>> 呼ぶな、呼び名、呼んで




 俺の名前は神童なんかじゃない。



「まさに神童ですね」
「才能に恵まれていて羨ましい。ご両親の教育の賜物ですわ」

 耳にタコだかイカだか出来そうなほど、何度も繰り返された言葉。家庭教師も使用人も両親さえも、俺をまるでモーツァルトの生まれ変わりかと思っているのかという勢いで賞賛する。

「……ありがとうございます」

 ピアノは好きだ。難しい曲が弾けるようになるのは嬉しいし、何か名前の付いた賞をもらうたび、屋敷の奴らが我が事のように喜んでくれる。
 ただ、それだけだった。


 家庭教師がいなくなり、次のレッスンまでの休憩時間。運ばれてきたお茶を傾けつつ、ふと傍で待機していたメイドに声をかける。

「おい、お前」
「は、はい!」
「俺は……『神童』なのか?」
 
 にこりともせず聞く設楽の姿に、メイドは嬉しそうに頷いた。

「はい、坊ちゃまはまさに『神童』でございますよ。先生方も口を揃えておっしゃられます。本当に素晴らしいピアノだと」

 ふん、と可愛げ無く呟き再び紅茶に向き直る。
 ピアノを弾いている俺は神童かもしれない。じゃあ、弾いていないときは?
 ピアノがなくなった俺は一体――何なんだ?



 数日後、有名なピアノ奏者からの師事が受けられると薦められ、少し遠方まで車を回した。レッスンを終え、玄関で運転手の迎えを待つが

(――遅い)

 今日に限って迎えがまだ来ていなかった。普段はちょっと過剰なくらい早くに待機していたりするのに、珍しいこともあるものだ。
 腕時計を見るも時間はさほど経過しておらず、携帯電話も持っていない。というかあんな難解なもの出来る限り持ちたくない。デコメって何だ。
 仕方なく時間をつぶそうかと周囲を見渡す。そこでふと、桜井兄弟の事を思い出した。

(そう言えば、この辺の住所だったな)

 全く似てないようで、奇妙なところがそっくりな桜井兄弟は、設楽が今まで会ったことのない人種だった。少し乱暴で正義感が強くて、二人で赤が強いとか黒が強いとか言い争っているのによく巻き込まれた。
 そう言えば、学校以外で会いに行ったことがない。

(――驚かせてやる)

 とりあえずその場を離れる。いつも車で移動している俺が徒歩で、しかも一人であいつらの家に行ったとしたら、恐らく今までにない表情をするだろう。
 まるで冒険をしているかのようで、心が躍る。しかしその楽しさも、数分後に消え失せることとなった。






(……ここはどこだ!)

 見たこともない家に公園、ざわつく音に不安が募る。
 桜井兄弟の家を探そうと意気込んだものの、歩けば歩くだけ知らない場所に導かれていってしまう。一旦戻ろうときびすを返すも、何故かまた戻ってきてしまうのだ。

(くそっ、なんだここは! 罠でもあるのか!?)

 人はこれを迷子という。
 そんなこともつゆ知らず、設楽は幾度と無く通り過ぎた家の前を歩き、更にうろうろと道を探す。そして先程通ったのとは反対側、やや狭い道をつき進んでいく。
 頭の上にはざわざわと音を立てる葉が茂り、不安な心を嫌でも増幅させる。こんなに歩いたのは初めてかも知れない。足が痛い。のどが乾いた。なにより――怖い。

 ぱき、と踏みつけた小枝が音を立てる。道を越えたその先、開かれた場所にたどり着き設楽は息を飲んだ。
 美しいステンドグラス造りの建物。屋根のへりが茜色の陽光を弾き、それを絨毯のように敷き広げられた緑の草原が受け止める。

(――教会、か?)

 荘厳な雰囲気のそこは、物悲しいほど人の気配がなかった。というより、ある一時の時間でそのまま止まってしまったかのような、奇妙な感覚。
 ふらふらと導かれるように門を越え、教会の方へ歩み寄る。さく、と足の下で草が鳴いたその時、背後から小さな声が聞こえた。



「だあれ?」
「――!」

 慌てて振り返る。そこにいたのは少し幼い感じの女の子だった。黒目がちな目をまん丸にして、少しだけ首を傾げている。

「お、お前こそ誰だ!」
「私? ええとね……」

 照れながら名前を名乗る姿を見、少しだけ気分が和らいだ。ようやく人と会えたからか、徐々に普段の調子が戻ってくる。

「ね、名前は」
「……聖司。設楽聖司だ」

 最近は神童とか坊ちゃまとかばかり呼ばれるものだから、自分の名前を名乗るのがなんだか気恥ずかしい。そんな設楽の気持ちを知らずして、少女はゆっくりと微笑み設楽の名を呼んだ。

「セイジくん、だね。ねえ、ここで何してるの?」
「……べ、別に道に迷ったとかじゃないからな! たまたまここに行き着いたんだ」
「迷子なの?」
「……う」

 何だか調子が狂う。迷子か迷子じゃないかと言われたら確かにやや迷子寄りだがいや断じて迷子ではない、などと設楽が考える間に、少女は彼の手を取るとこっち、と引っ張る。

「行こ?」
「ど、どこにだ」
「おうち。帰ろう?」

 柔らかい指が設楽の指先を握り、力強く引かれる。思わずつられて足が出て、一歩、二歩と踏み出していた。
 覚えていた住所を言うと「ツクシくんの家の近くだね!」とか言いながら、更に足取りは確かなものになった。時には子どもだけが知っている道無き道を歩いたり、怖い犬がいる家に近づくと「走って!」などと真剣にアドバイスされたりした。
 それは歩き慣れない設楽には結構な距離があり、仕立ての良いシャツも葉っぱがくっついていたり、足は傷だらけだったりと使用人がみたら卒倒しそうな姿になっている。


「大丈夫? もうすぐだから頑張って!」

 普段の設楽なら早々に根を上げていただろう。だが手を繋いだ少女が振り返り、そう励ますたび弱音をぐっと飲み込んだ。
 恐らく自分より年下だろう。その小さな体に溢れんばかりの好奇心を詰め込んだかのような姿に、知らず笑みがこぼれる。



 どのくらい歩いただろうか。気づけば見たことのある風景が現れ、今度は設楽の方が手を引く勢いで周囲を見渡す。
 そしてようやくたどり着いた屋敷の門を開くと、使用人が一斉にこちらを向いた。

「坊ちゃま!」

 わっと騒ぎ立て年かさのメイド長が駆け寄る。それに続けて俺を探し回ったのか、運転手が涙目になりながら俺の前に現れた。よく見れば庭師からシェフまで全員が玄関に集合している。お前ら全員仕事はどうした。

「坊ちゃまが迷子になったと聞きましてもういてもたっても…!」
「遊びに行くんならそう言って下さいよ!」
「もう納豆の創作料理は出しませんから家出なんて早まった真似は…!」
「お前ら一体何の話をしているんだ!」

 どうやら迎えに行った運転手が設楽がいないと報告した結果、やれ家出だ失踪だと話が拡大してしまったようだ。正直服を汚して怒られるか、くらいにしか思っていなかった設楽にとって、使用人達の仕事の度を超えた反応は意外であり、何だかくすぐったい。

「ちょっと戻れなくなっただけだ! ……ああそうだ、お前」

 簡単に事情を説明し、ここまで連れてきてくれた案内人を紹介しようと振り返る。

「世話になったな、今すぐ礼を――おい?」

 だが、門の外にはもう誰の姿も無かった。使用人共々付近を見渡すが、どうやら設楽が無事たどり着いたのを見届けて帰ってしまったらしい。
 ぽかり、と心に穴が開いたかのようで、思わず先程まで掴まれていた手を見る。小さな手。あの小さな手に、どうやったらあんな勇気が宿るのか。

「……」

 その温もりが失われていくようで、思わずもう一方の手で包み込む。
 ほんのわずかな二人だけの冒険は、幼い設楽の心に鮮明な暖かさと柔らかい笑顔を残して終わりを迎えた。



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「どうして名前を忘れたんですか設楽先輩」
「うううるさい! 混乱してたんだから仕方ないだろ」

 彼女を家に送る途中、ふと思い出した話に花が咲く。
 そう言えばあの時迷子になったのもこの辺りだったか。

「もしかしたらご近所の女の子かもしれないじゃないですか!」

 後日、山のようなお菓子と花とぬいぐるみを積み込み、運転手に頼み込んであの辺りに行ってみた。だが、近所に聞いてみたところでその年代の女の子はいない、との答えしか得られなかったのだ。

「お前が引っ越してからの事らしいから、会ったことないだろ」
「う……でも」

 不満げに口をとがらせる彼女を見て、なんだその顔と顎で示す。
 あれから設楽は『神童』ではなくなり、ただの設楽聖司になった。ピアノがなくなった俺はただの男だったようだ。

「大体なんでまた設楽先輩なんだ」
「はい?」

 きょとんとする彼女の手を取り、指を絡める。家に帰るまでの、ほんのわずかな冒険。

「……名前で呼べって言っただろ」

 その言葉にみるみる彼女の顔が赤くなる。その様がおもしろくて思わず吹き出した。

「だって先輩が…!」
「聖司」
「……」
「ほら」

 繋いだ手を軽く揺する。するとようやく観念したのか、小さく「……聖司さん」と声がこぼれた。


 あの幼い日、名前を呼んでくれたことで、神童の俺は神の子ではなくなり、人の子となった。
 そしてまた、お前が名前を呼ぶたびに、俺は先輩ではなくなり、一人の男になるのだ。


(了) 2010.08.06

絶対ぼっちゃまは使用人一同から超可愛がられてると思う

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