君が姪で俺が叔父で、でも二人は恋人で。
「なんだか恥ずかしいもんだな……」
「そうなんですか?」
藍沢の原稿が無事にあがり、久々に取れた束の間の休み。二人は本屋の新刊コーナーであれこれと物色していた。普段ほとんど家から出ない藍沢との外出が嬉しいのか、彼女はどこか楽しそうだ。
「まあな。自分の本が並んでるとこなんて、何回見ても見慣れない」
言いながら平積みされた自身の本を手に取る。少し前に発売されたその新刊は相変わらず安定した人気で売り上げを伸ばしており、今週のランキング2位の棚にいた。
藍沢自身はそれを自慢にも励みにも思っていないようだが、彼女にとっては自分のことのように嬉しい。
「これの続きは再来月でしたっけ?」
「ああ、もう校正が終わったからな。……読む気か?」
「もちろんです」
まったく、と少し照れたような言葉が続く。その様子が楽しくて、少しだけ彼に近づいたその時、後ろから聞き慣れた声が届いた。
「あれ? バンビ?」
「カレン!?」
慌てて振り返る。そこには数冊にわたるファッション誌を手にレジに向かう途中の花椿の姿。違う大学に行ってしまってから会うのは随分と久しぶりだ。
「こんな所で会えるなんて〜! 何なに、一人? 今からお茶でもする?」
「あ、ごめんね、一人じゃなくて……」
言いかけてはっと言葉に詰まる。カレンはまだ藍沢先生が作家であることには気付いていないようだが、ここでうっかり彼と付き合っていることを言っていいものか。マネージャーさんが心配していた通り、マスコミが聞きつけてくる恐れもある。
「バンビ?」
「えっと、あの、えーと」
「……俺の事なら気にしなくていい。友達なんだろ?」
傍にいた藍沢が彼女の困惑に気付いたのか助け船を出す。だがそれを見た花椿は慌てたように手の平を体の前で振って見せた。
「あ、ごめんなさい! 一緒だったんですね」
「ち、違うのカレン! この人はその……!」
やばい。藍沢の正体がばれてしまう。
なかばパニック状態になりながら必死に頭を回転させる。だが、花椿は彼女の心配をよそに、実に晴れやかに続けた。
「バンビのおじさんですか? いつもお世話になってます〜!」
「…… え?」
返事をした彼女だけでなく、藍沢も硬直する。
確かに髭はのびたままだし、普段の様子を見ればかなり年上に見られるかもしれない。実際二人が出会ったきっかけも、彼女が藍沢の姪だと偽ったことから始まったのであって、花椿が間違えるのもけしておかしい話ではない。だが。
「じゃ、またねバンビ! 今度メールするから!」
「あ、うん……」
怒涛の勢いでいなくなった花椿を見送り終えてから、ちらと藍沢の様子を伺う。
「……先生?」
「ん、ああ。どうした?」
「……なんでもないです」
叔父に間違われた事を怒っていないかと心配していたが、どうやらその恐れは無かったようだ。
ほっと胸をなでおろし、ついと彼の袖を掴む。するとそれに気付いたのか、もう一方の手でぽんぽんと一旦手を離させ、その指先をすくい上げるように掴んだ。そのさりげない手つなぎが嬉しくて、つい笑みが浮かぶ。
そんな彼女の様子を見、藍沢は顎に手を添えて何かを考えていた。
「……やっぱりそう見えるか……」
「先生?」
「いや、何でもない」
だがその考えていた「何か」を数日後に彼女は知ることとなる。
「先生どうしたんですか、それ…!」
「ん?」
大学が休みになったその日、その足で藍沢の自宅に向かった彼女は目を丸くした。数日前まで確かにあったはずのひげが綺麗に無くなっており、妙に若く見える。その顎に手をやりながら、藍沢は嬉しそうに口角を上げた。
「たまにはな。……そうだ、今日飯でも食いに行かないか」
「きょ、今日ですか!?」
「ああ。おしゃれして来いよ」
はばたき駅集合で、と続けられ動揺したままとりあえず急いで帰宅する。おしゃれと言われても、と悩みつつあれこれと着替えた結果、白地に黒のリボンのシャツワンピースと、薄手のカーディガンに落ちついた。足元は普段より少し高めの白いヒール。藍沢の隣に立つのに見合うようにと買った大人びたもので、お気に入りだ。
そうこうしている内に刻限は迫り、藍色の空に変わった街中を走る。頭上には一つ二つと星がまたたき始め、吐く息は白く広がる中、駅前で彼女を待つ藍沢の姿が目に入った。黒にも近い深藍のスーツ姿に、いつもの彼だと分かっても何故かどきどきする。
「ごめんなさい! 遅くなりました」
「急だったからな、気にするな。それじゃ、行こうか」
なんとなく腕をとるのがためらわれて、前を行く藍沢の後を追う。そこから五分も歩かなかっただろう、その場所は彼女が普段絶対行くことのないような高級フレンチの店だった。知らず顔の色が青ざめる。
「先生、ここ……に……?」
「ああ。どうした?」
「あの、私、あまり高いところは……」
なんだ、と毒気の抜かれたような表情で返し、次いで苦笑する。
「気にするな。普段入れてもらってるコーヒーの礼だ」
「で、でも」
「行くぞ」
困惑する彼女をよそに、藍沢は一人先に入店してしまう。仕方なく後を追うと、中にはシンプルなベストでまとめたウエイターが優雅な物腰で藍沢を案内する所だった。どうやら予約してあったらしく、店内の客の合間を縫って一番奥の半個室に通される。
そこに辿りつくまでの道中、店にいる女性陣が藍沢を見て、驚いた様な顔を浮かべているのが手に取るように分かった。その後を追うのが、どうにも申し訳ない。
「ほら、何が食べたい?」
「え、ええと」
メニューを渡され見てみるも、流暢な筆記体にどう見ても英語程度ではない言語。無言蒼白になってしまった彼女に気付いたのか、うつむきがちに笑った。
「特になければ、俺のおすすめでもいいか?」
「は、はい!」
「分かった」
タイミング良く表れたウエイターに何やら二三言葉を続け、会釈した彼がテーブルを後にする。残された二人きりのテーブルで所在なさげに辺りを見回した。
「どうした? こういう所ははじめてか」
「実は……。なんだか場違いな気がして」
「気にするな。俺も場違いだろ」
その言い方がおかしくて少しだけ笑ってしまう。だが改めて周囲を見渡すと黒と銀を基調としたシックな内装に、食器や小物まで細心の気を使われているのが分かる高級感。周りで食事している人もドレスやスーツの人ばかりで、ワンピースで来てしまった自分が少し恥ずかしく思えた。
おまけに一緒にいるのが藍沢だ。普段、無精ひげにのばしっぱなしの髪、という姿ばかり見ていたから気付かなかったが、確かに以前のノーベノレ賞受賞会見の時には、今と同じ好青年然とした姿だった気がする。
そんな事を考えているうちに前菜が運ばれ、静かに食事を開始する。どうやって食べたらよいかと試行錯誤する彼女をよそに、藍沢は実に手慣れた様子でそれらを口に運んでいた。やはり編集者との会議などでこんな場を使うこともあるのだろう。
(……)
この席に案内されるまでの様子を再び思い出す。普段あまり気にした事がなかったが、自分よりも年上の男性。そして人気作家であの容姿。女性がほっておくはずがない。
ましてや付き合っているとはいえ、自分は彼の姪と言い張ってしまえばそれが通ってしまうほど、傍からは幼く映る存在だ。事実こんな素敵な店に連れて来て貰っても、スマートに食事も出来ないし、藍沢とつり合っていないのでは、という思いだけが心に積もる。
結局味わったかなんだか分からないような状態のまま、デザートが運ばれて来てしまい、これをなんとか食べ終える。きしりと冷たい氷の味がした。
「たまに食べるといいもんだな」
「そう、ですね」
んー、と伸びをする藍沢の横で口角を上げてみせる。何だかどっと疲れてしまい、店を出られたことにほっとしていたのも束の間、可愛らしい声が後ろからかかった。
「あの、すみません」
「……?」
振り返ったそこには先程店にいたらしい女性二人組。繊細なラインのドレスを着こんでおり、どちらも藍沢と同じくらいの歳だろうか。彼女よりずっと落ちついて、大人びて見える。
「良かったら、一緒に飲みに行きませんか?」
「いや、俺は……」
ちらと彼女の方に視線を落とす。断り方に困っているのか、まだ未成年の彼女を気遣っているのか。だが、誘ってきた二人の目的が藍沢なのは見てすぐに分かった。
傍から見れば自分よりもずっと藍沢にふさわしく見える二人。反論しようと思ったが、続いた言葉がそれも阻害する。
「あ、もちろんお連れの方も一緒に……姪っ子さんですか?」
「いや、彼女は姪じゃなくて……」
「――先生、私なら大丈夫です」
限界だ。
「お、おい」
「一人でも帰れますから! 今日はありがとうございました」
言い終えるや否や逃げるようにその場を後にする。そぐわない。今の自分はあの場には似合わない。いたくない。
驚いた藍沢が止める間もなく、雑踏の中に彼女の姿を見失ってしまう。その様子に誘ってきた二人もきょとんとしていたが、藍沢はそんな彼女たちに一瞥をくれた。
「すみません、俺も失礼します」
「え、でも……」
何とか留まらせようとする努力もむなしく藍沢もまた彼女を追って走り出す。残された二人は結局二人の関係性が分からないまま、ただ首をかしげるばかりだった。
結局タクシーを拾うことも出来ず、ぽてぽてと歩いて帰宅する。高いヒールをはいてきてしまったためか、踵とつま先がひどく痛む。無理に大人ぶろうとした罰だと言われている気がした。おまけに冬に近い季節のためか、夜が深まるにつれ肌寒さも強まる。いいとこ無しだ。
足の痛みをなんとか誤魔化そうと近くの公園のブランコに腰掛けた。キイ、と甲高い金属の音が夜空に吸い込まれ、吐きだした息が白く留まる。
(……私、情けない)
他の女性に誘われた所で、堂々としていれば良かったのだ。藍沢はそんなことで心を動かす人ではないし、事実断ろうとしてくれていた。
それでも逃げ出してしまったのは、自分が彼に釣り合っていないのではとかすかにでも思ってしまったから。自分がいくら恋人同士だと思っていても、傍から見ればおじと姪っ子にしか見えないという事実を突き付けられた気がしたのだ。
靴ずれした足がじくじくと痛む。風が肩に触れるたび、ぞくりとした寒さが襲った。少しでも藍沢に追いつきたくて選んだ大人っぽいワンピースも、ヒールも、どれもが惨めにうつる。
視界がにじむ。こんなことで泣いても仕方がない、と分かっていながら、情けなさが俯いた涙腺を刺激した。
「――やっぱりここにいたのか」
はあ、と吐かれた溜息と、頭上に落ちた影。顔を上げるとそこには困ったような、怒ったような複雑な表情をした藍沢の顔があった。
「せ、せんせ、どうしてここ……!」
「先に家に行って待っていたんだが、君があまりに遅かったからな」
どうやらタクシーで先回りした結果、彼女を追い越してしまったらしい。涙目を見られたくなくて慌てる彼女をよそに、どこで買ってきたのか絆創膏の箱を開けると次いで彼女のヒールを手に取った。靴を脱がせると、赤くなってしまったそこに丁寧に貼っていく。
「だ、大丈夫です!」
「歩き方がおかしかったから気になってな。こんな高いヒールをはくからだぞ」
「……」
藍沢の長く節くれた指が、彼女の足に触れる。かしずかれるようなその体勢にもだが、慣れない靴を履いてきてしまったことすらばれていて一層恥ずかしくなる。
しかし藍沢の方は全く気にしていないのか、ヒールを脇に置くと着ていた上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。そしてくるりと後ろを向き、彼女の前に屈みこむ。
「ほら、」
「……?」
「その足じゃ歩けんだろ」
「で、でも」
「いいから。こんな時くらい甘えていいぞ」
結局足の痛みと申し訳なさが拮抗しつつも、藍沢の優しさに負けてその背中におぶさる。よいしょ、と持ち上げられるまま、両腕を藍沢の首に伸ばした。
車通りのほとんどない公園からの道を歩く。見上げた星空にはちかりと輝く星が数個だけ見え隠れし、冬の気配を存分に感じさせた。だが触れあう藍沢の体温は暖かく、一歩また一歩と彼が歩くたび心地よくその背が揺れる。
藍沢に似合うような女性になりたかったのに、結局こうして彼に頼りっぱなしだ。羽織っている上着と、彼の髪の匂いに包まれながらこてんと頭をその肩に寄せる。
「――今日は、悪かったな」
「……?」
ぽつり、と藍沢の低い声が落ちる。
「君につらい思いをさせてしまった」
返答に困り、ぎゅ、とワイシャツを掴む。その確かな体温にかすかな嬉しさを感じているなか、藍沢の言葉は続く。
「君にいいところを見せたくて恰好つけてみたが、このざまだ」
「いいところ、ですか?」
「ああ。――以前、君の友人と会ったことがあっただろ?」
うん? と記憶を辿る。そういえば少し前に書店にいる所を花椿に見られた記憶があるが、なぜそれが今頃出てくるのか。
「あの時、実はちょっとショックでな。俺は君とは釣り合わない。傍から見れば『おじさん』と間違われてもおかしくないんだな、ってな」
「そんなことないです! 先生は、すごく、大人で……」
「とりあえず髭をそったりもしてみたが……なかなか中身までは変わらないもんだな」
はは、と笑う姿がおかしくて、首にまわした腕を軽く曲げて抱きしめる。今なら、言えるかもしれない。
「――私は、早く大人になりたいって思いました」
「大人に?」
「大人っぽいと思ってたこのワンピースも、靴も、全然着こなせなくて。でも先生に追いつきたくて、無理してました」
かけられた上着。靴ずれしたヒール。お互いに近づこうとして、離れてしまっていた事実。
「……俺なんかに合わせなくていいんだぞ」
「じゃあ先生もおじさん、なんか言われても気にしないで下さい」
「――ああ、分かった」
くす、と小さなささめきが漏れる。
大人びて見られることを嫌がった藍沢と、幼く見られることがつらかった彼女。見れば全く違うその観点が、綺麗に一つの道に集結する。本当は周りの評価など、気にする必要はなかったのだ。
それ以上二人は何も言うことなく、ただ黙々と歩き続ける。藍沢は背中に残る暖かさと重さを実感しながら、長くて短い帰路についた。
「先生、また髭のびてきましたね」
「ん? ああ、そういえばそうだな」
数日後、彼の家でいつものコーヒーを淹れながら彼女が首をかしげていた。その視線の先には、いましがた指摘された顎に手を当てる藍沢の姿。
「なんだか、その方が『先生』って感じがします」
「……髭の無い俺は嫌いか?」
んー、と彼女は反対側に首をかしげながら湯気の立つマグカップを持ってくる。受け取ったそれを傾けながら、藍沢は少しだけ緊張しながら返事を待った。だがその答えの持ち主はのんきに自分のコーヒーを手にしたまま向かいのソファに座る。
「どっちでもいいです」
「……言うと思ったよ」
室内には香ばしい香りが漂い、再びキーを叩く細やかな音だけが落ちる。互いに言葉を発することもなく、藍沢は原稿を、彼女は本棚にあった文庫本を真剣に読んでいた。
ふと手を止め、彼女の方を見る。彼の視線に気づいていないのか、真面目な顔で文字を追う横顔はとても綺麗で、肩には以前よりずっと長くなった髪が零れている。
「早く大人になりたい」とあの時彼女は言った。だが彼女は、彼女自身が思うよりもずっと早く、大人になっていくだろう。それに気付いていないだけで、焦っているのは俺の方だ、などとは口が裂けても言えはしない。
(まったく――いつまで俺の姪でいてくれるのか)
彼女の傍にいられるなら、おじでも保護者でも髭でも大した問題ではない。これからもっと綺麗になっていく彼女を思い描き、藍沢は一人キーボードへ意識を戻した。
(了)2012.01.01
校正中見事に「ハンコ室」になってた半個室を見つけました
なんだよハンコ室って。どんだけ印鑑押してんだよ。