逢曖傘(日吉)

『日吉先輩これから自主練ですか?』
「あぁ。お前はもう帰ってもいいぞ」
『雨降りそうですけど』
「傘はあるから気にするな」
『ではお先に失礼しますね』
「気を付けて帰れよ」
『はい、お疲れ様でした』


他の先輩達はもう帰ってしまったと言うのに日吉先輩はいつも通り熱心だ。時期部長と跡部先輩に指名されてからはそれが顕著になっているような気がする。
部室から出る際に傘立てに残っていたのは私の傘だけで先輩は折り畳み傘派なんだろうかと考えながら帰路につく。
どんよりと空は曇り空で今にも雨が降りだしそうだ。明日も雨だろうか?そうなると練習が制限されるから降るならさっさと降って明日には晴れてくれたらいいな。


『あ、雨だ』


ポツリ、と校門を出てしばらくした所で冷たいものが頬に触れた。手を空へと掲げるとそれは紛れもなく雨で濡れる前にさっさと傘をさすことにする。
日吉先輩は大丈夫かな?折り畳み傘だよね?きっとそうだよね?
私の傘を抜いて空っぽになってしまった傘立てがぼんやりと頭に浮かぶ。普段先輩は折り畳み傘なんて使っていただろうか?記憶を探してみても不確かなことしか思い出されない。何でちゃんと確認しておかなかったのか。気になってしまってはもう真っ直ぐに帰ることなんて出来なかった。
雨はサーサーと傘を濡らしていく。小雨ならまだしもこんな雨の中濡れて帰ったらいくら運動部といえ体調を崩すかもしれない。忘れ物をしたとでも言えば大丈夫だろう。
くるりと踵を返し部室へと戻ることにした。




テニスコートは雨に濡れて既に無人だった。先輩帰っちゃったかな?そう思ったけれど部室の明かりがまだ点いていたからホッとした。入れ違いにならなくて良かったかもしれない。着替え中だったら失礼だと思いノックして声をかけてみたけれど返事が聞こえることは無かった。
日吉先輩が電気を消し忘れて帰ることなんて考えられないのでどうしたんだろう?そっとドアノブを捻るとかちゃりと扉が開く。鍵をかけ忘れることも絶対に無いはずだからもしかしたら先輩に何かあったのかもしれない。


『日吉先輩?』


そっと中へと声を掛けるも返事は無い。まさか本当に中で倒れてたりしないだろうか?慌てて中へと入ってびっくりした。日吉先輩がジャージのままソファへと横になっていたのだ。
ゆっくりと近付いて生死の確認してみるもどうやら先輩は寝ているだけのようだった。


最近前にも増して練習に力を入れているのは知っている。だから疲れが溜まっているのかもしれない。規則正しい寝息がスースーと聞こえて自然と頬が緩んでしまった。寝ている時はこんなにも穏やかな表情をするんだな、まぁ人間なら当たり前か。それでも見慣れないその無防備な表情につい見入ってしまう。


「……ん」


どれだけそうしてたのかは分からない。日吉先輩のこんな表情を見られるなんて珍しくて起こすのが何だか勿体無かったのだ。
そうしたらゆっくりと先輩の目が開いた。目の前の私が視界に入ったのか先輩は驚いたように目を見開いて私はと言えば先輩と目が合って蛇に睨まれた蛙みたいに動けなくなってしまった。


「お前、帰ったんじゃなかったのか」
『あの、その…忘れ物をしまして』
「それで、ここで何をしているんだ」
『えぇと、部室に戻ってきたら日吉先輩が寝てたので。あの…先輩が部室で寝るなんて珍しくて見とれてましたごめんなさい!』


寝起きだからか先輩はとても不快そうに眉間に皺を寄せた。あぁきっと違う、これは寝顔を見られたことへの無言の抗議のような気がする。
合わせる顔がなくてただひたすら先輩へと頭を下げた。


「そうか」


ソファの前で正座をして謝っていると思っていたよりも柔らかな声色が頭上から届いた。てっきり寝顔を見てたことへのお叱りが飛んでくると思ったのにだ。


『あの先輩』
「なんだ」
『怒ってないんですか?』
「お前は怒られるようなことをしたのか?」
『でも』
「着替えるからそのまま頭下げとけ」
『あ、はい』


先輩の表情を確認したくて顔を上げたかったのにその前に止められてしまった。けれどその声にも怒気は孕んでなくてなんだか穏やかだった気がする。
これは私の勘違いかもしれないけれど。


「おい」
『はい!』
「いつまでそうしてるんだ。帰るぞ」
『あ、すみません!』


一人であぁだこうだ悩んでいたら再び先輩の声が背中へと投げ付けられた。着替えが終わったならそうやって教えてくれたら良かったのに。
慌てて立ち上がり先輩のいる部室の入口へと向かうと傘立てを見て小さく舌打ちをしている所だった。


『先輩?』
「なんだ」
『やっぱり傘忘れてました?』
「教室から持ってくるのを忘れただけだ」
『あぁ、そうだったんですね』
「お前何でそんなに嬉しそうなんだ」
『帰ってる途中で雨が降って来たので先輩大丈夫かなと心配してたんです。傘立てには私の傘以外無かったですし。ですからお迎えに来て良かったです!』


日吉先輩が折り畳み傘派じゃなくて良かった。戻ってきた私の判断は間違って無かったのだろう。それが嬉しくてつい声色に乗ってしまったらしい。
不機嫌そうに先輩がそのことへの抗議の声を上げているけれどそれすら気にならないくらい嬉しくてそのまま理由をお伝えした。
自分の傘を手に取り外へと向かって広げる。うん、これなら先輩が雨に濡れて体調を崩すことも無いだろう。


「お前忘れ物取りにきたんじゃなかったのか」
『あ』


傘を差し出した所で先輩が部室の鍵を閉めながら鼻で笑った。嬉しすぎて最初の設定を忘れてしまったらしい。えぇとどうしようか、どう言い訳しようかと言葉を探すも直ぐには見付かってくれない。


「まぁいい。遅くなるから帰るぞ」
『あ!先輩返してください』
「学校からだとお前の家のが近いな」
『そうじゃなくて傘!傘!』
「俺の方が背が大きいからな。持ってやる」
『でも』
「お前が持つと俺が濡れる確率が高くなるんだよ」
『それはすみません』
「さっさとしろ」
『はい』


どうしようかと悩んでいたら先輩がふっと笑ったような気がした。一瞬だったから気のせいかもしれないけれどそれを確認する前に先輩は私から傘を奪って歩き出してしまう。慌ててその背を追いかけて隣へとお邪魔した。私の方が背が小さいから仕方無いけれど先輩に傘を持たせるのもどうなんだろう?跡部先輩だっていつも樺地先輩が傘を持ってるのになぁ。


『私、こうやって男の人に傘を持ってもらうの初めてです』
「お前の周りどんだけろくでもない男ばっかりなんだよ」
『あ、そうじゃなくて今までは相合傘って女の子としかしたことなくて』
「あぁ、そうか」
『先輩?』
「なんだ」
『耳が赤いですけど熱でもありますか?』
「無い」
『風邪とか引かないでくださいね。お迎えに来た意味無くなっちゃうので』
「それは俺の台詞だ馬鹿」


…馬鹿とは?
先輩に一生懸命抗議したのに馬鹿ってことに関しては結局撤回してくれなかった。
宣言通り先に私の家に着いてしまったので先輩には兄の傘を貸してあげた。直ぐ無くすから単なるビニール傘だ。
「お前が持つと俺が濡れる確率が高くなるんだよ」って言ってたのに帰り際の先輩の肩が濡れてたのを見付けてなんだか胸がじんわりと熱を持ったような気がした。


これも企画サイト様に提出しようと書いた作品。お題の「雨の日のお迎え」になっているだろうか?
迷いに迷った末にこれを提出させてもらいました。
2018/09/30

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