「そんな…」
か細い声を漏らしながら、アレンは右手がティムキャンピーの映す楽譜をそっと撫でる。
「この紋章…ちがう、まさか…ちがう…っこの文字がどうしてここに…っ」
『……アレン、これが読めるの…?』
私にはただの模様にしか見えないそれをアレンは文字だと言った。
アレンの動きがまた止まる。
楽譜に触れていた右手がピアノの鍵盤へと降り、ひとつ、鍵盤を沈める。
とたんに流れ出した聞き覚えのある優しい旋律に目を閉じて、アレンの背後にまわり立ったままピアノに向き合う彼に背を向けて椅子に腰をかけた。
唄って、とまた、声がした。
__そして坊やは眠りについた
「…アンジュ…?ちがう!僕の頭の中で歌うのは誰だっ!!?」
よくあの人に「唄って」と言われて、あの人の弾くピアノに合わせて唄っていた歌詞。
___息衝く灰の中の炎
ひとつふたつと
浮かぶふくらみ
愛しい横顔
___大地に垂るる
幾千の夢
銀の瞳の揺らぐ夜に
生まれおちた
輝くおまえ
___幾億の年月が
いくつ祈りを土へ還しても
「"ワタシは祈り続ける…"」
私の歌声に、アレンの声が重なった。
ざざ、とノイズを混ぜながらアレンの通信機からクロスの大声が響く。
同時に奏でられていたピアノの音色が途切れる。
「方舟を操れ!!お前たちの望みを込めて!!」
「のっ望み!?」
クロスの言葉を復唱して飲み込む。
「望みはっ、転…送を、方舟を…っ」
ああ、コムイの声が頭の中に浮かんだ。
アジア支部から、方舟の中を通って江戸へと来る時の話していた内容が。
『…思いつかない?』
椅子に座ったまま体をひねってアレンの背中へと両手を添えて額を押し当てる。
そしてコムイの言葉を反復するように唱える。
『まずは”おかえり”って肩をたたいてもらうの』
__まずは”おかえり”といって肩をたたくんだ
『それで、コムイさんはリナリーを思いっきり抱きしめるの…』
__で、リナリーを思いっきり抱きしめる!
アレンの指が再び鍵盤へと添えられる。
『…それでアレンと一緒にたくさん、ジェリーさんの美味しいご飯を食べるの、』
__アレンくんにはご飯をたくさん食べさせてあげなきゃね
再び始まった音色に、熱い息を吐く。
服越しに伝わるアレンの体温に、コムイと語った暖かい未来に微笑む。
『ラビは、きっとその辺で寝ちゃうから、毛布をかけて…あげなきゃいけないの……っ』
目の前で崩れた方舟と一緒に落ちていってしまった、ラビ。
もう、この未来は叶わない。
震えた声、目の奥が熱い、思わず溢れた嗚咽。
アレンの背中に添えただけだった両手がアレンの服を握りしめる。
__大人組はワインで乾杯したいね、
どんちゃん騒いで、眠ってしまえたら最高だね…
『……それで、神田が、いつもの仏頂面でっ、……入って来る』
最初の部屋でノアと共に残った神田。
けれど、神田が私たちの後を追いかけて来る前に、崩れた私たちの通った廊下。
それが意味をするのは。
江戸に来る前に、笑顔で語った暖かで優しく眩しい未来はもう迎えることはできない。
その事実に、ぽろぽろと溢れて止まらない涙が床に落ちて弾ける。
方舟に望んだら、帰って来るのだろうか、崩壊を止めてなおかつ消えた方舟と仲間たちが帰って来るのだろうか。
「消えるな、方舟ええええ!!!」
アレンが気持ちを押し付けるように鳴らしたピアノが大きな音を立てて、ただ一つの願いを叫んだ。
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