氷帝 短編
コエルカベ

「じゃあな、また来るぜ」
「ありがとうございました!宍戸さん!」


先輩達が引退して数ヶ月。跡部さんの跡を継いで部長になって、新しいテニス部がようやく形になってきた。宍戸先輩を始めとしてレギュラーだった先輩達は頻繁に指導に顔を出している。…あの先輩を除いて。


「日吉、お疲れ様」
「ああ」
「…ねえ日吉、葵先輩に最近会ってる?」
「…部活に来ないんだ。学年も違うのに会うわけないだろう」


芦原葵先輩。氷帝男子テニス部のマネージャーとして、一人で200人の部員を支えた存在。部員の誰からも慕われていて、先輩もテニス部を大切に思ってくれていた、と思う。そんな先輩が、引退してから一度もテニス部に顔を出さないなんて誰も想像していなかった。


「なんか、寂しいよね。葵先輩が来なくなるなんて思わなかったな。樺地もそうだよね?」
「ウス」
「先輩達に聞いても知らないって言うし。葵先輩とクラスが一緒の先輩もいないもんね」
「…芦原先輩はマネージャーだったんだ。今更指導することもない。部活に来る理由もないんだろう。それよりさっさと着替えて出ろ。鍵が閉められない」


俺の言葉に文句を言いつつ部室を出て行った鳳に溜め息をついていると、樺地が部誌を渡しながら声をかけてきた。


「なんだ?」
「…寂しい時は、素直になることも、大事…です」
「…っ、」


樺地の言葉に視線を逸らすと、樺地は微笑みながら部室を出て行った。
パタン、という扉の音を合図に、俺はずるずると壁にもたれて座りこんだ。


「…芦原先輩…っ」


腕で顔を押えて、樺地の言葉に動揺した自分を落ち着かせていた。だから、気付かなかった。


「なあに?若」


不意に聞こえた思い焦がれた声に勢いよく顔をあげた。まさか、そんなわけ。


「…芦原、先輩…?」
「はい、芦原先輩です。あはは、若の驚いた顔見れるなんてラッキーだなあ。…久しぶりだね、元気だった?」


柔らかく、数ヶ月前と何一つ変わらない笑顔で話しかけてくる先輩が、目の前にいる。その現実に思考がついていかなかった。


「な、にを…しているんですか」
「んー…、若に会いに来たんだよ」


微笑んで発する先輩の言葉に心臓が跳ねる。素直に嬉しいと思うのに、俺の口から出るのはきつい言葉ばかりだ。


「…今まで、何をしていたんですか」
「え?」
「一度くらい顔を出すこともあなたにはできないんですか」


そんな言葉が芦原先輩を困らせることも分かっているのに、抑えることもできなかった。こんなに冷静になれないのは、樺地のせいだと思いたい。


「…鳳達が、寂しがっていましたよ」
「…若は?」
「は?」
「若は、寂しくなかった?」


真剣な表情で発した芦原先輩の言葉に固まっていると、すぐに先輩はなんでもないと笑った。それが、どうしようもなく遠く感じた。


「…あなたの顔を見たいとは、思っていました」
「〜っ、…若のばか」
「は、あ!?なんでですか!」
「…なんでそんな、優しくなるの…っ、いつもみたいに、そんなわけないでしょうとか言ってくれればよかったのに…っ!!…決心、鈍るじゃない…っ」
「…芦原先輩…?」


座り込んだ俺の隣に突然うずくまった先輩の震えた声に思わず目を見開く。どうしたのか、と声をかけようとした時芦原先輩は口を開いた。


「勉強してた」
「…は?」
「さっきの答え。部活に行けなかったのは、毎日勉強してたから」
「勉強って、なんで…。別に先輩の成績だったら進学には何も影響ないで、しょ…」


そこまで自分で発して嫌な予感が身体中に走った。まさか…。


「うん。私ね、外部受験する」


(…ああ、聞きたくなかった)


「氷帝じゃ、ないんですか。なんで…」
「ここに入学した時から、高校は外部に行く予定だったんだ。6年間も氷帝に通える程裕福な家でもないし。それなのに夏まで部活一筋で勉強なんてしてこなかったから、本気出さなくちゃいけなくて」


先輩の言葉は俺が理解する前に耳をすり抜けていく。だめだ、何も頭が働かない。


「…入学した時、私はこんなに氷帝が大切になるなんて思わなかった。折角だから部活くらいは入りたいなってテニス部だってなんとなく入部したの。でも、景吾が引っ張っていくテニス部を大好きになるのに時間はかからなかった。…ずっと、みんなといれたらって何度も思った」
「だったら…っ!!」
「若たちのおかげだよ」


泣きたいのか笑いたいのか、芦原先輩は一生懸命という言葉が似合う笑顔で微笑みながらこちらを見つめた。


「みんなが全力でテニスに向き合う姿が好きだった。それをサポートすることに誇りを持ってた。関東が終わった時も、全国が終わった時も、もっともっと自分にできることがあったのにって何度も思った」
「先輩…」
「近くにね、スポーツ科がある学校があって、マネジメントコースがあるの。…若たちみたいな人を、支えられる存在になりたい」


…本当にずるい人ですね。そんなこと言われたら、引き留められないじゃないですか。


「毎日ね、教室で勉強してたんだ。めげそうになって外を見るとね、今までと全く違う環境で若が部長として頑張っている姿が見えて、私も頑張ろうって思えたんだ」
「っ、…聞いてもいいですか。なんで、俺に教えてくれたんですか。他の先輩達はもう知ってるんですか」
「ううん。…実はね、その高校に推薦の話がもらえて、明日試験を受けてくるんだ。明日が終われば、もう黙ってるわけにはいかなくなるでしょう?…最初に、若に言いたかったんだ」


(…は?)


この人は今、なんて言ったんだ?俺の聞き間違いじゃなければ…自惚れる。


「…好きなんだよ。若のことが、ずっと」


顔に熱が集まるのが嫌でもわかる。いつもなら身長差から合わないはずの視線も、お互いしゃがんでいるせいでかなり近い距離で合わさってしまっている。


「…先輩は、ずるいですね」
「…そうかなあ?」
「ずっと、伝えたかったことがあるんです。芦原先輩が来たら言おうと思っていたのに、あんたは全く来ないし、来たと思ったらついて行けないことばかり話して」
「…ごめん?」
「…なんで疑問形なんですか」


溜め息をついて呆れた後、先輩に向き直る。


「…先輩が支えてくれたのに、何度も負けて、優勝できなくてすみませんでした」
「は?ちょっと、何言っ「いいから聞いてください」…はい」
「関東大会の後、泣いている先輩を見て悔しかった。全国が決まった時、俺なら勝てるって言ってくれた先輩を笑顔にさせたかった。全国で負けた時、涙を流すこともなく凛としてコートを見つめていた先輩が遠く感じて、傍にいてほしいと思ったんです」


何か覚悟を決めたような横顔が、先輩がどこかへ行ってしまう気がした。…本当にその通りだなんて思いたくもなかったが。


「それを言えないまま、何ヶ月も過ぎて。俺は、あんたのせいでずっとあの日から抜け出せていないんだ…っ」
「若……」
「……先輩。今まで、ありがとうございました…っ」


無理矢理言葉を絞り出した瞬間、勢いよく先輩が飛びついてきて二人して壁に身体を打ち付けた。


「…った…っ、何をやってるんですか」
「ばか若…っ、好き、大好き。このテニス部には頑張らない人なんていなかったけどね、若の勝利への貪欲さが大好きだった。勝てるって言ったのは、本心だよ。ていうか、負けたなんて思ってない。あの場で全力を出せたのならそれは若の自分への勝利だよ。そして、それを次に繋げられるんならそれは氷帝の勝利だよ」
「……」
「そんな若を見れて、私に不満でも残ると思う?感動したんだよ。若から聞かなきゃいけない謝罪なんて一つもない」


ああ、この人はこういう人だった。選手の良さを最大限に引きずりだせる人。マネージャーだからとか、立場なんて関係なく全力でぶつかってくれる人。そんな人だから、俺は…


「…芦原先輩。その高校に合格しても、テニス部には入らないでくださいね」
「…へ?」
「俺らが高等部に入った時、素直に俺らを応援できないなんて状況は絶対作らないでください」
「…うん」
「…今年と同じメンバーで、先輩が同じように俺らを応援している状況で、氷帝テニス部を優勝させてみせます。…それが実現した時、さっきの告白の返事にはいと言わせてください」
「〜〜っ!!うんっ!!」


そんな人だから、好きになったんですよ。


「先輩。明日、頑張ってください。合格しなかったから氷帝に残るなんて人、俺嫌ですからね」
「っ、任せなさいっ!!200人を一人でサポートしてきた実績は伊達じゃないんだから!!最っ高の部でマネージャーをやってきたこと、面接で誇り持って語ってくる!!」


キラキラした笑顔で立ち上がった芦原先輩を見て思わず笑いが出る。力強い横顔はあの日を思い出してやはり少し辛くなるが、もうあの日から抜け出せないなんてことはない。この人が前に進むのに、俺が進まない理由なんてどこにもない。


「帰りますか」
「うんっ」


ある意味偉大すぎるこの人を超えるために、また努力を始める理由ならいくらだってあるけれど。