怖い。


「電源を切っておけば問題ないな」
『完全に他人事ですね』
「俺に恋愛と言うものを教えてくれたのはお前だけだからな」
『私も総一郎さんには色んなこと教えてもらいましたよ』
「そうか」


素っ気ない返事反して表情は嬉しそうだ。
まさかこんなことになるとは草取りをしている時は全く考えてなかったなぁ。
そうだ、久しぶりに先生に連絡をしてみよう。
結婚式には来てもらったけど、最近は連絡を取っていない。
野球の試合に招待すれば喜んでくれるだろう。


長くなり過ぎたなぁ。ちまちま書いてやっと終わりました。
20200512




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