キスをしないと出られない部屋 / ※大学生設定

これは、一体何の冗談なのだ。

現状を全く理解できていない私の目の前には、白い壁。後ろにも、横にも、とにかく壁。壁以外にあるものといえば、鍵のかかったびくともしない扉と、ご丁寧に扉に貼られた1枚のポスター。

『【!】この部屋はキスしないと絶対に開きません。ふたりで協力し合ってください』

見慣れた日本語の羅列であるはずなのに、読んでも読んでもピンとこないこの文章。思わず頭を抱えたい衝動にかられる。キスとはなんだ。なんの冗談だ。そもそもここはどこなんだ。どうしてこんなことになっているのだ。そしてそれはどうやら彼も同じであるようで。

「…意味が分からない」

丸い頭を傾けて、私と同じようにポスターを眺めている彼がぽつりと零した。

「衛輔くん」

私とそう変わらない身長の彼に、そっと声をかける。私の声に反応し、くるりとこちらを向いた彼の表情に浮かんでいたのは、恐怖でも怒りでもなく、呆れの表情。彼と付き合うようになって早数年。幾度となく見たことのある表情だ。そして彼がこの表情をする理由は大体決まっていて、

「あいつら絶対あとでぶん殴ってやる」
「うんうん、そうだね」
「用事があるとか言いやがって」
「うんうん、言われたね」
「いいもの用意してるとかいうから何かと思ったら」
「え、そんなこと言われたの」
「名前がいるとか、予想外すぎる」
「どういう意味」

衛輔くんが言っている内容は、大体わかる。何故なら私もほぼほぼ同じような言葉でまんまと誘い出されたからだ。―――、一体誰に。その答えはいたってシンプル、明瞭である。

「黒尾め、なんのつもりだよ…」

黒尾鉄朗。衛輔くんが数年前まで所属していた音駒高校バレー部の元主将だ。

時は遡り、数十分前。私たちはいつものメンバーで集まっていた。というのも、別段何かがあったからというわけではない。いつも誰かが突然遊ぼう飲もうと言い始め、芋蔓式に皆が集まるいつものパターンだ。ここ数か月課題だレポートだと、飽きるくらいの大学生活を満喫していた私が参加するのは久しぶりのことだったけれど、衛輔くんにとっては全く久しぶりではなかった集まりだと思う。

時間が出来たメンバーから次々と集まり、特別な開始の挨拶もないままに始まる飲み会。今日も今日とて何もおかしなことはなかった。黒尾くんに声をかけられるまでは。

乾杯のカクテルを1杯、酎ハイを3杯。程よく頭がふわふわしてき始めた頃、いつの間に隣にきていたのか、黒尾くんに言われた言葉。

「ちょっと用事があるからついてきてくんない?」

今思えば、少し違和感を覚えたような気もする。衛輔くんの彼女だからと衛輔くんがバレー部に所属していた時から仲間に入れてもらっていた私。黒尾くんともなんやかんや数年の付き合いであるけれど、黒尾くん個人が私に用事があることなど滅多になかった。

けれどお酒の力とは怖いもので、何も考えずに二つ返事で黒尾くんについていってしまったのだ。連れていかれた先にあったのは一つのドア。ちょっと先に入ってて、なんて放り込まれたが最後。え、と声を出す間もなく閉められたドアに嫌な予感がし、慌ててドアにかけよるも、耳に聞こえたのは鍵のかかる音。やられた、と気が付いた時にはすべてが遅かったのだ。

もちろん彼たちが本気で私を危ない目にあわせることなどないだろうという絶対の信頼があったし、特に恐怖を感じることはなかった。私を省き、一体扉の外では何をやっているのだと思っていた矢先、再度開いた扉から投げるかのように放り込まれたのは、見慣れた姿。

「あれ、名前?」

そう、それが衛輔くんだったのだ。

―――そうして時間は、冒頭に戻る。

「このふざけたポスター、本当なんだってんだ」

呆れた顔のまま、衛輔くんが例のポスターを前に小さくため息を吐く。キスをしないと出られない。なんとまあ単純明快だろうか。単純明快、ではあるのだけど、どうにもこうにも現状と言葉がそぐわないような気がして仕方がない。

「まさかどこかに監視カメラでもしかけられてるっていうの?」
「いやさすがにいち大学生にそんな力ないだろ」
「研磨くんがいるから絶対にないとは言えない気がするけど」
「さすがの研磨もこんなことに手を…貸さないと思いたい」
「希望的観測」

うーんうーんと唸ること数分。考えることにも疲れて、ゆっくりと壁を背に腰を下ろす。ややあって衛輔くんも私に倣って、隣へと腰を下ろした。ちらりと隣を伺えば、どうやら同じことを考えていたらしく、ばっちりと噛み合う視線に少し気恥ずかしい。

「…なんかこうやってゆっくりするの久しぶりだな」
「うん、久しぶりだね」
「週に何回かは連絡とってたのに変な感じだ」
「確かに」

最後にこうして衛輔くんの隣に腰を下ろしたのはいつだっただろう。携帯で連絡を取り合っていたとはいえ、課題にバイトに部活にと、それぞれが大学生活を謳歌していれば自然と会う回数は減っていく。加えて、ここ数か月の私の課題ラッシュ。正直携帯で返事を返すことすら困難なときだってあった。衛輔くんはとても気が利く彼氏だから、決して私に無理は言わなかったし、そんな時はそっとしていてくれた。寂しいだとか、会いたいだとか、もっと連絡がほしいとか、そういうことは絶対に口にしなかった。そのことが少しだけ寂しいと思ってしまった私はいかに我儘だろうと自己嫌悪したりもした。

久しぶりにみた衛輔くんは少しだけ髪が伸びていて、心なしか以前よりも格好良く見える。衛輔くんの瞳に映る私も、少しは何か変わって見えているだろうか。

「………ごめん、名前」
「え?」
「これ、俺のせいかもしれない」
「どういうこと?」
「俺、この間黒尾に、」
「黒尾くんに?」

するりと伸びてきた指が、私の指に絡む。 思わずびくりと反応してしまって慌てて衛輔くんを見れば、言いづらそうに口ごもっているように見えた。

「衛輔くん?」
「…笑わないで聞いてくれる?」
「う、うん?笑わないよ、たぶん」
「多分て」

困ったように笑って、衛輔くんの指に少しだけ力が入る。ぎゅっと握られて、思わず息が詰まった。 付き合ってもう何年も経つのに、 どきどきとはしゃぎだす心臓が恥ずかしい。きっと衛輔くんは知らない私の秘密。

そしてそんな私のことなど露知らず、猫のような大きな瞳が私をしっかりと見据えて、衛輔くんが口を開く。

「ここ最近、全然お前にあえなくてさ、」
「…うん」
「俺、大丈夫だって思ってたけど、やっぱり心配で」
「心配?」
「無理してないかとか、凹んでないかとか、…他の男に靡いてないかとか」
「………」
「あと、」
「…あと?」
「……名前に会いたかったし、触りたかったし、抱きしめたりキスだってしたかった」
「………」
「だから、俺、この間黒尾と飲んだ時につい酔っぱらってこういうの全部言っちまったみたいで」
「………」
「多分あいつが変な気の使い方したんじゃないかって」

ごめん、そういって衛輔くんが膝に顔を埋める。ぴょっこりと覗く形のいい彼の耳は真っ赤だ。私に想いを告げてくれたとき、初めて手をつないだとき、キスしたとき、彼の耳はいつも真っ赤だ。そして私はその赤い耳をみると、どうしようもなく愛しくなって仕方なくなる。

「衛輔くん、大好き」

すっかりしょげてしまった衛輔くんを包み込むように、彼に抱き着く。

「全然会えなくてごめんね」
「………」
「無理もしてたし凹むこともあったけど、衛輔くんにしかときめいてないよ」
「………知ってる」
「衛輔くんだけが大好きだよ」

私の言葉に反応するかのように、恐る恐るといった様子で伸びてくる腕が、愛おしさに拍車をかける。

「俺も、大好きだよ」

恥ずかしそうにそういってはにかむ彼に頭を固定され、ああ、キスするんだ、とこれまでの経験から察して目をつむる。

―――けれど訪れたのは長い長い静寂で、不思議に思いそっと目を開ければ、真っ赤な顔のまま困ったように眉を下げる衛輔くんと目があった。

「衛輔くん?」
「………あと少しだけ」
「え?」
「キス、したらここでなきゃいけないんだろ、出たら絶対あいつらいるし、もう少しだけ名前を独り占めさせて」
「………」

本当に、困る。

いったいこの人は、私をどこまで夢中にさせるつもりなんだろうか。もう私はこんなに衛輔くんのことが好きで好きで好きで、呼吸すらままならないというのに。

「正直、黒尾に感謝してる。…本当は今すぐキスしたいけど、俺、もう少しだけ頑張るな」

その言葉とともに今度はしっかりと抱きしめられて、ふわりと優しい香りが肺を満たす。ああ、衛輔くんの香りだ。少しばかり手放してしまった、懐かしい香り。

優しいその香りで息をして、私は彼の体温に溺れていく。

2017/01/04
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