豪華な部屋。豪華な衣装。
望めば何でも手に入る。

だけど一番大切なモノはもう二度とこの手にすることは出来ない。



この扉を開けば全てが終わる。その為に心も体も犠牲にしてきた。



馬休は静かに扉を開く。
曹操の部屋へと続く扉を。


これで


鉄が開放される。
もう戦わなくて済む。



「きたか、そちを抱くのは久々だからな。存分に愛してやるぞ」
「ありがとうございます。僕はどんな褒美よりも今の曹操様の言葉の方が嬉しいです」
自分を待っていた曹操に馬休はゆっくりと歩み寄り手が届く範囲となると抱きつく。
そして静かに目を閉じた。










PRELUDE








天下を統べたい曹操という男にとって、西方の異民族は大きな脅威であった。
隙在らば喉下に噛み付く……そういう獣のような奴らばかりだ。

だが最近のところ、それが更に酷くなったと思われる。
原因は曹操が帝を連れて行ってしまったこと。
西の猛者たちはそれを許さない。
董卓の暴虐的な行いは確かに目に余るものだった。
しかしそれ以上に曹操のしたことは許せなかったようだ。


正直な話、自身にとってそんな話はどうでもよかった。
だが相手はそうは思っていなかった。
それはそうだ。叛の中心に居るのは自分の父なのだから。
争いには当然の如く巻き込まれる。

父は曹操に言われるがまま西から離れ、この地へと移り住みここ数年は大人しくしていた。


従っている振りをし、相手が見せる一瞬の隙を見つけ出す。
隙を見つけたらあとは一気に噛み千切ってしまえばいい…
そんな考えだったのだろう。
 

だけど先に動いてしまったのは、ただ一人故郷に残った若獅子。
落ち着いて考えれば相手の挑発だと気付けただろうに。

でも曹操相手なら仕方のないことだ。
寧ろ今まで挑発に乗らなかったことの方が驚きである。


これで漸く、男が思い描く天下統一に色がつき始めたのだ。






「一人逃げるぞ!!」
「裏手に回れ!!」
「行かせるかぁぁあああっ!!」

戦火の中を駆け抜けていった一人と一匹。
左腕に傷を負っていた男は使い勝手の悪いもう片方の手だけで手綱を握り、姿を消した。
男の為に活路を開き、死地に残された二人は顔を見合わせ笑う。

岱が涼州に向かって走った。
これで何が起きたのか、兄様に伝わる。
後は…――――


「俺たちが逃げる番だな…」
「えっ……」

四方を囲まれ逃げる場所なんてない。
助けてくれる仲間だっていないし、馬だってもういない。

後は悪あがきをすることしか出来ないと思っていたのに
そういう発言をする君は本当に凄いと思う。

「……道がないなら自分でつくればいいだろ」
「四面楚歌状態なのに?どうやって?」
互いに背を預け徐々に近づいてくる敵兵を睨んだ。

「しめんそか?なんだそれ…俺馬鹿だからわかんないんだけど」
馬鉄は半分笑いを含みながら話した。
刹那、生温かい緋色の雨が降り注ぐ。


「こっちだっ!!」
突然手を引かれた馬休はバランスを崩しかけるが、なんとか持ち直し馬鉄と共に走った。
振り上げた槍が彼の言葉通り道を作りあげたのだ。

「諦めるのは早いだろ?まだ一人になったわけじゃない」
「…………そう…だね」
わかって言っているのか、特に意味を持たずに言っているのか。
でもどちらにしても間違っていたのは僕の方だった。

こんなにも頼もしい味方が目の前にいるというのに四面楚歌だなんて、頑張っている弟に本当に失礼な話だ。

「なんか悔しいな」
「?」
馬鉄に指摘された…なんて父上や岱に知られたら大笑いされるのだろうな…、と馬休は苦笑いをした。


何とか追っ手を振り切り僕らは自分たちの屋敷へと戻ってきた。

相手は僕たちがここから脱出しようと思っている…ならばその裏を衝き元いた場所に戻り兵が少なくなってから脱出しよう…
これは鉄の提案だった。



「……休、ちょっと様子をみてくるから隠れてろ。何があっても絶対出てくるなよ」
「ちょっと待って……僕も…」
「すぐ戻ってくるから、待ってろって」
馬鉄は地に伏している先ほど倒した兵の傍らに落ちている剣を拾い周囲を警戒しながら足を進めていった。
一人残された馬休は火を放たれ、未だ燃え続けている住み慣れた場所を、目を細めながら見つめる。
中にある十数体の遺体の中に伯父と伯母もいる…
本当は中から出してあげたいのだが…この燃え盛る火の前ではなす術がない。

岱は涼州へと走った。
鉄はここから脱出しようと今も頑張っている


僕は…


僕は何ができるのだろうか?


今僕に出来ることは………


「もう一人居たはずだ!!手分けして探せっ!!」
「――――――-っ!!」
突然誰かの叫び声が聞こえ馬休は様子を見るために少し場所を移動した。



もう一人?
それは僕の事?

と言うことは…

馬休は息を潜めて物陰から声のした方を覗き込む。
自分の考えが当たらないことを願いながら…

しかし、嫌な予感戸言うのは否応無しに当たってしまうモノだ。
所詮自分たちなど今まで死地を潜り抜けてきた者にとってはとても小さなモノである。

馬休は眼前に映った弟の無残な姿と、覇王の姿を見てそう悟った。

既に気絶していると言うのに兵たちは馬鉄の体を何度も蹴りつける。
それはきっと、起こして僕の居場所を吐かせるため。
殺すつもりは元よりないのだろう。



「…………」

しかしこのままでは何れ鉄は死んでしまう
鉄が死んでしまったら…今度こそ僕は一人になってしまう。


…いや
鉄は殺させない


「……………曹操様、僕は逃げも隠れもしませんからこれ以上鉄に何もしないでください」


両手をあげ、抗う意思の無いことを相手に見せるが、馬休は一瞬で兵達に取り押さえられた。
地面に叩きつけられ、両の腕を強く捕まれ、その激痛に思わず顔を顰める。



どんな形であれ生きていればそれでいい
生きていればいつか好機は訪れるだろう


「……」



その時は…誰の手でもなく
己の手で……この男を











・・・・・・・・・




「鉄、傷は大丈夫かい?」
「それよりも休が大丈夫か?顔色悪いけど」
「……多分疲れてるのかな?今日仕事大変だったから。ご飯つくったら早く寝てもいいかな?」
「疲れてるんだったらもう寝てもいいぜ?テキトーになんか食うから」
「鉄に適当に食べられたら食材尽きちゃうよ」
そう言いながら馬休は包丁を手に取った。

「あ、そう言えばさっき野兎がいたな…まだ近くにいそうだし、ちょっとみてくる」
包丁として使っている短刀を置き馬休は弓を手に取る。
野兎など見てない。
しかし、このまま短刀を握り続けることも出来なかった。


鉄をみたら手と足の震えが止まらなくなった。





あの日から1月が経っただろうか?
全てが燃えさかるあの場所で僕は故郷を捨て曹操に忠誠を誓った。
本当に大きな賭けだったが結果、鉄も僕も今ここに生きている。

曹操は本当に寛大な人間だ。
自分に害を齎す可能性が高いことをわかっていながらも僕らを殺さなかった。

あの日からほぼ毎日曹操に呼ばれた。
もうすぐ叛を鎮圧しに西に攻めるというのだ。
内部をほぼ掌握する僕は曹操にとってとても都合の良いものだった。
元董卓の配下だった賈ク
この者が提案した策…

これはとてもうまいものだと思った。

兄様と韓遂さんが手を結んだとしても、この結び目はとても緩いものである。
過去に韓遂さんがしたことは僕らにとってとても許しがたいこと。
少しの誤解が大きな溝を作り上げるのは容易いことだ。

寝台で交じり合いながらも曹操は討伐の話を止めることはなかった。
口にする名の殆どは自分の知る人物で心が痛かったが、名前を口にする度こちらの様子を伺ってきているようにも思え、なるべく表情に出さないようにした。

今はどんなことでも耐えなければならない。
僕はこの人の所有物となった。


大切な弟を守るために…





しかし、もしこのまま攻められると弟は喪わないが兄を喪うかもしれない。

(いや…兄様なら大丈夫だ)

兄様は僕らと違って簡単に負けるような人じゃない。
負けたとしても涼州を奪われる…なんて事にはならないだろう。
戦場となるのは潼関。旗色はとても悪いが、壊滅的な負けも考えにくい。
まだ逃げる場所はあるためここで無理する必要もないからだ。

多少の時間稼ぎにはなるだろう。
その間に鉄の怪我が完治すればいいのだが
そしたら鉄を涼州に逃がすことが出来る。


「些か上の空のようだな。これからちょっとした催しがある……気分でも晴らしに行くか?」
「っ…ごっ、ごめんなさい」







この男はやはり卑劣な人間だった。




曹操の言う催しとは、とある男の処刑。
本人が何かしたわけでもない。
息子が漢に歯向かったため一族はみな処刑というわけだ。
髪を纏め、布を被り馬休は曹操の隣に立っている。

「最後に何か言うことはあるか……」
「今更言うことは何もない。ただ息子が丞相殿の喉元に噛み付くのがみられないのが残念だ」
回りの人とも、自身とも違った髪の色をした男はそう言った。
だいぶ離れてはいたが男の声は馬休の耳に届く。

本来己が居るべき場所は男と…父と同じ場所だというのに
自分は今客観的に“それ”を見ている。
父の命を散らせるために刃は高く掲げられた。

「待てっ!!」

蒼天の空に男の声が轟く。
自分の隣に立っていた男はゆっくりと歩き父の傍まで行く
(もしかして…曹操は……父を)
助けてくれるのかもしれない…一瞬だがそう思った。
しかし

「最近儂の側近になった者がいるのだが……そやつに斬らせるのもまた一興だと思わんか?」













・・・・・・・・



「っ…うぅ……ぁぐっ」
身を置いている深い洞穴から出た馬休は弟に聞こえないようにその場所から遠く離れ、手で押さえていた口を開放する。それと同時に異臭のする黄色い液体が排出された。

今でもまだこの手に残るあの感触。
戦についていくことはあっても遠方から矢を放った事はあっても
まだ一度も人を斬った事などなかった。

初めて…この手で斬り殺したのが……


「っ………」
再び込み上げてくる吐き気
そして襲いくる罪悪感。

「父様っ、ごめんな…さい……」
泣いても、謝っても、もう父はいない。
この手でその首を斬りおとした。

刃を手にした僕を見ても父は何も表情を変えなかった。
僕であると気付かない訳が無い。
真っ直ぐ己を見つめるその目は…何を言いたかったのだろうか。


他の兄弟とは違い父は僕に対して甘いと周りは言っていた。
しかしそれは甘いのではなく、僕に戦の才能がないとすぐにわかったのだろう。
だから強制はしなかった。
その代わり学を身につけろと僕に言った。
特別頭が良いわけではい。
ただ何もさせないよりだったらその方がいいから、そう言ったのだ。



愚かな息子



きっとそう思ったに違いない。





馬休は気持ちを落ち着かせ、涙を拭い、口を漱いでから洞穴へと戻った。
本当は曹操が屋敷を用意してくれたのだが、どう考えても鉄は曹操に大人しく従うような奴ではないからそれを断り、
遠く離れた洞穴に身を置いている。
曹操には自分が説得するから鉄が落ち着くまで待ってほしい…と頼んだ。


「結局うさぎみつからなかったよ…あぁ残念だな……」
洞穴に戻り無理やり笑みをつくり馬休は馬鉄に言った。

「そりゃそうだ。あぁ俺が動けたら猪とか余裕で狩ってくるのに」
「悪かったな狩りが下手で」
「だれもそんな事言ってないだろうが」
「同じようなものじゃないか」
「………」
「………」



どんなに辛いことがあっても
今はこの状況を良いものだと思ってもいいのだろうか。

父はどちらにせよ助かる道はなかった。
自分が殺さずとも命が絶えるのは必然的な事だった。
僕らが処刑されることだって本当は必然的だったのかもしれない。
いや、あの選択をしなければ確実に僕も鉄も首を刎ねられていただろう。


しかし今、二人で普段通り、くだらない言い争いをしている


ならば、例え父を殺そうとも、屈辱をあたえられようとも
これは正しい道なのかもしれない。








誰か、僕に言って。
僕は何も間違っていないと。
じゃないと、壊れてしまいそうだ
身体も心も…




「       」





もうすぐで…
春が訪れる

冷たい、故郷の夜のような春が……











馬休編スタートです。
こうなると馬鉄編も手直ししないとダメですよ…ね
あれ馬鉄編…と言うより簡易的な流れになってしまっているので。
そして最初からなんか吹っ飛んだ内容で本当にごめんなさい。

馬岱たちが脱出する時の話はこちらの最初の方にあります。

2010/05/25