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「伊黒先生、これ!資料落としましたよ」
風に揺らめく白衣を着こなした彼に手を伸ばす。
生物教師である伊黒先生は私と同期だけど、少し近寄り難い雰囲気がある。
職員会議以外こういう場合でしか話した事はほぼ皆無だ。
落ちたプリントを拾ってゆっくり振り返る伊黒先生に近付いて手渡す。
「あぁ、すまない」
「どういたしまして」
プリントを受け取ってくれた伊黒先生の髪が揺れる。
綺麗な髪だな、って思いながら緩くウェーブの掛かる自分の髪を撫でた。
うーん、傷んでる。
「どうした」
「え、あ!ごめんなさい!」
「…いや、いい」
見つめ過ぎてしまったのだろうか、僅かに伊黒先生が居心地の悪そうな顔をした。
すぐに謝罪して、それじゃあと頭を下げ元来た道を戻る。
冨岡くんには冷たい所はあるけれど、それを除けば穏やかで優しい人だと思う。
先生になりたてで四苦八苦していた私にチョコレートをくれたもの。
次の授業は無いし、何をして過ごそうかと考えながら廊下を歩けば目の前に冨岡君がぼーっと外を見ていた。
「冨岡くん」
「……月陽か」
「どうしたの?」
「いや、不死川と宇髄が…」
向かい側の校舎は特別教室がある。
指差した先を見れば窓硝子が割れ中が丸見えな美術室があった。
「あぁ、怒られてるんだね」
「そうだな」
「冨岡くんは授業ないの?」
「ない」
「そっか。じゃあお茶でも飲もうよ」
冨岡くんは仲がいい方、だと私は思ってる。
話し掛ければ言葉少なに返してくれるし、仕事帰りに飲みに行ったことだってあった。
お茶と言っても給湯室で淹れるものだけれど、無言で頷いた冨岡くんが歩き出す。
「…なぁ」
「んー?」
「思い出してないのか」
「……何を?」
伺うような視線を受け急須にお湯を入れながら首を傾げた。
何か忘れた事なんかあるんだろうか。
いや、よく忘れっぽいと言われるけれど。
「うーん、今の所は…授業関連?」
「…いや」
「??」
冨岡くんは相変わらず不思議だけれど今日は特に不思議だ。
どんなに考えても思い出さなかった私は今日の仕事を終え暗くなった外を歩く。
学園から遠くもない距離にある自宅に一人ぼんやりとしたまま帰っていれば、後ろから私ではない靴音がずっとついてくる。
「………」
方向が一緒なのだろうか。
そう思ったけれど付かず離れずの距離を保ちその靴音は私の後ろを歩いている。
段々と怖くなってきた私は重いバックから携帯を取り出し電話帳を漁った。
誰か、居ないかな。
震える手で操作してもなかなか思う様に文字が打てない。
「……っ、」
そうこうしてる間に後ろの靴音が近寄ってきて、真後ろにピッタリとくっついている。
もう携帯どころではなくなった私は走り出そうと一歩を踏み出した瞬間腕を掴まれ、体制を崩した。
「待ってよ」
「…だ、誰ですか」
「どうして逃げるんだよぉ」
全く知らない顔の男の人がニヤリと目を細め私の上にのしかかる。
怖くて涙が滲むのに声が出ない。
誰か、助けて。
助けて…
男の人の大きな手が私の口を塞ぎ、耳元に顔を寄せる。
「黙ってついてきたら痛い事はしないよ」
「っ、んん…!」
「分かったなら頷いて」
嫌だ。
こんな人の言う事なんか聞きたくない。
もう片方の手にスタンガンが持たれている事に気が付いてる。
必死に両手で身体を押し返していると、音も無く男の人の向こう側に誰かが現れた。
暗いし街灯の逆光で誰かは分からない。
もしかして仲間も連れてきていたのだろうか。
だとしたら、私にもう逃げ場など無い。
「ん"ーっ!」
「その汚らしい手で月陽に触れるな」
ガツ、と鈍い音がして私にのしかかっていた身体が横に倒れていく。
聞き覚えのある声に涙で濡らした顔を上げると、息も切らさず更に追い打ちをかけ男の人を拘束する白衣の後ろ姿。
「伊黒先生…」
「警察に電話をしてくれ」
「あ、はい!」
男の人から視線を外さないまま指示した伊黒先生の言うとおりに私は警察へ電話を掛けた。
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