>> お姉さんは最凶で最強



「ただいま―」

 ごとごとと靴を脱ぎ、廊下を歩く。珍しく生徒会の仕事が無く、早く帰ることができた今日、録画していた番組を見てしまおうとそのまま自室に向かう。

「ああ、ちょっと玉緒! こっち来なさい!」

 だが居間から飛んできた親の声にそれも阻止され、仕方なくそちらに顔を出す。

「何? せっかく早く帰れたから、きょう、は、……」
「……おじゃましてます」

 言いかけていた言葉が、居間に来ていた客の姿を捉えた瞬間短くたどたどしくなっていく。紺野の母親と向かいあっているその女性は、年は紺野よりいくつか上だろうか、穏やかに笑いながらも自分達学生とは明らかに違う空気をまとっていた。
 だが僕はこの人を間違いなく――知っている。

「ほら、昔うちの近所に住んでた――ちゃん! 玉緒も小さい時よく遊んでもらったでしょ?」
「えっ? あ、うん、覚えてる、けど」

 覚えていないわけがない。





――なに、読んでるの?

 昔の僕は体も小さくて、引っ込み思案で、姉貴が誰かを家に呼んでも部屋の隅で一人本を読んでいるような奴だった。

「……えっ、えと…」
「何だか数字がいっぱいだね、何の本なの?」

 その日も姉貴達が楽しそうに遊んでいるのを横目に、居間の窓際に座り込んで時刻表をめくっていた。早く帰らないかな、と思っていたその時突然話しかけられたのだ。

「その、時刻表……です」
「時刻表って電車の?」
「うん、これは全国のが載ってて――」
「ねー何してるの―?」

 慌てて説明しようとするも、タイミング悪く姉貴の声がこちらに飛んできて、彼女は小さく「じゃあね」と笑って呼ばれた方に走っていってしまった。後に残されたのはどうしようもない空虚な感じと体の奥がキュンとなる不思議な気持ちだけ。
 それが僕と彼女の最初の出会いだった。



「お父さんがまたこっちの方に転勤になったから帰ってきたんですって」
「お久しぶりです、またよろしくね、玉緒くん」
「あ、ええと、はい……」



 それから何度か家に遊びに来るうち、少しずつ話が出来るようになっていった。だがそんなある日、彼女の父親の転勤が決まったのだ。

「げんき、でね」
「うん、珠美ちゃんも、元気でね。また、遊ぼうね」

 最後のお別れの日、お互い泣きながら別れを告げる彼女と姉貴の姿を紺野はただ黙って見つめていた。「ありがとう」と「さよなら」と。言わなければならない言葉だけがぐるぐると頭を巡るばかりで音にならない。

「玉緒くんも、元気でね」

 そうこうしているうちに真っ赤に目を腫らした彼女が目の前でしゃがみ込み、玉緒の小さい体をぎゅっと抱きしめてきた。スキンシップが好きだった彼女の癖なのだろう、その慣れた感覚に知らずのどの奥から嗚咽がこみ上げる。ぶわりと視界が濁る。

「……もっと強くなります」
「……玉緒くん?」
「運動も勉強もたくさんする、すぐ泣かない、…だから、僕がもっとかっこよく、なったら……僕を好きに、なってください」
 
 あの頃はこの気持ちの名前が分からなかったけど、今なら分かる――幼かった僕は恋をしていたのだと。
 精一杯の告白の真意は彼女に届くでもなく、更に強く抱き寄せられたかと思うとこつ、と額が触れる。子どもをあやすかねように穏やかな声で小さく微笑んだのが分かった。

「うん、わかった。――約束ね」
「やく、そく」

 それを合図に鼻の奥がつんと痛み、頬を幾筋も水滴が滑り落ちる。あの日からずっとあの約束だけが心の端に残っていたのだ。






「ごめんね、送ってもらっちゃって」
「いえ、全然」

 彼女を家まで送るようにとの指令を母から受け、幼い頃の記憶を辿りながら帰路を歩む。空は薄桃から濃橙に段階を追って変化しており、薄らと煙のような雲が浮かんでいた。

「でも、ほんとに驚きました。……もう、会えないかと思っていたので」
「私も。戻ってくるのが分かった時は驚いたよ〜」

 ふふ、と笑いながら紺野の後ろを付いてくる彼女は、あの頃とほとんど変わらなかった。もちろんずっと女性らしくなったし髪も伸びた、だがまとっている雰囲気というか空気というか、彼女を構成する全ては何も変わっていない。

「玉緒くんもすっかり大きくなっちゃって」
「……はあ」

 にこにこと嬉しそうに頭に手を伸ばしてきては、子どもの時のように髪を撫でてくる。どうやらスキンシップ好きは健在らしく、紺野も慣れた様子でされるがままになっていた。
 そのまま両腕をぎゅうと回される。小さかった頃は彼女の腕の中に全身が収まっていたのに、今となっては腰のあたりにくっつかれているかのようで、正直落ち着かない。

「それにしても玉緒くん、背のびたね」
「一応成長期ですから……はい、手、離してください」

 苦笑いを浮かべた玉緒の表情に気づいたのか、彼女は「うん」と笑いながらその腕をほどいた。恐らく彼女の中での僕はまだ、弟のような存在なのだろう。だからこそ何のてらいもなく抱きついてくるし、そこには何の計算もない。
 それが、つらい。

(昔からちょっとスキンシップが多すぎるとは思ってたけど……)

 いっそ自分を陥落させる目的でしてくれるなら、喜んでその罠に乗ろう。だが、この鈍感な年上は今もなお玉緒をあの幼い頃と変わらないものとして見てくるのだ。

「あの」
「なに?」
「……約束、覚えてますか?」

 あの約束を叶えるため、勉強をした。苦手だった運動も努力した。あれだけ転けてばかりだったスキーも、気づけば足が着くようになっていた。そこでようやく自身の身長が延びていたことを知った。
 あの頃の僕とは違う。体も心も、その気持ちさえも。

「約束?」

 ようやく彼女の昔の家が見え始め、後ろから聞こえた声を聞き逃さぬよう静かに足を進める。そしてたどり着いた玄関の前で彼女はするりと紺野の前を通り過ぎ、くるりと振り返って微笑んだ。

「勉強と運動頑張ります、ってやつだよね?」
「……え?」
「玉緒くん、今生徒会長なんだよね。すごく頑張ったんだね」
「ええと、はい。……あの、それじゃなくて」
「うん?」

 だめだ。
 完全に年上お姉さんの視点になっている。おまけに宣誓部分だけ覚えて、約束の肝心な部分は忘れている。

「……はあ、…もういいです」
「え、あの、」
「……何でもないです」

 慌てる彼女の顔を見たくなくて、ふ、と笑ってみせる。それに安心したのか分かりやすい安堵の笑みを浮かべ、ばいばいと手を振って家の中へ消えていった。



「やっぱり……弟なのかな…」

 一人で戻る帰り道、紺野の小さな呟きだけが明けの空へ吸い込まれていった。





 それから何度か姉貴を交えて家に来たり行ったり、頼まれて二人で出かけたりしたが、相変わらず彼女は「年上のお姉さん」だった。無邪気に頭を撫でてきたり、突然抱きしめられるのを「はいはい」と離すのにも慣れた。完全に弟扱いされているからこそ、ではあるが少々心配なスキンシップぶりでもある。



「――だから、そのすぐ頭を撫でる癖、やめてください……その、恥ずかしいので」
「あ、ごめん」

 今日もいつものように紺野の家に遊びに来ていた彼女は、何故か高校の課題を広げて彼の部屋でうんうんと考え込んでいた。あまりの悩みぶりに何事かと見てみると、どうやら家庭教師をしている高校生の問題らしい。

「たまたま昨日勉強しただけですよ」
「でもすごいよ〜私引っかけに気づけなかったし」

 不平を言いながらも、彼女から髪を触られるのは心地よいのでしばらくされるがままじっとしてみる。だが、ふと一つの疑問が頭をよぎった。

「あの、……普段からこんなに、その、いろんな人に抱きついたりするんですか?」
「ん? 女の子には結構するかな、さすがに男の人にはしないけど」

 これである。

(完全に男って認識されてないな……僕)

 はあ、と息をつき頭に載せられた手を取る。そのまま手首を掴みぐいと体を寄せると、彼女の小さい体をぎゅっと抱きしめる。

「……僕も、一応男なんですよ」

 脅しにもならないが、一応言ってみる。いつもあれだけ抱きつかれたりしているのだ。これ位の健気な反撃、構わないだろう。

「何かあってからじゃ遅いんです。大体、ちょっとぽやんとしす ぎ…」

 ほんの警告のつもりだった。
 普段あれだけ抱きついたり頭を撫でたりしてくる彼女だから、これ位はスキンシップの内なのだと思っていた。
 きっといつもの笑顔を浮かべながら「うん、気をつけるね!」と返ってくるんだと、思って、いたのに。




「……は、い」


 どうして腕の中の彼女は頬を真っ赤にしているのだろう。 彼女は本当に年上なのか、僕の体に収まるほど小さくて、手首なんてこんなに細くて、ちょっと力を加えればすぐに組み敷ける――思考がぐるぐると巡る。その内、彼女が震えているのに気づき、慌てて手を離した。
 刹那、彼女は身を起こし、逃げるように部屋から飛び出していった。






(一体、何だって言うんだ……)

 自分は弟扱いではなかったのか。何故突然、お姉さんから普通の女の子に戻ってしまったのか。そして自分は何という事をしてしまったのか。あの一瞬、僕は、何を考えたのか。

「……はあ」

 腕の中で真っ赤になった彼女の姿を思いだしながら、紺野は組んだ手に頭を寄せ、一人机で深い深いため息をついた。



(了) 2010.10.20

日記でちらと書いていました紺野×年上バンビです丁寧語最高!

ちなみに時刻表は見てると意外と面白いです

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -