>> 君の名前を呼ぶ頃には




――先生はおまえを、何て呼べばいいんだ?


「よしっ、今日はここまで! お前たち、しっかり青春しろよ!」

 トントンと教壇で出席簿の端を揃える。ホームルームを終えてすぐ、運動部は忙しく部室へ。他のものは思い思いに立ち上がり早く帰るものもあれば、その場で談笑を始めるものもいる。
 やれやれ、と笑顔を浮かべながら、自らが顧問を務める柔道部、そのマネージャーの姿を探した。見慣れたその姿はすぐに見つかり、遠くから声をかける。

「おっ、すまん来週の練習試合――」
「――ちゃん。ねえ、一緒帰ろ?」

 だが大迫の言葉が届くよりも早く、彼女に声をかけたものがいた。綺麗な金の髪に整った相貌。大迫が教育的指導に手を焼いている桜井琥一の弟、琉夏である。

「ごめんね琉夏くん。今日は部活の方に出ないと」
「そっか。残念」

 何かと話題の桜井兄弟だが、彼女とは幼馴染であるという噂の通り、随分と親しげである。その様子をなんとなしに見ていた大迫であったが、彼女は琉夏にそう告げたままそそくさと教室を出ていってしまった。

「あっ、おい! 待て、―― …?」

 呼びかけて、すぐに止めた。
 琉夏が名前で呼んでいたのにつられたのか、思わず名前を呼んでしまいそうになり、慌てて考え直す。そうこうしている内に彼女の姿を見失い、大迫は一人やり場のない手を戻した。



 
 放課後。
 結局伝言出来なかった申し訳なさも手伝ってか、職員会議までの時間柔道部に顔を出すことにした。鶴の一声で建てられた練習棟では猛々しい掛け声と、畳に叩きつけるような重い音がこだましている。

「オッス! お前ら青春してるか!」

 押忍、と覇気の良い返事が返ってきて、思わずラグビー部時代を思い出す。乱取りを続ける生徒達を眺めながら、主将の不二山の所へ向かった。

「不二山、どうだ調子は」
「いい感じです。――ああ、ちょっといいか?」

 慣れた様子で彼女の名前を呼ぶ不二山。夫婦の様なタイミングの良さで、マネージャーがこちらに寄ってきた。

「何? 嵐くん」
「次試合形式で3本。それ終わったらしっかり柔軟させて、今日は試合に備えて早めにあげるか」
「了解!」
「ん、頼むな」

 不二山の指示をテキパキと部員達に降ろしていく手際の良さに感心しながら、ふと何か分からない違和感に囚われる。

(……んー?)

 それが何か分からないまま、平生を装い練習風景に意識を戻す。すると人一倍へばった様子の部員が、彼女の傍に近づいては何やらしょんぼりとへこんでいた。
 明るい茶色の髪に跳ねたそれ。不二山とマネージャーが執拗に勧誘していた一学年下の新名だろう。散々逃げ回っていたようだが、柔道部で青春するのに決めたのか。いいぞ新名!


「……だから、もーちょっとだけ、ね!」
「さっきも代わってもらったでしょ。はい、あと一回でいいから」
「んー……、じゃさ、――さんが見ててくれるなら頑張れそうな気がするんだけど。……だめ?」

 先程の琉夏を思い出す。
 彼女の名前を親しげに呼ぶ新名の姿を見、気付けば大迫は自ら代理を買って出ていた。

「――俺が見てやるぞ!」
「……へ?」
「いいぞ、ついにやる気を出したんだな新名! 先生で良ければいつまでだって見てやる! さあ来い!」
「え、いやいやいや、大迫先生じゃなくて――」

 はっはっは、と朗らかに笑いながら新名の腕をとり、畳に向かう。困惑する新名をよそにネクタイを紐解き、ワイシャツの袖をまくりあげては対峙する。
 
「よし、いつでも来ぉい!」
「だーかーらー! ……もーワケわかんねー!」

 なかばやけくそ状態になった新名の腕をとり、教員試験で習得した柔道の感覚を思い出しては組み合う。新名がやる気になったのが嬉しくなったのも本当だ。
 だが、あの時。新名が彼女の名前を呼んだ瞬間、体が動いていた。

(どうしてだ?)

 理由は分からない。ただ、あれ以上新名が彼女の名前を親しげに、甘えるように呼ぶ姿を見たくなかった。だから思わずふたりの間に割って入ってしまった。大迫がもう少し自身を客観視出来ていたなら、それが単純な嫉妬から来ていたものだと分かっただろう。だが悲しいかな、自覚がないということは恐ろしい。
 本気の内股が綺麗に決まり、新名が道場に投げだされる。大迫もまた額の汗をぬぐい、悔しげに起き上がる彼に身構えた。

「……っていうか、大迫せんせ完全に本気じゃん! おとなげねー!」
「ハハッ、勝負の世界に遠慮はなしだ! 来い! 先生が受け止めてやる!」

 ぐぬぬ、と新名が堪えるのを、対峙する大迫が笑顔で受け止める。そのまま二回戦、と思った刹那、入口の方から氷が地を這うような低い声が響いた。

「――大迫先生」
「ひ、氷室先生!」
「全く……職員会議の時間になっても来ないと思えばこんなところに」
「えっ!」

 慌てて道場内の時計を確認すると、なるほど戻る予定だった時間を大幅に過ぎている。

「大体きちんとした道着も着用せず思いつきで組み手を取るなどと……」
「す、すみません! すぐ行きます!」

 氷室に怒られながら落ちていたネクタイを拾い上げ、脱兎の勢いでいなくなった大迫の姿を、柔道部主将とマネージャーが不思議そうな顔で見つめていた。

「大迫先生、珍しいね」
「だな。……よし、新名今度は俺とだ」
「ええー!? 嵐さんまでどうしちゃったんスかー!」
「いいだろ別に。ほら、来い」

 不満を漏らす新名を見、彼女は少しだけ笑う。そして大迫の消えた先をしばらく見つめていた。






 大遅刻をかました職員会議も無事終了し、氷室主任から一通りの説教を受けた後、校内の見回りに足を向けた。陽の傾いた空からは橙色の光が差し込み、廊下を長い影が走っている。

(……うーん、今日の俺はちょっとダメなやつだな)

 マネージャーに伝言し損ねるわ、新名と組むのに集中した挙句遅刻するわ。いかんいかん、と首を振り、改めて見回りに集中した。
 遅い時間ということもあり、部活生もほぼ残っておらず、教室に残っていた彼らも大迫に軽口を返しながら次々と廊下をすれ違って行く。その最後、自分の担任でもあるそのクラスにも誰かが残っている気配を察し、ガラガラと扉を開けた。

「コラァ! いい加減家に……、」

 そこで言葉が止まる。
 薄紅の夕陽が窓から降り注ぐ教室。その窓際の席に、彼女が座っていた。いや、正しくはこてんと頭を腕を机に寄せ、眠っていたのだ。

「……まだ残ってたのか? 頑張り屋だな」

 返事がない。どうやら部活の後にここに戻ってきたのか、疲れて熟睡しているようだ。
 彼女が起きないのを把握したのか、大迫は静かに近づき、眠る彼女のすぐ前の席に後ろ向きに座った。椅子を跨ぎ、机上に散らばる髪を見つめる。腕に敷かれたその下には、開いたままのノートと参考書。どうやら今日の授業の復習をしていたようだ。

(そうだったな……)

 今でこそ全体で一二を争う成績の彼女だが、思えば入学当初の成績はけして良いものではなかった。
 入ってすぐの定期テストで記録的な赤点を取ってしまい、それから放課後、遅くまで残っては補習を受けていたのを思い出す。各科の担任に質問に行ったり、大迫のところにも習いに来た。その度熱心だなと感心しつつ、丁寧に教えてやった。
 するとどうだろう。何か大切な一点を理解したのか、ある時から彼女の成績は飛びぬけて向上した。学年上位から、遂にはトップを取るまでに。

(あいかわらず、頑張ってるのか)

 一位を取った日、喜ぶ彼女を見て大迫も自分の事のように喜んだ。その時に思ったのだ。彼女の可能性、素直な資質がどこまで伸びるのか、この目で見たいと。彼女の青春の後見人になりたいと。

 そう、思っていた。



「……ほら、早く起きろぉ」

 小さく言葉を落とす。だが暖かい夕陽の中、彼女は気持ちよさそうにくうくうと寝息を立てていた。教室には彼女と大迫の二人だけ。友達同士ならいざ知らず、なかなか陥ることのない状態だ。

 もし、もしもだ。
 もし、自分が彼女のクラスメイトだったなら。教師ではなく、同級生として出会えていたなら。

「頑張るのもいいけど、お前はちょっと頑張り過ぎだぁ……」

 椅子の背もたれに組んだ腕を乗せ、その上にもたげた首を軽くかしげる。こうして彼女を見ていると、なんだか本当に同級生になったような錯覚を起こしそうだ。
 教師と生徒でなかったら。普通に彼女の名前を呼んで、授業でも補習でもない時にでも、隣に立つことが出来たのに。こうして、放課後彼女と同じ教室にいられるのに。――いまの自分では、校内で名前一つ呼ぶことができない。
 相変わらず気持ちよさそうに眠る彼女の髪に手を伸ばし、起こさないようそっと手を乗せる。そして黒目がちな大きな目を細めると、わずかに口を開いた。


「――、」

 彼女の名前を呼ぶ。
 普段の大声からは想像できないほど小さなそれは、誰に聞かれるでもなく消え失せ、大迫はそっとその手を離した。

(……あああいかんいかん! 俺はこいつの先生なんだ!)

 自分の中にある、このもやもやの原因も理由も既に分かっている。だが大迫の身勝手で彼女を振り回すわけにはいかない。自分は後見人でなければならないのだ。
 もしもその拮抗が崩れる時があるとすればそれは、彼女の努力が花開いた時。それだけだ。
 静かに立ち上がり、教室を後にする。そして自身の担当する教室を最後に再び校内の見回りを開始した。  







「……ん」

 薄らとした陰りに目を覚ます。慌てて窓の外を見ると、もう夕陽が沈むすれすれのところにまで落ちていた。

「やばい、寝ちゃってたんだ!」

 柔道部の練習を終え、帰る前にここだけ復習しておこうと教科書を開いたまでは記憶にあったのだが、どうやら寝てしまったらしい。
 急いで帰らないと、と立ち上がり荷物を詰めようとする――その時、肩から滑り落ちた服に気付いた。

(……あれ?)

 男物のスーツの上着。冷えないよう誰かがかけてくれたものらしいが、誰のものか分からずありがとうございます、といいながら椅子の背もたれに掛けた。

「明日誰のか探そう……」

 うかうかしていると校内指導の大迫先生に見つかって怒られそうだ、とバタバタと教室を後にする。ぴしゃりと閉められた扉の奥に、小柄なスーツの上着が残されていた。

 やがて彼女の努力が文字通り花開き、大迫が彼女を名前で呼ぶようになるまで、あと少し。



(了) 2011.12.15

まあ一番の被害者は新名っていう

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