校舎の片隅にあつらえられた立派な柔道部の練習場。顧問も大迫先生が引き受けてくれたし、新入部員も不二山とマネージャーの自分とであらゆる作戦を展開、勧誘した結果、新名くんを筆頭に徐々に増えつつある。
(このまま個人戦から大会に出て、個別のメニューを作りつつ実績を上げて……)
頭の中に部員一人一人の顔を浮かばせながら練習場に入る。まだ誰も来ておらず、脇にあった箒を取りよし、と気合いを入れると床を清め始めた。
掃除が終われば今度は個人メニューの確認。今の練習内容と大会までのスケジュール、練習試合の結果を加味し調整していく。
練習場内に人影はなく、一人静かな中で黙々と作業をする。マネージャーになって最初の頃は色々と混乱していたが、今となっては慣れたものだ。
(あ、テーピング……まだあったかな)
全員分のチェックを終え、ふと思い出す。昨日見たとき不二山のテーピングがずいぶんと古く見えたのが気になったのだ。
見渡してすぐ、棚の上にあるテーピングの箱を発見。手を伸ばしてみるが――届かない。
(……く…!)
びょんと高く飛んでみるが、逆に箱を押し込んでしまい慌てる。更に二三、カエルよろしく飛び跳ねてみるが、もはやかすりもしない。
仕方なく遠くにあった脚立を引っぱって来て、その上にのぼって腕を限界までのばす。ふるふると震える筋肉に叱咤しながら指を伸ばすと、ようやく箱の角がこちらを向いた。
(……やっ…た?)
刹那、指に弾かれた箱がこちらに向かって飛び、それから逃れようと思わず上体を反らす。案の定脚立はバランスを崩し、それを支えとしていた自身も足場を失う。
(――!)
必死に空を舞うテーピングを掴もうとし、同時に床に叩きつけられる衝撃に備える。目を強く瞑り、暗転。
しかしその時に起こったけたたましい金属音と、全身をがっと掴まれるような強い感触。そして落ちた唇への違和感に恐る恐る薄目を開ける。
「……ぎりぎり間に合ったな」
「……嵐、…くん…ってなんでここに!?」
見上げて一番、反転した不二山の顔が目に入った。彼の背後から落ちる練習場の照明が逆光となって彼女の顔に影を落とし、その暗さの中あの強い眼差しがこちらを見つめてくる。
「少し前。来たらお前が棚に向かってぴょんぴょん飛んでて、面白いから見てた」
「な……!」
何ということだろう。
あのむなしくも切ない努力が誰かに見られていたとは。
逃げ出したい、と考えていた途中更にあることに気付く。
「あの……嵐くん……今一体どういう…」
ん? と声を返す不二山の胸板が背中に当たっているのがわかる。その力強い腕は彼女を抱えるように回され、要はすっぽりとその全身が抱き込まれた体勢になっていたのだ。
「見てたらお前、落ちそうになってたから。間に合って良かった」
そういえば、それなりの高さから落ちたはずが、全く痛みがなかった。代わりに起きたのは、走って突っ込んできた不二山に吹っ飛ばされた脚立の音と、抱き込まれた力強い全身の感触、そして――
(……まさか、)
あの唇への違和感。勢い良く飛び込んできたから腕か、肩か、いや多分柔道着がぶつかったに違いない。
事実、不二山の方には何の動揺も見られない。
「でもよ、何でこんな危ないことしたんだ?」
「え、あ、……嵐くんのが古くなってるから新しいテーピングを、と」
本来の目的を思い出し慌てて箱を探す。奇跡的に空中で掴んだのか、上手い具合にその手中に収まっており、思わず満面の笑みで自分を抱きしめているままの不二山にはいっと掲げて見せた。
「はい、嵐くん」
「……もしかして、それ取りたかっただけなんか?」
「うん!」
途端不二山の表情がとまり、一拍おいて吹き出す笑いが聞こえた。
何がおかしかったんだろうかとあわあわする彼女をよそに、不二山もようやく体を起こし彼女の膝下と背中に腕を入れ、ひょいと抱き寄せる。
「あ、嵐くん」
「一応保健室。変なとこ打ってねーか診てもらう」
「い、いいよ一人で歩いて行けるから」
この体勢で校舎内を歩けばどんな視線に晒されるか一目瞭然だ。だがそんな彼女の様子も意に介さず、すたすたと不二山は足を進める。
「気にすんな。謝んなきゃいけねーこともあるし」
「あ、謝る?」
「いやさっきぶつかっただろ、俺。お前の口に」
まさか。
「やっぱ柔らけえ。俺のとは全然違うんな」
「――降ろして、降ろしてください!」
恥ずかしさに顔を真っ赤にした彼女を抱えたまま、不二山は「気にすんな。これくらい」とかなんとか検討違いなことを言いながら保健室までの道をゆっくりと進んでいった。
当然、生お姫様抱っこという超貴重な光景にまさに針のむしろであったという。
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強豪校との対戦を控えたある日、今日の練習を終え誰もいなくなった練習場で、不二山のボロボロになったテーピングを剥がし、丁寧にまき直していく。
「いよいよだね」
「ああ」
人差し指を終え、中指へ。白い彼女の指が触れる様を楽しむかのように、不二山は借りてきた猫のごとくじっと指先を見つめていた。
左手を終え、右手にもくるくると処置をする。手際よく巻き終えると、最後の仕上げなのかぎゅっとその手を握る。
「はい、完成!」
「ん、悪いな」
「試合、勝てるように一つ一つ念を込めたからね」
ふふ、と笑う姿につられ不二山も口角を上げる。そして今まさに巻き直された指で、離れていく彼女の指先を掴む。
「もう一つ、くれ」
わずかに後ろに引いた彼女を追うように、顔を近づける。そのまま下からすくい上げるように触れるだけのキスをした。
「――!」
「……やっぱ柔らけえや」
「ま、また…!」
以前の事故と同じ台詞を聞き、言葉を失う。しかも今度は事故ではなく故意だ。
「ああ、あん時のお返し」
浮かべるのはあの悪い笑顔。「次にやったら口にテーピングしますから!」と怒ったり照れたり忙しく片づけに行ってしまった彼女を見送る。一人になった練習室、その静寂の中軽く手を曲げると、自身の巻かれたテーピングにそっと口付けた。
(了) 2010.07.28
何故か私の中で「不二 山嵐」と切って呼んでしまう 技名か