別大国道を抜け別府市街に入る。山の中腹には白い湯けむりがもうもうと立ち上り、独特の硫黄の匂いが車内にまで漂ってくる。さすが別府。
「あ、そういえば地獄めぐりは知ってますか?」
「じ、地獄……?」
「あ、ええとですね」
目をきょとんとさせた紺野がそっくり問い返してきたのに、ようやくあわあわと説明を加える。
「ここ別府には地獄組合があって、全部で8個の地獄があるんですよー」
「……地獄、組合? 8個も、その、地獄があるんですか…!?」
「あああその、たとえですから! そんな真剣に悩まないで……」
別府は古くから温泉地として有名だが、その土地質のため酸化鉄や一塩化ナトリウム、酸化マグネシウムなどが科学反応を起こし地層から溢れた場所が多々ある。非常に高温なそこはその見た目から通称「地獄」と呼ばれており、海地獄や坊主地獄などいろいろな種類の地獄が見られる。ちなみに地獄組合は本当にある。
ただし地獄という名に反して現場は地熱で大変暖かく、足湯なんかもあってとてもほのぼのしている。大分にお越しの際はタオルを持って是非。以上宣伝終了。
言うより早いか、ととりあえず一番近場の竜巻地獄へと向かう。車を止め中に入ると大きな屋根のある広場と、その前に据えられた岩場と鉄の鎖があった。
その岩場に向き合うように幾つも長いベンチが置かれており、まるで水族館のショーを待つかのようだ。
「ここが竜巻地獄です。間欠泉が吹きあがるんですよー」
「へえ、そうなんですね。どこにその地獄があるんですか?」
「……ええと、あと30分くらい で…?」
「……えっ?」
おずおずと指し示した先には前述した岩場しかなく、紺野は再びあっけにとられたような表情でそこを見つめる。
「その、いつも出ているわけではなくて、ここで吹き出すのを待つんですよ」
「待つ、って事は……完全に運と言うか偶然に頼って…?」
「あ、いえいえ私見た時は50分待ちくらいで出たから大丈夫ですよー」
「そんなに誤差あるんですか!?」
その通り、竜巻地獄は地熱の温まり方によって吹き出してくるため、いつ来ても見られないというか来てすぐ見れないことの方が多い。そのため向かいのベンチに座って吹き出すのを待つわけだが、当然ショーの時間が決まっているわけではないので完全に間欠泉任せである。
とりあえず向かいのベンチに座り、ぼうっと岩場を眺める。今のところ全く吹きあがる兆しはなく、二人して沈黙する。
「……」
「……」
「これって、裏側にバルブがあってお客さん集まったら開くとか……」
「みんなそれ言いますね…」
真相は不明である。
それからしばらく待ってみるがやはり兆しがなく、連れてきた彼女もやや焦りを感じ始めた。ああなんで海地獄とかにしなかったの私。日は刻々と暮れ、他の場所に行く時間はなさそうだ。
紺野がつまらなくしているのではないだろうか、とおそるおそる隣を伺ってみる。すると当の紺野はどこか楽しそうな顔で微笑んでいた。
「紺野先輩…?」
「え、いや、……設楽がいたら『いつまで待たせるんだ! 俺は帰るからな!』って言いだしそうだなあと思って」
「あ、言いそうです」
あ、わかりますか? と急に嬉しそうになり、次から次へと言葉が続く。後輩の女の子と遊びに行ったら紅葉を頭にくっつけていただの、水族館で水を浴びせかけられただの、聞いているこちらは「ああスチルが…!」と苦悩しながら聞くはめになる。
「大体あいつは思ったことをすぐに言うから……」
「でもなんだかんだ言っても仲良いんですね」
「……だと思ってた、けど……どうなんでしょう」
ふと、言葉が陰る。
「今までは三人で遊んでても楽しかったんです、本当に。でも、その、最近は……」
「……楽しくない?」
「違います。楽しくないとかじゃなくて、その……ああ、何を言おうとしているんだ僕は」
何と声をかけよう、と彼女が悩み口を開いたその時、タイミング良くと言うのか待ち望んでいた間欠泉が吹き出した。二人して慌てて岩場の方を見るが、吹き出し始めを見逃してしまい、あれだけ待った地獄はみるみる収束していく。
待ち時間に反してあっという間に終わってしまったそれを二人して茫然と眺めていたが、しばらくして小さな笑い声が続いた。
「……見逃しましたね」
「せっかく待ってたのに、ですね」
だが、紺野はさして残念ではなさそうに立ち上がり、引き上げた岩場をしばらくの間興味深げに覗き込んでいた。その姿はまるで、帰り道を探す迷子の子どものようだった。
すっかり暗くなってしまった市街地を抜け、高速へと車を走らせる。お腹もいっぱいになり、二人の会話も和やかなものでぽつりぽつりと続くばかりだ。千葉進歩助手席まじ幸せと思いながら、ふと先程の紺野の様子を思い出す。
「ちょっと遠回りしていいですか?」
「ああ、はい」
高速方面にハンドルを切り走ること十数分。山の上にあるそこは先程まで自分達がいた別府市街地が一望でき、遠くには大分市。その全てが深い藍色の夜空の下、一面に輝いていた。大分で見られる数少ない絶景の夜景だ。
「……すごい」
「すごいですよね! 夜高速に乗ってる時、みんな別府の街を見ると綺麗だねーって言ってくれるんです」
嬉しそうに指さし、あれが、これがと嬉しそうに説明する。キラキラと宝石を散りばめたかのように輝くそれは、一つ一つ全て違う建物の灯りなのだ。赤、白、水色、またたくもの、光り続けるもの。そのどれもに人がいて、家族がいて、物語がある。それを考えるだけで何故か胸が痛んだ。
「あと、ここから見える夜景の中に、明かりで出来たハートが三つあるらしくて、それを全て見つけたカップルは幸せになるそうですよ」
「へえ、ハートかあ」
その言葉に紺野は眼下に広がる夜景を眺め、あれかなあ、などと目を眇めた。寒さのためか空気が凍ったように澄んでおり、吐く息が白く曇る。
目の前の紺野の目には別府の夜景が映りこみ幾つもの星が浮いているように見えた。
(このまま)
私と同じ、ひと。
同じ冷たさを感じ取り、同じ空気を吸い、言葉を交わせる。すれ違う誰もが彼が二次元の世界の人間だなんて気付かない。
もしも帰る方法が見つかられければ、彼はここでずっと――このまま ?
「あ、二つ目みつけました」
「……えっあ、ど、どこですか!?」
突然呼び戻され、慌てて意識を手繰る。だめだだめだ。先輩は私が責任を持って向こうの世界に帰さなければ。
向こうには先輩の家族も設楽先輩もいるし、何より――『彼女』がいる。
ふと心に浮かんだ思考を振り払うように、しばしハート探しに奮闘する。やがてどちらともなく言葉少なになり、沈黙が冬の空に落ちた。
「――僕が、悪いんです」
ぽつり、と紺野の言葉がまたたく。
「ここに来る前、後輩の子と温水プールにいたって言いましたよね」
「うん、インパクト強かったから覚えてる」
「実は、二人じゃなくて、……設楽もいたんです」
どうやら通常デートではなく、三人で遊ぶコマンドだったらしい。なるほど、それならば場所判定××の温水プールにいたのも頷ける。
「……本当に、ずっと楽しかった。でも、最近『どうして僕だけじゃないんだろう』って」
『彼女』が誘ってくるときはいつも「設楽と一緒」に。
遊び始めてからずっとそうだったから、というのもあるだろう。だが、最近どうしても違う思考が頭をよぎる。『彼女』が遊びたいのは自分ではないのかもしれない――設楽、と遊びたいだけなのではないか、と。
「設楽は設楽で何を考えているか分からないけど、きっと、同じように思っている気が、して」
「……」
「だからあの日……『二人だけになれたら』って、思ってしまったんです」
明らかな独占欲。
上手く言葉に出来ない自分に対し、まっすぐな感情をぶつけられる設楽。冷たくあしらっているように見え、その実人に対して気遣う事を無意識にやってのける。
設楽の良さは紺野も十二分に知っていた。だからこそ、彼女が魅かれて行くことを恐れた。
「二人が楽しそうにしていて、見ているのが、その――つらくて。見ていられなくてロッカー室に戻って扉を開けたら、……お風呂場に飛ばされていたんです」
罰があたったのかな、と寂しく笑う紺野を見、彼女もまた何も言うことが出来なくなってしまった。ゲームでなら、きっともうすぐPVPだなあなどと呑気に考えられたのかも知れない。
だが、すぐ隣で真剣に語る紺野の姿を見ていると、プログラムではない、生身の人間の恋に見えたのだ。
(苦しい、なあ)
ゲームではただのシステム。でも実際に三角関係になった時、当の本人達が苦しくないわけがない。帰り道に吐きだした本音。ADV。だが、ゲーム上で語られなかっただけで、三人でいた時間中も、積もる思いはある。選ばれるライバルと、選ばれない自分。
再び沈黙が落ち、肌寒い風がびゅうと吹き込む。紺野の綺麗な髪が、乱暴に崩れるのが見えた。端正な横顔はスチルよりもずっと迫力があり、同時に頼りなく見えた。
その姿に、一瞬陰りが残る。
(ここ、に)
いたらいいのに。
いてくれたら、そんな苦しい思いはさせないのに。
私なら、貴方を選ぶのに。
「――じゃあ、なおのこと早く帰らないとですね」
喉の奥に浮かんだ言葉を飲み込み、無理やり笑って見せる。
「このままここにいたら設楽先輩にとられてしまいます! 早く帰って、ちゃんと戦わないとだめですよ」
「……はは、そうか……そうですね…」
気弱に笑う紺野の頭に手を伸ばし、ぐしゃぐしゃと撫でる。体温が伝わってきて、泣きそうになるが、それを堪えて二人で見る最後の夜景に白い息を吹きかけた。
――結局、三つめのハートは見つからなかった。