今朝から主の様子がおかしかった。最初は違和感程度で俺にもよく解らなかったけど、次第にはっきりと感じる匂いに俺の体の中に巡る血液が沸騰しそうになって、慌てて病院に連れていった。主自身は至って普通、というか無自覚のまま誘い込んでしまうのが初期症状らしくて欲情の色は見られない。この病気のことはずっと前にチラッと聞いたことがあったけど、どこで聞いたのか思い出せなかった。

「長谷部、」

廊下で見つけた長谷部に声を掛ける。こいつとは特別仲が良いわけじゃないけど付き合いは長かった。今日は俺の代わりに出陣命令を伝えてくれたり、内番を代わってもらったりしていた。長谷部は真剣な顔つきで俺に近付く。

「どうだった」
「…うん、そのことで話さなきゃいけないから、今から全員集めてもらえる?」
「そんなに酷かったのか?」
「全員帰還してるの?」

長谷部の言葉を無視すると、少し機嫌を損ねたように口を結ばれた。長谷部が主を心配してるのは解ってる。でも、俺だってこんな説明何度もしたいものじゃない。じっと長谷部を見つめると、あぁ、と短く返事が返ってくる。

「解った、皆を集めよう。中庭で良いのか?」
「あんまり主に聞かせたい話じゃない。できたらもう少し遠く…」
「じゃあ池の向こうだな」

俺が頷くと長谷部はさっさと足早に行ってしまった。俺も移動しようとするのに足が動かない。これから話さなければならないこと、皆の理解と協力を得たいこと、俺が何よりも口にしたくないこと…。どう話せばいいのか纏まりがつかない。できたら何も話したくない。俺が主を独り占めして、俺で楽にしてあげたい。でも、主は誰よりも真面目だ。俺が何度主に気持ちを伝えても気付いてはくれない、俺がどんなに尽くしても応えてはくれない、下心が全くなくて刀剣男士を性の対象としてなんて見ていない人だ。一方的に俺が好意を寄せているのも解ってる。それでも主を俺だけのものにしたかったのに。

「くそ…っ」

悔しくて涙が滲みそうになった。俺が泣いてる場合じゃない、主はもっと苦しくて悲しくて、きっと不安なはず。情緒不安定とばかりに泣き出した主を思い出して、せめて自分だけは冷静にと思うのに腹から煮え返るような嫉妬と激しい憎悪は消えてくれない。悔しさの余り床を強く蹴った。




集まった全員を見渡すと、皆どこか心配そうにこちらに視線を投げている。これから何を告げられるのか解っていない様子の短刀と目が合うと少し気まずかった。それでも、これは全員に言っておくべきだと判断したから敢えて呼ばせた。

「さっき、主を連れて病院に行ってきた」

ザワッとする一同。病院に行くと教えたのは俺に代わって仕事をしてもらっていた長谷部にだけだったからだ。混乱する刀剣達を見ると主がどれだけ好かれているのか実感し、誇らしくも、疎ましくもあった。

「これから主の病について説明をするからよく聞いてて。全員に関わってくることだからね」

口を開くのを躊躇った。続きを催促するような視線が集まる。ちらりと隣に立っている長谷部へ視線を投げると、長谷部は小さく頷いて言葉を促してくれた。

話はこうだ。
主は不定期に過剰なフェロモンを分泌してしまう病気で、鼻につくような甘ったるい匂いで誘ってくる。本人にはまだ自覚がない初期の段階だから気付いたら直ちに俺に報告してほしい。治療薬はなく、体内に精液を取り込むことによって発作が抑制される。それを繰り返さないと病状の悪化を招いて性犯罪の危険性が高まるから早い対応が望まれる。そして、俺が本丸にいない間は、その場にいる刀剣がその役割を担ってほしい。

話が終わると理解した刀剣達がきつく唇を結び、イマイチ理解しきれない刀剣はこそこそと耳打ちをし合う。全員が理解するまで根気強く説明を続けるべきだとは解っていても俺にはできなかった。後は各自で理解してほしい。俺が黙っていると、安定が一歩前へ出てくる。

「清光は、それでいいの?」

安定の力強く通る声は俺の心を揺さぶった。全員の視線が集まり、俺の返事を待つ。俺が一番の古株だってこと、主の傍から片時も離れずに一緒にいたこと、それから、俺が主に好意を寄せていること、ここにいる誰もが知っていた。俺が直接言ったわけではないけど暗黙の了解というのか、誰も主を横取りしようなんて真似はしてこなかったのもそのせいだろう。俺はギリッと奥歯を噛む。いいわけがない、ほんとは、俺だって主を独り占めしていたい。

「これは政府からの命令だ。俺だけ主に付きっきりってわけにはいかない。出陣だってするし遠征だって行く。主だってそれを望んでるはずだよ」
「でも…」
「この話はこれで終わり。悪いけど今日は主に呼ばれてるからもう行くよ。各自この後も引き続き自分の担当された仕事をきっちりやってよね」

解散とばかりに背を向ける。これ以上惨めになりたくなかった。何人かからははっきりとした同情の色を浮かべた視線を浴びせられ、それがすごく悔しかった。俺はこんなにも主が大好きで、大好きで、大好きで、ずっとずっと尽くしてきて、主も俺を一番の近侍だって言ってくれて、可愛がってくれて、それが言葉にできないくらい幸せで、なのに、何なんだよ、何でこんな呆気なく終わって、主が他の男に抱かれるのを俺から頼まなきゃいけないんだよ。俺は恋仲にもなれないのに、主としたことだってないのに、何で、何でこんな惨めなんだよ。大好きなのが、人間に恋したことが、そんなにいけないことなのかよ。悔しくてまた目頭が熱くなってきた。だめだ、主にこんな俺見られたくない。ここまで主を大切にしてきたのに壊したくない。ぐっと唇を噛んで堪える。深呼吸をして幾分心を鎮めてから、俺は主の部屋へ向かった。

「主、戻ったよ」

襖の向こうへ声を掛ける。そちらで気配が動いて、襖越しに影ができた。勝手に入るのもどうかと思って開けてもらうのを待っていたら、主がススゥと襖を滑らせて顔を出した。

「清光…っ」

主の睫毛は濡れていた。怖かっただろう、不安だっただろう、独りになって何を考えて、どれだけ自分を責めていたのか容易に想像がつく。早く俺が慰めてあげなきゃ、主を守ってあげなきゃ。そう思って主に手を伸ばしたのに、気付いたらその手は主を乱暴に突き飛ばしていた。

「え…?」

ドサッ。畳に倒れる主を見て心臓が高鳴る。ドクン、ドクン、血がすごい勢いで体内を駆け巡っていて息が乱れた。自分の行動が信じられずに呆然としていると、主は泣きそうな顔で俺を見上げる。

「清光…?」

名前を呼ばれた瞬間、俺は部屋に足を入れて襖を閉めていた。喉がごくりと鳴る。部屋は嫌に熱くて内側から汗が吹き出してくるようだった。何より、甘ったるい匂いで充満している。

「ある、じ…」

予想外の事態に驚きすぎて、自分が誘われているなんて思い付きもしないから何が起こってるか解らなかった。俺は主の上に覆い被さって頬を撫でる。何で自分がこんなことをしているのか理解できないのに体が勝手に動いて、やめてあげられない。主も俺を拒めばいいのに、訳が分からないという表情のまま俺の手に頬擦りをする。

「清光、ねぇ、どうしたの…?」
「それは俺の台詞だよ…、なぁ、主どうしちゃったの…っ?」

頬に添えていた手を下になぞり、首筋を通ると主の体がびくんっと跳ねた。過剰すぎる反応に俺の下腹部にはぐっと熱が集まり、やっと事態を理解する。俺は主に誘われ、精液を与えなければならないのだ。この甘ったるい匂いも、主の感度も、全部俺を煽るため。俺が欲しくて誘惑する体。不謹慎だけど愛おしくて思わず噛み付きたくなる。

「主、ごめんね。俺が初めてでも、いい?」

なるべく優しく声を掛けるように努めると、主はそれでやっと理解したように顔を赤くさせた。やっぱり自覚は持ってなかったらしい。無自覚でここまで強い香りを引き出すなんて、この先が恐ろしい。匂いだけでも眩暈がするほどの快楽で、主の返事を待つのが拷問のように思えた。早く、早く主が欲しい。主が小さくこくんと頷くのを最後に、俺は目を閉じて主を貪った。
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