非現実的な光景、そして現実に俺は背筋がゾッとした。
非科学的な物は基本信じないタチだ。
だがどうだ、俺は寝ても居ないし目の前の女はまるで生きているかのように人と変わらない表情や動きをしている。
「あ、あの。貴方のお名前教えて貰えたりしませんか?」
「い、」
「い?」
「伊黒、小芭内」
「伊黒小芭内さんね。素敵な名前」
半信半疑の俺に戸惑いながらも名前を鸚鵡返しした女は未だに嬉しそうに笑っている。
一つ一つの動作、表情筋の動き、声。
全てが先程あそこに収まっていた時のような人形感が無い。
「えへへ、随分と驚いてますね」
「あっ、当たり前だ!お前は何処から部屋に入った。今なら警察に通報せずに帰してやる、答えろ」
「…うーん、じゃあ私をスリープモードにしますか?」
「スリープモード?」
「えぇ。手を借りても?」
目の前の女は初めて困った様な仕草をすると、壁に背中を付ける俺に近寄りそっと手を差し出した。
恐る恐る手に触れてみれば少し暖かめな体温が伝わってくる。
「私は、貴方にキスしてもらった一時間だけ動く事が出来ます。でも一時間経てばまた人形に戻るんです」
「その一時間を待てと?」
「出来たらその方が嬉しいですけど、私は貴方を怖がらせたい訳じゃないから」
寂しそうに目を細めた女は自分に重なる俺の手をそっと耳へ持って行く。
ピアスのようなソレに触れれば、綺麗な瞳と視線が合った。
「おやすみ、と言ってここを押せば私はスリープモードに入ります」
「そんなもの、説明書きには無かったぞ」
「えぇ。基本私達を購入なさった人はスリープモードを必要としませんから」
まるで自分が人形だと言う目の前の女に軽い目眩を覚える。
何かのマジックだ、何かの詐欺だと思っているのに初めて会うこの女の寂しそうな顔が心を軋ませた。
リセットされる訳ではない。
だが俺と目が合ったこの女は心の底から嬉しそうに笑っていた。
「…お前は人形だと言うが、飲食は出来るのか」
「え?あ、はい」
「なら、今淹れる」
「で、でも…」
「暇潰しに付き合ってやる。お前のような女一人に負けるような俺では無い」
横目で見ながら不安そうな顔をする女に向けてそう言えば、また嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます!」
「…嘘だった場合はタチの悪いストーカーだと通報すればいい話だからな」
「えぇ、どうぞ!」
こんな言葉を掛けられても嬉しそうなこの女は本当に何なのだろうか。
一度も使っていないマグカップを奥から取り出し珈琲を淹れてやる。
「あっ、あの!」
「なんだ」
「ミルクって…ありますか?」
もじもじと恥ずかしそうに視線を反らした女に一瞬呆気にとられるがポーションミルクを入れろと言う事なのだろうか。
たまたま買っておいたそれに手を伸ばし一つ中へ入れてやればふにゃふにゃとした笑顔が浮かぶ。
随分表情筋の忙しい奴だと思いながら床の上に正座して待つ女へ差し出してやる。
「ありがとうございます」
お礼を言って珈琲を受け取った女は一口マグカップにその薄い唇を付ける。
まだ熱いのに口に入れていいのかと、壁にもたれ掛かったまま見ていると案の定何も言わないまま揺れた肩にため息をついた。
「あ、あづい…」
「そんな当たり前の事も分からんのか」
「すみません」
あぁまただ。
まるで俺に話しかけられるだけで嬉しいと言うような笑顔。
別に優しくしたつもりも無いのに、何故この女はここまで嬉しそうなのか理解不能だ。
「伊黒さんはお幾つなんですか?差し支えなければ教えて欲しいです」
「…21」
「21歳ですか!私より全然年上ですね!」
「お前は幾つなんだ」
「私ですか?生まれたてほやほやです!」
「………」
「だって、貴方に名前を呼ばれてキスされた時に私は生まれたから…その、引いた顔しないで…」
目は口ほどに物を言うとは言うが俺は敢えてそれを曝け出せば、おろおろと視線を彷徨わせた女に前髪をぐしゃりと掴んだ。
敵意の無い笑顔はどうも苦手だ。
もしこれが本当にただのストーカーなら随分と演技の上手い女だと思う。
時折嘘を教えながら女の名を呼んだ時間から1時間が経とうとしていた。
「…あ、もうそろそろ時間ですか」
「そうだな」
「えへへ、ありがとうございました」
「…それは警察に打ち込まれる前の礼か?」
「人形に戻った後、伊黒さんに捨てられる前に私を信じてスリープモードにしないでくれた事です」
中身が無くなってもずっと大切に持っていたマグカップを少しだけ強く握った女は座っていた床から立ち上がりシンクへ持って行く。
水道お借りしますね、と言って自分の使ったマグカップを洗うと女は俺の目の前に立ち目を閉じた。
カチリと機械音がして、目の前の女は姿をそのままに一切動かなくなった。
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