もふもふと狼煙のように白い粉塵が上がる。
「あ、設楽先輩」
「……またお前か」
窓の外に広がる中庭で、竹ぼうき一つを持った彼女がこちらを見つめて笑いかけてきた。
「今日は理科室の掃除なんですね」
「だから何だ。俺だって掃除くらいする」
「いえ、この前より近いなあって」
以前教室掃除で声をかけられた時は階上だったか。今日は一階の窓から話しているせいか、彼女との距離が近い。
(――だ、だから何だ)
距離が近いから何だというのか。頭に浮かんだ感情を振り払うように、設楽は手にしていた黒板消しを再びぼすぼすと叩き合わせ始めた。
「わ、また」
「うるさい。あっちいけ」
ひどい、と笑いながら少しだけ離れた彼女の姿に、わずかな加虐心が生まれる。一階の階段から腕を伸ばすようにして、更に白い煙を伝播させていたその時。
「――先輩!」
あいつの声に合わせて、俺の体がぐらりと揺れる。慌てて体勢を立て直そうとするが、一瞬で「ああ、これは無理だ」と頭が結論付けた。
幸いここは一階で下は柔らかい芝と土。紺野がいたら「何やってんだ設楽」と言われただろうが、俺だって何が起きたか分からない。
状況を理解する前に、体は窓枠を乗り越え地面へと落下する。わずかな一瞬、ガッ、と打ちつけられるような衝撃の後、唇にぶつかる何か。そして妙に柔らかい感触が体の下に残る。
「……」
どうやら調子にのって窓から転げ落ちたらしい。正直自分の間抜けさに驚いている。
ようやく体の感覚が戻ってきたのを受け、やれやれと頭を上げる。と、その眼下に見慣れた顔があった。
「お……お前、何やってるんだ!?」
見れば先程黒板消しで追い払った彼女が、設楽の下敷きになる形で倒れ込んでいた。慌てて体を起こす。自身の手が彼女の肩に触れていたのにも気づき、こちらもあわあわと手を踊らせた。
「いえ、設楽先輩が窓から落ちそうになっていたのでつい」
「お前はバカか!? 俺の体重をお前が支えきれるわけないだろ!?」
「……そのようでした」
近くには放り投げられた竹ぼうきが転がっている。どうやら何も考えず受け止めようと走り込んできたらしい。
ふふ、と笑う彼女に呆れ、ほらと手を差し出す。その手を取って立ち上がると、安心したように設楽の指先を握った。
「良かった、先輩の手が無事で」
「……手?」
なんだそれは。開口一番俺の手の心配って、俺本体はどうでもいいのか。
設楽の複雑な胸中をよそに、彼女は更に言葉を続ける。
「だって、ピアノを弾く手ですから」
言葉が出なかった。
俺自身、指のことなんて全く考えていなかった。昔はあんなに大切なものだと認識していたのに。
それなのにたった一度聞いただけのこいつが、俺の指を――ピアノを覚えていた。その小さな体で、必死に守ろうとするほどに。
「――俺のことはいい。怪我はしてないだろうな?」
「はい! これくらい大丈夫ですよ」
「……これくらいって悪かったな、軽くて」
その時チャイムの音が響いた。どうやら終礼の時間になるらしく、彼女は投げ出された竹ぼうきを拾い上げると無邪気に手を振りながら去っていった。
その場で手を振り返し、いなくなったのを確認するとあげていた腕をやれやれと下ろす。
(どうしてあんなに考えなしなんだあいつは…!)
教室へ足を進めながら苛々と先程の出来事を反芻する。大体、大の男を本気で受け止められると考えているなら、大至急訂正させなければなるまい。
確かに地面に直に打ちつけられる事はなかったし、痛みも殆ど感じなかったのは認めよう。だが確か――
(……待て)
確かに体は何ともなかった。だが、顔に不思議な衝撃がなかったか?
あれは、何が、起きた?
慌てて手の甲を唇に当てる。顔が急速に熱さを帯び、未だじん、と痺れる唇の感覚に混乱しながら、思わず拭う。
「設楽?」
「うわあ!?」
びくりと飛び上がりながら振り返ると、不思議な顔をした紺野の姿があった。
「そろそろ終礼だけど……どうした?」
「な、何がだ!」
「いや、何か事故にでも遭ったような疲れ方だから」
「じ、事故じゃな、……いや事故だ!」
あいつが悪い、と何やら小さくこぼしながら教室へ向かう設楽を追いかけながら、紺野は更に疑問符を浮かべていた。
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「寒い」
「冬なんだから当たり前ですよ!」
厚手のジャケットにマフラーをなびかせ、ぶちぶちと不満を漏らす設楽を引っ張りながら砂浜を歩く。
「大体なんで海なんだ」
「空気が澄んでて気持ち良いですし、歩いてると意外と暖かいですよ」
「俺は寒い」
むうと頬を膨らませた彼女に苦笑し、そっと近寄るとその小さい体を背後から抱き寄せる。
「そんなに暖かいなら少しよこせ」
ひゃ、と悲鳴を上げるままに引き寄せちゅ、とこめかみの辺りに唇を触れさせる。
「な、何するんですか」
「ああ、ちょっとぶつかっただけだ。事故だな」
ふふん、と不敵な笑いを浮かべながら更にぎゅうと彼女の体をコートごと抱きしめる。そして事あるごとに抱き込むように口づけを落とした。
「や、せ、先輩ぶつかりすぎです!」
「お前が近すぎるからだろ」
「そんな屁理屈な」
「うるさい。事故だ」
あああ絶対遊ばれてる。
いい加減に止めなければ、と体に回された腕を掴み必死に体をよじる。
「こ、こんなの事故じゃありません! ただの故意です!」
「――だからだろ」
あれほど強く回されていた腕の力が一瞬緩み、彼女が驚く間もなくくるりと設楽の方を向かされる。そしてそのまま上から押しつけるように、互いの唇を合わせた。
「これは事故じゃない――恋だ」
その言葉に彼女の顔は赤く染まり、設楽も遅れて目をそらした。
腕の中にいる彼女は暖かく、触れ合う布越しに熱が伝わる。意外と冬の海も良いものかもしれないな、とようやく冷静になり、必死に逃げようとし始めた彼女を再び強く抱き寄せた。
(了) 2010.07.31
今まで書いた中ではじめて「にんげんって甘さでしねる」と思いました