「ちょっと、そこでなにしているんですか!」
突然後ろから飛んできた係員の言葉に慌ててロッカーを閉じる。やばい。人が少ないからとのんきにガチャガチャやっていたが、男子更衣室に侵入し二人がかりでロッカーを開けたり閉めたりしていたらそれはどう見ても不審者だろう。
「すすすみません、その怪しいもので す?」
「先輩自己紹介してる暇じゃないですよ!」
失礼しました、と逃げるような勢いで更衣室を後にする。背中にじりじりと受ける疑いの眼差しを気にしつつ、二人は知らずはやる気持ちで走り出していた。道が開けた。帰ることが、出来る。
時刻はいつの間にか夕方になっており、自宅へ向かう視線の先に茜色に染まった空が広がっていた。二人の影が足元から長く伸び、前を歩く彼女が嬉しそうに振り返る。
「――これで、帰れますね」
目を眇める彼女の顔のふちが、夕日に照らされて金色に輝く。その幸せそうな笑顔を見て、紺野も「はい」と笑い返そうとした。これで元の世界に帰ることができる。また後輩の彼女に会える。――でも、
「…… 」
開いた口が中途半端に止まる。
何故か、上手く笑えなかった。
明日再度ロッカーに挑もうと約束し、夕飯食べ、交代で風呂に入る。いつもの事だが、これら全て最後なのだとお互いが分かっていた。だが口にするのがはばかられ、まるでこれからも続くかのようにふるまってしまう。
「じゃあ、お休みなさい」
「はい、おやすみなさい」
カチ、と照明が落とされ暗闇に包まれる。月明かりが僅かに窓から差し込むが、お互い逆の方向を向いているので表情すら分からない。
最初どちらがベッドに寝るかで揉めていたのも、今となっては随分昔のことのようだ。それも今日で終わり。明日からはまたこの部屋で一人で眠ることになる。
(……元通りになるだけ、)
いままでだってずっと一人で暮らしていた。紺野がこの部屋にいたのも、ほんの少しの時間のことなのに。もやもやとした感情が心の中に溜まり、たまらず布団を頭からかぶる。
「……あの」
確かに聞こえたCV千葉を確かめるかのようにおずおずと布団から頭を出す。先ほどより幾分か慣れたとは言え、向こうを向いたままの紺野の顔は見えず、彼女はその広い背中だけをじっと見つめた。
「……どうして、ここまでしてくれるんですか」
「どうして、って?」
「僕は……違う世界の人間で、でも、その証拠も無くて、……全然知らない人間に、どうしてこんな」
紺野自身、自分がゲームのキャラクターなのだと言われた時は驚いた。自分の意思で行動していたと思っていたことも、その感情さえも、全ては他の何者かに作られていたもの。自分でも自分が信じられない、そんな状態なのに、彼女は自分の家を提供し、あまつ紺野を何とか元の世界に帰そうと必死になってくれている。
ずっと疑問だった。自分にどうしてここまで良くしてくれるのか。
「……先輩、知ってますか?」
ぽつり、と彼女の声が落ちた。
「私、先輩を一番にクリアしたんです」
「……え ?」
予想していない返答に、気の抜けた声が戻る。その様子に彼女は少しだけ笑いながら続けた。
「ゲームを始めて、一番です。で、その後も色々会話が聞きたくて、何回も何回も先輩ばかりクリアしてました」
嫌がる温水プールに三回連れて行ったり、花火大会に毎回行っては一緒に迷子をあやす紺野を見ていた。春のスチルが進学の追加デートだった時は本気で「わかんねえよ!」と思ったりした。
何度も何度も、教会にくる姿を見た。自分ではない女の子と幸せになる未来を、何度も。
「先輩は知らないかもしれませんけど、ずっとずっと――先輩とここで会ったよりもずっと前から、……私は貴方が好きなんです」
(……って、何を 言っている の私!)
言い終えてから、ようやく発言の恥ずかしさに気付いた。暗闇と静けさでたがが外れていたのだろうか、真っ赤になった顔を見られていない事に安堵しながら、慌てて弁明を付けたす。
「だ、だから! 早く先輩にはゲームに帰ってもらって、またエンディングが見たい…な……って」
だが紺野からの返事は待てども無く、変わりに静かな寝息だけが聞こえてきた。どうやら途中で寝てしまったのか、今日のあわただしさに疲れたのだろう。
よかったもしかしたら先程の恥ずかしい発言も聞かれていないかも、と密かに胸を撫で下ろし、彼女も改めて布団を引き上げた。
深夜、月明かりが窓枠を鮮明に床に映し出す。規則的に続く寝息の一方が途切れ、ソファに埋もれていた長身が室内に長い影を落とした。音を立てないよう細心の注意を払いながら、ベッドで眠る彼女の傍に歩み寄る。
すやすやと眠る彼女は子どもの様で、とても年上とは思えない。その額にかかった前髪をそっと指で払いながら、紺野は寂しいとも嬉しいともつかない顔で呟いた。
「……僕は、ゲームのキャラクター、なんですよね」
――恋だと思っていた。
後輩のあの子に対する気持ちは紛れも無く自分のもので、それに疑いを持った事なんてなかった。
でもそれが全てプログラムされたものだとしたら? あの子を好きになるか、ならないか、ただそれだけの思考ルーチンだとしたら?
僕が好きになったのは後輩の彼女だったのか?
――本当に僕が好きになったのはその向こうにいる「誰か」ではなかったのか?
(――先輩とここで会ったよりもずっと前から、……私は貴方が好きなんです)
彼女の言葉を思い出し、ぼんと一気に顔を赤くする。告白なんてされたことがなかった。必死に寝たふりをしてみたものの、耳から煙でも出てるんじゃないかと思うほど焦った。
それでも彼女は「ここにいて」とは言わない。それはおそらく、紺野がこの世界の人間でないと分かっているからなのだろう。彼女は自分とは違う世界の人。それに恋をして、幸せになどなれない。でも、
「……これも、プログラムなんですか」
体の奥が、ぎゅうと痛む。
正体のしれない痛みに眉を寄せ、静かにしゃがみ込む。相変わらず穏やかに眠る彼女を見、紺野もまた同じく首を傾ける。薄く開いた唇に、重ね合わせようと顔を寄せ――触れるすんでの所でぴたりと止まった。
そのままかすかな溜息を吐きだすと、ゆっくりと顔を離す。彼女の布団をかけなおすと、自らの愚行を恥じるかのように再びソファに横になった。