一日、いや半日いなかっただけなのに帰ってみると何もかもが新鮮で。 薔薇庭園を歩いていたら、思わず深呼吸をしたくなった。
けれど楽しそうに歩く亜弥をよそに、嘉音は少し複雑そうな表情をしている。
「亜弥様、もうすぐお屋敷につきますよ」
ぴたりと、亜弥は立ち止まる。 数秒そのまま固まり、何を思ったか振り返ると、元来た道を早足で歩いてゆく。 慌てて嘉音は後を追った。
「亜弥様、どこへ行くんですか!?」
「…ちょっとそこまで」
冷や汗かきつつそう答える亜弥の腕をガシッと捕まえる。 すると不服そうな表情で睨まれた。
「離してよっ」
「離せば逃げますよね」
「ゔ、そんなこと…ないよ?」
説得力の欠片もない台詞に嘉音は溜め息をつくと、腕を引いて無理やり屋敷へ亜弥を連れて行く。 当然亜弥は嫌と暴れるが、やはり力では嘉音に勝てず。
「つきましたよ」
「……」
屋敷についてしまい、亜弥は緊張からか心拍数が速くなっていた。 ドアノブを掴むが、力が入らない。 手が少し震えているのが自分でも分かった。
勇気を出せと心の中で強く思い、ギュッと手に力を込める。
そして、扉を開こうとすると──
亜弥が開く前に扉が開き、中から朱志香が顔を覗かせた。
「亜弥!お帰りっ!!」
「た、だいま…」
力が抜け、ドアノブから手が滑り落ちた。
中に入って来ようとしない亜弥に朱志香は痺れを切らしたのか、腕を掴んで中に引っ張り込む。
驚いた表情で朱志香を見れば、とても嬉しそうに笑っていて。 次にはギューッと抱きしめられ。 一体何事かと姉に視線を向ければ頬ずりをされた。
「あーっやっぱり亜弥は抱き心地がいいぜ」
半日も亜弥に会えなかったことで軽くストレスがたまっていたらしく、朱志香は癒しのために抱きついたのだ。
苦笑いと共にそんな彼女に視線を向けていると、ずっと黙っていた嘉音が間に割って入ってきた。 邪魔をされたことに対して朱志香は文句を言おうとしたが、不機嫌そうに眉間を寄せる彼を見て、ふっと笑みを浮かべて口を開いた。
「何だよ嘉音くん。あ、さては羨ましいんだろ〜?」
「なっそんなことはありません…!」
「とか何とか言ってるけどさ、顔真っ赤だぜ?」
指を顔に向けてさすと、嘉音は反射的に手を頬に添える。 それを見て朱志香は腹を抱えて笑い出した。 からかわれたことに気づくと、先ほど以上に眉間にしわが深々と刻まれて。 亜弥はそっとそれに触れた。
「嘉音くん、せっかくのかっこいい顔が台無しだよ?」
特別な意味で言ったわけではない。 そう理解していても、嘉音は頬が熱くなるのを抑えることができなくて。 触れられている箇所までも次第に熱を帯びてきて、亜弥に気づかれないか不安になった。
「あ、の…亜弥様」
「ん、何?」
離してください、その一言が喉の奥でつっかえてしまい言葉にできない。 困った顔をすると、朱志香が気づいて助け舟を出した。
「亜弥、話はこれくらいにしてそろそろ母さんのとこに行こうぜ!」
「…え」
笑顔の朱志香に反して、亜弥はあからさまに嫌そうな顔をした。
亜弥の嫌そうな声色に気づき、嘉音は逃げ道である扉を閉めた。 そのことで亜弥が文句を言おうと口を開きかけたとき。
「騒々しいですね、一体何をしているのですか!?」
奥から早足で夏妃がやって来た。
玄関に亜弥がいるのを見つけるとはっとしたように駆け出し、抱きしめた。 その腕はあまりに強いもので、思わず亜弥は夏妃の体を押した。 それに気づいたのか、手だけは背に添えたまま体を離してじっと視線を亜弥に向け。
「亜弥、お帰りなさい。それから…」
昨日のことを謝ろうとするが、なかなか言葉が出てこない。 自分のプライドの高さを夏妃はこのとき初めて悔やんだ。
そんな自分の母親の気持ちを察したのか、亜弥はゆるりと微笑し。
「ただいま帰りました、お母様。昨日は本当にごめんなさい」
彼女が言いたかったであろうその言葉を口にした。 夏妃は一瞬目を丸くするとすぐに安心したように頬を緩ませて、また亜弥を抱きしめた。 今度は先ほどとは違い優しく。
そして#亜弥が腕を自分の背に回すのに気づくと。
「私も昨日は言い過ぎました」
精一杯の頑張りで、そう言葉を紡いだ。
もう2人は大丈夫だなと安堵すると、朱志香は得意げに嘉音の背を叩いて夏妃に話しかけた。
「母さん、嘉音くんが亜弥を連れ戻して来てくれたんだぜ!」
「…嘉音が?」
少し疑いの眼差しで嘉音に視線を向ける。 すると嘉音の表情がかたくなった。
夏妃は亜弥から体を離すと嘉音と向き合い、そして見据え。 ゆっくりと言葉を発した。
「亜弥を連れ戻してくれたことに対してお礼を言います。本当にありがとう」
まさかあの夏妃からそんなことを言われるとは露ほども思っていなかったため、嘉音は驚き目を丸くした。
いつも厳しい表情しか自分たち使用人には見せないのに、今は本当に嬉しげに微笑んでいて。 次第に緊張が薄れていくのを感じながら、嘉音は返事を返した。
「いえ…使用人として当然のことをしたまでです」
夏妃の手前上、あえて使用人という言葉を口にした。 そのため亜弥に軽く睨まれてしまったが、嘉音は自分の言った言葉が正しいものだと信じて疑わなかった。 次の夏妃の言葉を耳にするまでは。
「そうですね、確かにあなたは使用人です。ですが…亜弥にとっては大切な友達なのですよ」
ふんわりと優しく夏妃は微笑んだ。 思わずその場にいた夏妃以外の全員が驚いた表情で彼女を視線を向ける。 普段の夏妃ならば絶対に口にしない言葉。 それを言うということはつまり、相当嘉音に対し感謝をしているということなのだろう。
亜弥は顔を輝かせると嘉音の隣に行き、服の袖をギュッと握り締めた。
「やったね嘉音くん!お母様が認めてくれたよ!」
もはや普段のモードに戻りかけていることにも気づかない。 それくらい嬉しいことなのだ。 きっとこれは奇跡と同じくらいの確率の低さで起こった出来事。 亜弥はそれを嘉音の袖を握り締めることで噛みしめていた。 この幸せを、決して逃がさないように。
そんな亜弥の想いに気づいたのか、嘉音もまた不器用ながら彼女に対して優しく微笑んだ。
「亜弥様…」
本当は友達でおさまりたくはない。 けれど今は、この時を心ゆくまで感じよう。 もしかしたらこの先二度と出逢うことのない奇跡なのかもしれないのだから。
「さぁ、それでは亜弥が帰ってきたお祝いをしましょう」
「いいなー、それ!」
夏妃の提案に朱志香は頷く。 本当に今日の夏妃はいつもと違う。 準備をしなければと厨房へ歩みかけると一度振り返り亜弥の方へ、いや嘉音の方へと顔を向けた。
「あなたと、そして紗音も参加ですからね」
そう告げると、今度こそ夏妃はいつもの早歩きで厨房へと向かっていった。
思わず亜弥たちはポカンとなって、夏妃の行った方向を見つめる。 そして、朱志香があはははと笑い出した。
「母さんキャラ変わりすぎ!本当最高だぜッ」
手を顔にあてて笑う朱志香に、亜弥も頬を緩ませる。 そしてにっこりと嘉音に笑顔を向けて、袖を引っ張った。
「いつまでぼーっとしてるの?ほらっ紗音を呼びに行かなくっちゃ!」
「…あ、はい、そうですね」
まだ実感がわかないようで、嘉音はただ頷くだけ。 そんな彼に亜弥はほんの少し苦笑い。
「もうっしっかりしてよ!ほら、行くよ!」
「わっ亜弥様…!?」
「私は母さんの手伝いをしにいってくるよ」
「分かったー!」
嘉音の袖を掴んだまま使用人室に向かって亜弥は走っていく。 ちらりと嘉音に視線を向けると困ったような、けれど嬉しそうな表情をしていて。 亜弥は袖から手を離すと、開ききった嘉音の手をぎゅっと握り締めた。 すると一瞬驚いた顔をしつつも、握り替えしてくれて。 温かくてくすぐったい、そんな気持ちで胸がいっぱいになるのを感じた。
切なる願いは奇跡を生み出した。 けれど決してそれは奇跡だけの力ではなくて。 希望という光を忘れなかったからこそ、今の幸せな未来を紡ぐことができたんだよ。
chapterT end..
過去編第一章、無事完結致しました! 第一章では亜弥と嘉音が友達になれて終わりと決めていたので、大満足ですっ こんな優しい夏妃ママもありだなぁ´ω` キャラが崩壊しそうになるのをなんとか持ちこたえました!← 次は第二章に突入です! 始まりは冬休みから…です^^ 2人の仲が徐々に変化していきますので、楽しみに待っていてください!
第一章を読んでくださり、本当にありがとうございました!
20090820
|