そしていつものように朝は訪れ、いつものように言葉少なに朝食を取る。お互い何を話すでもなく、ただ淡々と箸を動かしていた。歯磨きを終え、これもまたいつものように玄関に向かう。

「先輩準備オッケーですか?」
「あ、はい。ちゃんと鍵も持ちました」
「海パンもです」

 あ、と間抜けな声を挙げて部屋に戻る紺野を待つ。流石に来た時と同じ格好で戻すのは難しいが、来た時に持って来たものは全て元の世界に戻した方がいいだろう、という結論に辿りついた。
 ほどなくして戻ってきた紺野と共に、再び市民プールまでの道を歩く。歩き慣れた道。それなのに、何だか物語の終わりに繋がる道のように思えた。
 昨日の監視員に見つからないようにこそこそと更衣室に侵入する。平日の今日は昨日より更に人が少なく、邪魔も少なそうだ。ちなみにこんな時間に社会人の彼女が何故こんな場所にいられるかというと、姉の弟の一つ上のお姉さんの友達の旦那さんの奥さんの友人が結婚する式に出席する予定になっているからである。当然嘘である。

「ここでしたよね…」

 一番角に位置する何の変哲もないロッカーを前に、二人で息を飲む。昨日のが一回きりだったらどうしよう、夢を見ていたとかならどうしよう、という不安を抱えながらおずおずと紺野が鍵を差し込む。

「……開きました」
「良かった…」

 開かれた先には昨日と同じ向こうの世界のロッカー。嬉しそうに振り返った紺野と一瞬視線が合い、彼女もまた慌てて笑って見せる。そうか、これで、

「……これでお別れですね」
「……はい」

 沈黙が落ちる。
 分かっていたはずだった。いつかはこうして帰る日が来ること。帰らないでと思ったこともあったけど、紺野にとってきっとこれが一番いい事なのだ。
 向こうの世界には彼の家族がいる。設楽もいる。何より――私とは違う「彼女」がいる。

「あ、思い出した」
「何ですか?」
「花火大会に誘われたらちゃんと行ってくださいね」

 夫婦に間違えられたらいい。

「……え?」
「あ、あと、文化祭でつらいことがあっても落ち込まないで下さい」

 きっと報われるから。

「大学に彼女が来た時はちゃんと相手してあげないとだめです。あれ、結構きついです」
「大学って……まだ受かってもいないですよ?」

 何を言い出すのかと紺野は微笑む。確かに今は何を言っているか分からないだろう。だが、これから先「彼女」を振り向かせたいのなら必ず起きる「出来ごと」。

「商店街では、たまちゃ……お姉さんに気をつけて。あと、それか、ら……」

 そこから先は言葉にならなかった。
 どれだけ一生懸命アドバイスしようとも、これ「出来ごと」を一緒に体験するのは自分でないのだ。
 鼻の奥がつんとなる。どうして私は「彼女」じゃないんだろう。彼の幸せの先に、私はいられないんだろう。

「――設楽、先輩と、喧嘩しないでください ね?」

 水分を含んだ声を何とか絞り出すと、紺野もその意味を察したのか小さく「はい」とだけ返した。そのまま狭いロッカーに体を伸ばし、向こう側へと帰っていく。

「本当に、本当に色々、ありがとうございました」

 屈んだ姿勢のまま、深々と丁寧なお辞儀をし、視線を上向かせる。その姿を見た彼女もまた、瞳に浮かんでいた滴をぬぐい去り、無理やり笑って見せた。最後くらい、笑顔を見せたい。
 ロッカーの内側に取っ手がないので、こちら側から静かに扉を閉める。二十センチ、十五センチ、狭くなる隙間に合わせて扉の影が紺野の顔に落ちる。

「さよなら、紺野先輩」

 精いっぱい目を眇めて、口角を上げる。ギイ、と音を立てる金属の向こうで、聞き慣れた声がした。




「――教会に」

 それはとても小さく、

「教会に、行きます。だから」

 早口で、聞き返す間も無い一瞬。

「――僕は、貴方が」




 ロッカーの金具がガチリと硬質な音を立てた。

 しばらく待った後、再びロッカーを開けてみる。だがそこには何の変哲もない金属板が四方にあるだけで、向こう側に広がる世界など微塵も感じられなかった。

「ありがとう、ございました」

 もう届かないその呟きを残して、彼女は再び扉を閉じた。
 


 
 
 





 ぶわり、と散り始めの桜が視界を覆った。その優美さに眼を眇めながら階段を上り、玄関のカギを回す。

「ただいまー」

 返事のない居間へ足を進め、パチ、と灯りをつける。シンプルなテーブルと脱ぎっぱなしの服。パソコン。テレビ。ソファ。ベッド。それ以外は、――何もない。
 紺野が元の世界に戻ってから一カ月が過ぎた。帰ってしまった当初は、がらんと広く感じられていた部屋だったが、今ではもうすっかり元通り。彼と過ごしていたことの方が夢だったのではないか、と思うこともある。

「つっかれたー!」

 うーんと背を伸ばし、スーツを脱ぐ。ご飯は外で食べて来てしまったし、特にすることもなくだらだらと化粧を落とす。変わらない日常。一人だけの生活。

(紺野先輩、無事に帰れたのかな…)

 実は、あれからゲームを一度も起動していなかった。
 仕事が忙しかったのもあるが、それ以上に見る勇気が出ない。もしもあの時きちんと元の世界に帰れていなかったら、もしくは帰っていたとしても、――
 夜景の中で見た、紺野の寂しそうな顔がふとよぎる。
 彼がどのルートの紺野なのかは分からない。だが話を聞く限り、紺野一途ルートでないのは明らかだったし、そうなれば彼が幸せなエンディングを迎えられているとも限らない。

「……ええい」

 もやもやと思考の溜まる頭を振り払い、奥にしまいこんだDSを引っ張り出す。横の電源をスライドさせると、懐かしい桜草のシルエットとが浮かび上がった。
 とりあえず一番新しい進行途中のデータを呼び出して、占いを確認。運動のコマンドから進めてみる。アイコンがみよちゃんになっていたので、一体どのルートを目指していたものだったのか記憶にない。

「えーと、とりあえず適当に……」

 日曜まで進めればいいか、とコマンドを飛ばす。休みに入ってまず全員の好感度を確認すると、先輩組二人と主人公のアイコンが歪な三角を描く形で歩いていた。良かった、無事紺野先輩はゲームの世界に戻れたようだ、と安堵すると同時にくしくも先輩△ルート途中だったことに若干の罪悪感を感じる。
 改めて確認してみると、「解消の危機」という文字とともに遠く離れた紺野のアイコンがある。恐らく設楽攻略用に作っていたデータなのだろうが、何だか申し訳なくなりそのまま紺野に電話をする。

『はい、紺野です。うわっ!? あっ、その……』

 好き状態の電話台詞がそのまま三次元の紺野で再生されて、思わず笑ってしまう。無難に博物館を選択すると「二人で遊ぶ」「三人で遊ぶ」の選択肢が現われた。
 しばらく悩み「二人で遊ぶ」を選択する。このデータの進め方を見ると、ハートは設楽の方がかなり大きくなっているし、残りの期間も少ない。今から紺野エンドを目指しても間に合わない可能性の方が高いだろう。
 分かっている、これはゲームだ。
 今までだって他のキャラをクリアしているし、このデータじゃなくても紺野一途を目指して一から始めてもいいはずだ。
 だが、どうしてもこのデータを変えたかった。罪滅ぼし、に近い感覚だったのかもしれない。

 忘れかけた記憶を引っ張り出しながら、紺野の好む服装を揃える。待ち合わせ場所に行くと、先に来ていた紺野が嬉しそうに画面の中にいた。

(……ほんっと、まんまなんだなあ…)

 じくり、と胸の奥が軋んだ。そこにいるのは、この部屋にいた紺野玉緒そのもの。でもその笑顔を向けているのは私であって私でない、その液晶の向こうで背中を向けている「彼女」なのだ。
 特別会話も分かる。いつ、どこに行けばスチルが出るのかも覚えている。もはや歩く攻略本と化した自分の記憶を頼りに、花火大会と文化祭と、可能な限りイベントを起こしていく。大学で寂しい思いをするのも、商店街で二人で隠れるのも。

 慣れたもので、あっという間に三年目の三月を迎える。うまい具合に設楽との三角も解消され、このままいけば告白エンド2か、と安堵した。
 データとなってしまった紺野に、この努力が伝わっているのかも分からない。だが、こうして彼女をエンディングに導いたそれだけで、少しは喜んでくれる気がした。
 いつもように教会に行き、軋む扉を開く。一の頃から見慣れていたステンドグラスを見上げ、再び音を上げる教会の入り口へと目を向ける。そこにいたシルエットは案の定――紺野先輩。



「……あれ」

 ふと、手が止まる。

 シルエットに光が差し、見慣れた眼鏡と端正な顔、そして私服――とそこで気がついた。着ている私服がどうも今まで見たことがないデザインのものだったのだ。
 正確には今まで「立ち絵で」見たことがないだけで――見覚えは、あった。

「これ、私が店で選んだ服だ…」

 平面となり多少色合いが違うが、紛れも無く紺野がこちらに来た際に揃えた服のひとつだった。なにこれバグ? と嫌な汗が浮かぶと同時に、ふいに心が浮く。

『紺野先輩! どうして……』
『君を探してたんだ。……』

 奇妙な感覚を抱えたまま、エンディングは始まる。そうだ、確か高校に入った頃の話と、紺野自身の話をして……と必死に記憶を辿るが、表示される文字はその努力を無視して進んでいく。

『――約束どおり来てくれて、ありがとう』

 おかしい。
 こんな台詞、エンディングで言った事はないはずだ。
 混乱する彼女をよそに、紺野の言葉は次々と表示されていく。

『ずっとお礼を言いたかったんです。こんな僕に、優しくしてくれて本当にありがとう』
「……先輩?」
『一緒に服を選んでもらったこととか、高崎山とか、地獄めぐりとか、……すごく楽しかったです』

 ちょっと待て、いつから私のときメモは大分県民仕様になったのか。
 ではなく。

「これ、もしかして、あの紺野先輩…?」

 こちらからの選択肢は表示されないから、向こうが話しているのを自動的に読まざるを得ない。だが、どう考えても既存のプログラムではなくまるで――この部屋に来た紺野自身が話しているように見えた。それも画面の中の「彼女」ではなく、画面のこちらの「彼女」に。

『未だに信じられないんです、貴方の世界に行ったこと。あと、僕がゲームのキャラクターだったこと』
「……」
『「君」を好きになるのは当たり前だったんだ。だって、「貴方」がそうさせたんだから』

 少しだけ伏せた眼で視線を落とす。今紺野はゲームの中の彼女と向かい合っているはずなのに。何このエンディングどこに向かおうとしているの。

『プログラムが何を言い出すんだ、って思ってますか? ――僕もそう思います。知らなければ、気付くことも無かった』

 自身がプログラムであること。
 この恋すらフラグと変数の集合体でしかないこと。
 そんな作り物の自分が、こんな説明の出来ない気持ちを持ってしまったこと。



『僕が好きになったのは「君」じゃなかった。――「貴方」だ』

 ゆっくりと流れる文字に、目を丸くする。

『このデータが終われば僕はまた、ただの「紺野玉緒」に戻ります。バグデータはリセットされる仕様だから』
「……バグじゃ、…」
『だから、僕が僕のうちに貴方に伝えられて良かった』
「……、ないよ……!」

 必死にBボタンを連打する。だがエンディングは非情にも強制的に文字を進めて行く。キャンセルも停止も早送りも、何も出来ない。
 彼女のそんな抵抗がゲーム内の彼にも伝わったのか、再び微笑む立ち絵に変わった。終わってしまう。――「彼」が消えてしまう。

『最後にひとつ、お願いしていいですか?』

 ゆっくりと白い文字が表示され、紺野は静かに目を閉じた。

『どうかペンではなく、貴方の手で――触れて下さい』

 傍から見れば、告白後の選択待ち状態。だがそこには、いつもなら表示されているはずの選択肢が無かった。断ることすら許されない。
 触れたくない、と思いつつ、このまま紺野を留めてもいられないという理性が彼女の指を動かす。柔らかい液晶に触れると、画面の向こうの紺野がわずかに頬を染め寂しそうに笑った。


『……どうして、こんなに近くにいるのに僕は――貴方に触れないんだろう、な』

 刹那、画面が真白になり見慣れた花の曲と桜草が浮かび上がった。流れて行く教会を見ながら、ただ茫然とそれが過ぎ去るのを眺めていた。
 スタート画面に戻った後、何度も何度も紺野でクリアを試みた。新しく作ったもの。途中放棄していたもの。だがそのどれを突きつめても、――あのバグによるエンディングを見る事は二度となかった。








「――ごめんね 画面から出られないの」

 覚えのある歌が音を紡ぐ。
 
「どんなに気持ちが高ぶっても、あなたに触れられない」

 流れる水の音。食器についた細かな泡を丁寧に洗い流しながら、鼻歌まじりにカチャカチャと音を立てる。

「ごめんね 本音が口に出せ、ないの僕は二次元の――」

 バラバラバラ、と水滴の残る箸が立てかけられ、水道をひねる甲高い音が跡を残した。掛けてあったタオルで濡れた手を拭い、パタパタとスリッパの音を立てながら風呂場へと向かう。
 ひょいと覗き込み浴槽を見るが、まだ半分ほどしか埋まっておらずすごすごと居間に戻った。

「どうしようかなー……あ、そうだ」

 テーブルに置かれていたDSを拾い上げソファに横になる。慣れた仕草で電源を入れ、途中のデータを進めて行く。
 何度も試してみたが、あの日見たエンディングを見る事は出来なかった。紺野を何度攻略しても、迎えるのは決められた言葉通りのものだけ。誰かに話したところで「いいから三次元に帰ってこい」と言われるだけだろう。中断した鼻歌を続けながら、タッチペンを動かす。

「でも、――伝えたいの、この気持ち」


 相変わらず訪れるつまらない日常。変わらない毎日。でも、あの幻のような時間が、少しだけそれを変えてくれた気がする。
 エンディングを迎えた頃、時計に目を向ける。そろそろお風呂も沸いたことだろう。

「あっ、おっふろーおっふろー」

 いつしか小さな歌声は、随分前に聞いたような奇妙な歌にすり替わっていた。美しいハーモニーの曲が終わり、画面が暗転する。ゲーム画面がはじまりに戻るか否かというごくわずかなタイミング、彼女が電源を落とすまでの一瞬、聞き慣れた彼の声が零れた。



『――出会ってくれて、本当にありがとう』


 それは、誰かの歌に似ていた。



--------------

「。トリップ」紺野×大分でした!


素敵な企画に参加させていただきありがとうございました〜*

ちなみに作中最後に主人公が歌っていた歌は「rainbowgirl」という曲の一部抜粋です。原曲はほんとに泣けるので、まだ聞いたことのない方は是非聞いてみて下さい。ハンマー買ってきたくなるよ!

 
 
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