恋恋蓮歩の演習(柳)

「今日も聴こえてきましたね」
「あぁ、今日はヴィヴァルディだな」
「四季より春ですねこの曲は」
「春らしい曲だ」


レンレンレンポノエンシュウ
恋恋蓮歩の演習



高校3年になってから晴れの日の昼休みにバイオリンの音色が聴こえるようになった。
それは屋上に居ても部室に居ても微かに聴こえてくる。
曲名を柳生と当てあうのが最近の日課になっていた。


「良い音色だ」
「そうですね、聴いていてとても心地好い音色だと思います」
「先輩達何の話してるんすかー?」
「切原君、静かに。聴こえなくなってしまいます」
「あーバイオリンすか?これ中庭で弾いてるんすよね」
「赤也何故知っているのだ」
「切原君が音楽に興味があるとは意外でした」
「ちげーっすよ。これ弾いてんの俺のクラスのやつっす」
「赤也のクラスにバイオリンが達者なやつが居たとはな」
「柳先輩は知らないっすよ。転入生ですもん」
「高校2年から転入生とは」
「珍しいですね」
「何か入院してたらしいっす。2年くらい。だから俺より2つ上の先輩っすよ」


赤也はさほど興味なさげにこのバイオリンの主のことを教えてくれた。
そうか、このバイオリンの主は赤也と同じクラスなのか。
年齢は俺の1つ上。俺は自然とその情報を頭の中に記していた。

生徒会の会議で昼食が遅れたある日の昼休み。
部室へ向かう途中に思い付いて中庭へと向かうことにした。
途中でいつものバイオリンの音色が聴こえる。
今日はモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークだな。
誰もが一度は聴いたことのある曲だ。


そっと中庭を覗く。
曲はどうやら第2楽章へと移ったようだ。
昼食を食べるもの中庭でバドミントンをして遊ぶもの芝生で昼寝をするものその中に混ざって彼女が居た。
大きな樫の木の木蔭で彼女はバイオリンを奏でる。
周りのことも気にせずにただただバイオリンを弾いている。
まるでそれは切り取られた絵画の様にも見えた。


どのくらいそうして居たのだろうか気付いたら曲が終わっていて、周りの校舎から拍手が巻き起こる。
彼女はそれに一礼するとバイオリンを大事に仕舞いこちらへと歩いてきた。
その歩く姿がコンサートを終えたバイオリン奏者のようにしなやかで堂々としていて思わず見惚れてしまった。


『こんにちは』


こちらの視線に気づいたようで彼女は俺に挨拶をする。
その声を聞いて胸が鳴る。


「今日はモーツァルトなんだな」
『毎日違う方が楽しいから。聴いてくれてる人達もいるし』
「そうだな。俺も毎日楽しみにしている」
『ありがとうございます』
「転入生だと赤也から聞いた」
『あかや?』
「すまない、君と同じクラスの切原赤也だ」
『あぁ、切原君。そうですね、今年から立海生です』
「優秀なのだな」
『余分に年を取ってるだけですよ』
「俺は3年の柳蓮二だ」
『先輩だったんですか!すみません』
「いや、気にしなくていい。年齢は俺の1つ上なのだろう?」


そう告げると彼女は驚いた様に目を丸くする。そして直ぐに笑った。


『柳先輩は結構ずかずか聞いてくるんですね』
「すまない。気に障ったのなら謝ろう」
『いえ、別に隠してませんから。同じクラスのこたちは皆遠慮して聞いてこないんです』
「そうか」
『あ、こんな時間。それじゃ失礼します』
「名を聞かせてもらえないだろうか?」
『2年の椎名凛です』
「ありがとう」


自分の名を告げると一礼して椎名は去っていった。
それはとてもとても綺麗な一礼だった。
時間を確認する。
俺も部室へと急ぐことにした。


それから生徒会の集まりがある時だけこうやって中庭へと赴きバイオリンの音色に耳を傾けるのが俺の日課になった。
空いてるベンチへと座り読書をしながらバイオリンの音色へと耳を傾ける。
曲が終わると二言三言言葉を交わしてから部室なり屋上なり向かうのだ。


『柳はバイオリン好きなの?』
「雅楽を一番好んではいるな」
『確か世界最古のオーケストラだね』
「バイオリンの音色も嫌いではない」
『いつも聴いてくれてありがとう』
「こちらが礼を言うのが先だろう」
『好きで弾いてるだけだよ』
「今や皆がお前の演奏を楽しみにしてるからな」
『嬉しいこと言ってくれるなぁ』


気づけば季節は春から夏へと少しずつ移行していた。
椎名との距離も少しずつ縮まってるようだ。
年上から先輩と呼ばれるのが苦手だと告げると椎名は呼び捨てにしてくれるようになった。
生徒会の集まりの時だけ集合が遅くなったことに精市や赤也からあれこれ言われたがそれも全く気にならない。


『しばらく弾けないかもしれない』
「どうかしたのか?」
『ちょっと入院するんだ』
「どこか悪いのか?」


ある日の昼休みに椎名が突然そんなことを言った。
入院したことが原因で実際より二年遅れてることは知っている。
だが、それ以上のことを聞いたことはなくさっと目の前に不安がよぎる。


『そんなに心配そうな顔をしないで』
「しかし入院するのだろう?」
『検査入院だよ』
「本当か?」
『本当に。手術した所が正常に動いてるかの確認だよ』
「どこなんだ?」
『ん?心臓だよ』
「そうか」


彼女は何でもないかのようにさらりと俺の質問に答えた。
俺はその答えにくぐもった声で一言返すのに精一杯だった。
不安で一杯だったのだ。
彼女はバイオリンのケースを抱きしめたままこちらを覗きこむ。


『柳、大丈夫だよ。死なないよ』
「突然何を言い出すんだ」
『手術前のお母さんみたいな顔をしてたよ』
「すまない」
『謝ることないよ。前回の手術ほんとに大変な手術だったんだって。十時間越えたしね。でもおかげで私は生きてる。こうやって大好きなバイオリンを弾いていられる』


そう言ってバイオリンケースを強く抱きしめると彼女はキラキラとした笑顔で笑った。


「見舞いに行こう」
『え、単なる検査入院だよ?』
「一日では終わらないのだろう?」
『3日くらいかな?長くて一週間かも』
「その間退屈だろう?」
『柳が来たいならいいよ』
「ではまた連絡をくれ」
『ん、分かったよ』


連絡先を渡してその日は椎名と別れた。
その夜に連絡が来たとき程嬉しかったものはない。
日付と入院先を知らせるだけの簡素なメール。
椎名らしいなとそれを見て自分の表情が自然と和らいだ。


「柳先輩、先輩って椎名と付き合ってるんすか?」


部活の休憩中に赤也が突然そんなことを聞いてきたので噎せた。
驚いてスポーツドリンクが気管に入ったのだ。
精市がそれを見てクスクスと笑っているのが視界に入る。


「突然どうしたんだ」
「いや、椎名に聞いたら内緒って言われたんすよー」
「そうか」
「で、実際どーなんすか?」
「椎名がそう言うのならば俺もその質問には答えられないな」
「えぇー!柳先輩ずるいっすよ!」
「休憩が終わるぞ」
「柳先輩教えてくださいよー」


椎名がそう答えたのなら俺が赤也に返事をすることはない。
ただたまらなく内緒だと答えた椎名のことが愛しくなった。
きっと彼女もその質問には答えたくなかったのであろう。


練習が終わって面会時間ギリギリの時間に教えられた病院へと着いた。
見舞いの品に読んでみたいと言っていた雅楽の本と旬の果物。
喜んでくれるだろうか?
病室を覗くと彼女が居ない。
何かあったのだろうか?通りすがりの看護婦さんへと彼女の所在を問うとこの時間は屋上にいますよと教えてもらった。
何もなくて良かった。安堵の息をついて屋上へと向かう。


彼女は屋上でも何時ものようにまるでそこがコンサートホールになったかのように美しく凛としてバイオリンを弾いていた。
背中に夕日を浴びて。
それがまるでスポットライトのように見えて目を細める。


『あ、柳』


こちらの姿に気付いたのか彼女はバイオリンの演奏を中断してこちらへと近寄ってくる。


「すまない、演奏を中断させてしまったな」
『大丈夫だよ。病院でも昼が本番だから』


そうやって何時ものように美しく笑った。


「椎名」
『何?』
「俺と付き合ってくれないだろうか」
『いいよ。やっと言ってくれたね』


自然とその言葉が出ていて少し自分でも驚いた。
まだ言うつもりではなかったのだ。
でもこの美しい彼女を自分のものにしたかったのも事実だ。
これが独占欲と言うものか。
自分のものにだなんて酷く自分勝手なものだなとも思う。
椎名は人であって誰かが独占出来るようなものではない。
自分の中の矛盾した感情に思わず苦笑いした。


『急に黙ってどうしたのさ』
「いや、まだ自分にも分からないことがあるんだなと思っていただけだ」
『独占欲とか?』
「何故分かったんだ」


すんなりと思ってることを言い当てられて胸がドキリと鳴る。
彼女はバイオリンをケースに仕舞っている所だ。


『柳ってポーカーフェイスっぽいけど意外と言いたいこと顔に出るよ』
「そうなのか?初めて言われたんだが」
『じゃあ私だけなのかな?』
「少し気恥ずかしくもある」
『いいじゃん。私、彼女だもん』
「あぁそうだな」
『さて戻りますか』
「そろそろ夕食の時間だろう?」
『そうなんだよね』


椎名を病室へと送り届けて見舞いの品を渡す。
面会時間も後僅かだ。
夕食の時間も近付いてるようで廊下がにわかに騒がしい。


『柳』
「なんだ?」
『お見舞いありがとう』
「また明日も来よう」
『うん。柳、好きだよ』
「あぁ、俺もお前が好きだ」


まるで朝の挨拶をするかのように好きだと言われる。
それに自分も自然と返事をしていた。
あぁ、付き合うと言う言葉がなかっただけで今までもきっとそんな感じだったのだろうな。
俺達の空気感はきっともう出来上がっていたのだろう。


病院を出た帰り道。
そこには美しい逢魔が時が広がっていた。
夕焼けと夜の間の時間だ。
とても美しい情景。


明日は何の本を持っていこうか。
きっと彼女は何を持っていこうとも喜ぶだろう。

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