十年前の自分を殴りたい。ここ一年、考えていることはそれだけだ。

「主ってさあ、結婚とかしないの?」
「えっ」

 思わず振り返ると、包丁が純朴な瞳でこちらを見つめている。やめろそんな顔をするな。アラサー捕まえて何を言う。私の冷たい心とは裏腹に、包丁はきらきらとした眼差しを、尚もこちらに向けている。

「いいよなー主が人妻!いっぱい可愛がってもらうのになー!」
「今も可愛がってるでしょ」
「もっと!」

これだから包丁が寝ずの番をするときは困るのだ。いつまでも私を付き合わせて、やれ人妻がいいだのやれお菓子のグレードを上げろだの、そんな可愛いおねだりで私を寝かせない。いくら可愛くても私は明日も仕事である。溜息ひとつ、席を立つ。

「あ、どこいくんだ!」
「厨房。ホットミルク飲んで私は寝ます〜」
「チョコ取ってきてほしいんだぞ!」
「ダメに決まってるでしょ」

ぴしゃりと襖を閉め、軋む廊下を裸足で進む。
結婚。ずしりと深くのしかかるその言葉が、私を捉えて離さない。

私が審神者になったのは、十八歳を過ぎてすぐのことだった。
適正があればすぐに審神者として戦地に送り出される、そんな時代だ。名誉ある、適正者の数少ない職業。現世に中々帰ることこそできないものの、その職は高給で、安定していて、そして福利厚生がしっかりとしていた。
 例えば食事。頼めば基本的には無償で食べたいものが送られてくる。例えば娯楽。現世に関わる通信に一部の規制はあるが、独自のネットワークやゲーム、本、ビデオ、そのほとんどが無制限で楽しめる。
例えば、伴侶。数少ない審神者の適正ある者を増やすため、政府は優秀なマッチングシステムを採用している。つまり、望めば大体いつでも望みの結婚をできるのが審神者という職業だ。結婚してからの業務サポートも万全で、産休育休フレックス、何でも来いの説明文と実績に目を丸くした覚えがある。それを現世でも活かせよ政府。
 話は逸れたがつまり、人妻になることは本人の希望さえあれば比較的容易なはずの職業なのだ。そして私は早く結婚したい。好きな人の腕に抱かれて眠りたい。つらいとき、そっと話を聞いてくれる人が欲しい。小指を絡めてキスをしたい。アラサーともなれば、冬の寒さを一人で越すのは厳しいのだ。
 マッチングアプリの登録も数年前に済ませている。何人もの素敵な男性と出会った。それなのに、それなのに、十年前の約束が私の邪魔をする。

 寒さに背中を丸めながら厨房にたどり着くと、今一番会いたくない顔が少し驚いた顔でこちらを見ていた。

「夜更かしは肌によくないよ、主」
「……ホットミルク、淹れに来ただけだから」

 ぶすくれた言い方をしても、そう、と微笑みながら彼は許してくれる。僕が淹れるから座って待ってて、なんて言ってそっとヒーターに近い椅子を引いてくれる。その優しさに甘えているくせに、子どもみたいに拗ねたままでいてしまう。

「こんな時間まで仕事?」
「包丁に付き合わされてて」
「ああ。今日は彼が寝ずの番だったね。僕も目が良ければなあ」
「太刀が夜目利いたら最強になっちゃうじゃん」
「はは、ありがとう。はい、熱いから気をつけてね」

黒い皮手袋をつけたまま、渡されたカップはなるほど確かに熱く、静かに机に置いて冷めるのを待つ。すると彼は目の前に座り、細い金色の瞳をじっとこちらに向けてくるのだ。思わず、目をそらす。

「何かあった?」
「別に……」
「君は、嫌なことがあると右に目線をずらすよね」
「…………。」
「誰にも言わないよ」
「……包丁に」

 結婚しないのかって、言われた。
 ぽつり、つぶやいた言葉は換気扇の音で掻き消えたかもしれない。けれど格好つけの彼が生唾を飲み込んだ音で、確かにその耳に届いてしまったことが嫌でも分かった。

「主も、もうそんな年齢なんだね」
「…………。」
「早いなあ。君と出会った時は、そんな日が来るのはもっと先だと思っていた」
「初太刀、だからね」
「うん、僕の誇りだよ」

 笑う顔の優しさに胸が苦しい。耐え切れず、下を向きミルクをすする。構わず彼は話を続けるので、それに適当に相槌を打とうと思っていたのに、続いた言葉に思わずカップから手を放してしまう。

「相手はもう決まっているの?」
「……は?」

 何を言っているんだという私に、彼は二、三度瞬きをしてあれ、と首をかしげる。間違えたかな、と。

「数年前から、お見合いしていたよね」
「してた、けど。でも」
「近頃はそれがなくなったから、特定の男性がいるのかと思っていたんだけれど」
「……なんでそんなこと言うの」
「主、ごめ」
「なんで、光忠がそんなこと言うの!」

思わず机に手をたたく。光忠は眉を下げ、ごめんねと今度ははっきりと言葉を紡いだ。

「僕、なにか間違えていたかな」
「間違えてるとかじゃ、ないじゃん!」
「……主」
「光忠が言ったんでしょ」
「うん?」
「光忠が、結婚するなら僕より良い人って言ったんでしょー!!」
「……えっ」

 呆けた顔も格好いい。むかつく。しかしむかつくところはそれだけではない。この男、覚えていないのだ。私を苦しめる十年前の約束を。

「ごめん、それはいつ」
「ぜんっぜん覚えてないじゃん!!」
「あっはい、ごめんなさい」
「来て!!すぐ!!光忠の歓迎会!!」
「ええー」
「いつか結婚するなら僕より格好良くて優しい人ねって、言ったの光忠じゃん!!!」
「えええー」
「いるわけなくない!?了承した私も私だけど!!いるわけないよねそんなの!!!」

 ずっと探していたのだ。光忠より格好良くて、光忠より優しくて、光忠より料理の出来る、そんな男性を。結果的に言えば人間はおろか、新たに発見された刀剣男士にもそんな人はいなくて絶望した。私はもう一生結婚できないのだと、この一年悲しみに明け暮れていたのにこの男は、そんな私を見て今目の前で笑いを堪えているのだ。誰のせいだと思っている。

「なんで笑うのー!」
「ふ、ふふ、ごめん、だってそれ……。ちょっと熱烈すぎて」
「は」

言われふと、我に返る。私今なにを、光忠本人に、言ってしまった?

「わ、わす、わすれて」
「わすれない」
「たのむから」
「君が十年覚えてくれていたこと、僕は一生忘れない」

笑いを抑える指先の隙間から、蕩ける金色の瞳がこちらを優しく、でも熱く見ている。そうだこの瞳だ。あの指だ。十年前のあの日、今より小さな私の小指にあの指が絡まって、あの熱を込めた瞳が私を見て。

「ねえ、主」

 あの声で、指切りをしてしまったその日から私は、もう彼と彼の約束から離れられないのだ。
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