冥界には時に残酷すぎる掟がある。薄々気付いていたことが、暗黙のルールで訊いたことはなかった。それは、これからもずっと、だ。気にならないと言えば嘘になるが、触れてはいけない掟であるからだ。




(( 命の代償 ))




「あれ?イカどこ行った?」

書類を運んできた彼女は重々しい閻魔庁の扉を開いてから訊いた。深い意味はなく、単に疑問に思っただけだ。もう閉庁をしているのであとは書類整理の仕事だけなのだが、それには閻魔大王のサインが必須であった。つまり、閻魔がいなければ彼女が運んできた書類が無駄になってしまう。彼女が首を傾げていると、鬼男はちらりと彼女に視線を投げた後、直ぐに自分の仕事へ移る。

「…あの時間ですよ」

鬼男はそれ以上何も言わなかった。彼女が持ってきた書類を受け取ると、閻魔がサインしやすいように書類を仕分け出した。彼女よりも長い間閻魔の秘書として働いているからか、だいぶ手慣れている。彼女はぼんやりとその光景を見つめながら表情を曇らせた。

“あの時間”

それは彼女が最も残酷だと感じる時間だ。きっと鬼男もそう感じているのだろう。何も言わずに黙々と作業に入るその姿からは、なるべくあの時間のことを考えまいとする気持ちが読み取れた。彼女もまた作業に入る。

「ねぇ鬼男くん、この書類、ここ間違ってない?」
「本当ですね、これは土地神のミスだと思います。再提出をさせましょう」
「じゃあこっち側に置いとくね」

会話と言えばこのくらいだろうか。2人は黙々と作業をするだけだ。2人の表情はとても暗い。刹那、遠くの部屋から悲鳴が聴こえた。ここから天国や地獄は別世界にあるので声が漏れてくるなど有り得ない。となれば閻魔庁の何処かで聴こえる悲鳴だ。鬼男も彼女もますます表情を暗くする。いつもおちゃらけた、あの閻魔の悲鳴だと知っていたからだ。

「…今日は冷えますね」

重い沈黙を、鬼男が破る。これ以上沈黙が続いて閻魔の悲鳴が筒抜けになってしまうことを恐れたのだろうか。遠くからは閻魔の悲鳴と一緒に鈍い音が地面に響いていた。

「うん。あったかいミルク飲みたいな」
「あのイカがちゃんと仕事を終えたら休憩にしましょうか」
「そうだね…」

足の裏からびりびり受ける振動だけでもかなりのものであるのに、それを直に体に受けているであろう閻魔にはどれほどの痛みがあるのだろうか。拷問というレベルではない罰に彼女は眉間に皺を寄せた。

「名前さん」

鬼男は一瞬だけ手を止めて彼女の顔を覗き込んだ。泣きそうになっている彼女を見て、鬼男は笑顔を見せる。もちろん楽しくて笑っているわけではない。鬼男のそれも引き攣っている。

「ミルク、蜂蜜も入れましょうか」

聞いているこちらが苦しくなるほどの悲鳴が聴こえる中、鬼男はただそれだけを彼女に告げた。内緒話をするかのような声の大きさであったが、彼女はこくこくと頷く。

「うん」

彼女も、今できる精一杯の笑顔を作って見せた。




ギィィィ…と重々しい音がした。鬼男も彼女も緊張がなくなり、緩んだ表情でそちらに視線を向ける。

「ただいまぁ」

そこにはふにゃりと笑った閻魔が立っていた。いつも通りの姿からは先程まで罰を受けていたとは想像ができない。

「遅いですよ、とっとと席に着いてサインをしてください」
「お、鬼男くんって本当に鬼だなぁ…」

ほっとした鬼男はいつもの調子を取り戻し、閻魔に無理矢理ペンを握らせる。閻魔はぶつぶつ文句を言いながらもペンを動かし始めた。

「あ、そうだ、名前ちゃん」

ふわりと閻魔が笑う。彼女は閻魔に視線を向けた。彼の右肩には赤黒く血の痕が付いていた。きっと閻魔は血など残っていないのだと思っているのだろうが、いつも“あの時間”の後は何処かしら血の痕が残っている。彼女はふっと視線を逸らした。

「はい?」

閻魔の体には傷1つない。あれだけ地響きするほど激しく罰を受けていたのに、閻魔の回復力は凄まじいものだ。それを見ると彼が“閻魔大王”であると痛感する。閻魔は優しい笑顔のまま彼女を見つめた。

「今日のパンツ、何色なの?」

そんな閻魔に反応する前に閻魔に長い爪が刺さる。その爪を辿っていくと無表情の鬼男に行き着いた。

「おい、変なこと訊いてないで仕事しろ」
「いたいいたい鬼男くんいたいよぉ」

閻魔は半泣きになりながら再びペンを動かす。彼女はぼそりと呟いた。

「…大王は何も悪くないのに…」
「え?」

それはとても小さな声だったので、鬼男も閻魔もきょとんとしながら彼女を見た。ただ2人に違いがあるとしたのなら、鬼男は聞こえていなくて聞き返した、閻魔は“聴いて”いて聞き返したというところだ。彼女は慌てて笑顔を作る。

「な、何でもない、ただの独り言です!」
「…そっか」

閻魔もふわりと笑う。あんな罰を受けながらも閻魔はこんなに優しい笑顔が浮かべられる。仕事だって熟す。明日もきっと、何事もなかったかのように死者を裁くだろう。

「名前ちゃんは優しいね」

閻魔は穏やかな声でそう言った。本当に優しいのは誰なのか分かっている彼女はふるふると首を振ることしかできなかった。彼女は閻魔が幸せになればいいと心の底から思っている。それは一生叶うことのない願いだが、そう願わずにはいられなかった。


END
--------------------
閻魔は人を裁く代償として1日に3回罰を受けると聞いて、その設定で小説を書いてみようと思ったのですが、夢小説になりませんでした。なんじゃこりゃ。名前様、お付き合いありがとうございました。
20121124
(  )
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -