「 」
今はもう、その空白の台詞でさえ遠い。
町はすっかりと秋めいていた。
春にはあんなに綺麗なピンクの衣装をまとっていた桜も、今やただの裸の王様だ。空には赤トンボ、地面には迷子の葉っぱ。街中を歩く人の服装もすっかりと重たい。
どこもかしこも冬に向けての準備が整っていた。
ポケットから携帯電話を取り出す。もうずっとあの人専用のメロディを流さない携帯電話を。
立ちつくして携帯を見つける私を怪訝そうに顔を顰めながら通り過ぎる人たちは私にとってただの背景でしかなかった。一つ、溜め息。
「どうしてかなぁ」
その言葉をもう何度呟いたか分からない。
その時、手元のそれが一つ震えた。バイブレータを介して携帯が私に伝えたのは、やっぱり彼からのメールではなかった。
カチカチカチ。いつ登録したのか思い出せないメールマガジンを削除した。
歩くと風が私を追いかけてくる。
彼の好みにあわせて伸ばした髪が持っていかれるのを、そっと手を添えて防ぐ。「これはだめ。あげられないよ」心の中で小さく呟いた。
川原に着いた。
夏はあんなにも涼しそうに見えた川は、今はもうただ見ているだけで寒かった。少し前までは泳いでいた鴨の姿も、そこにはもうない。
肩に下げたショルダーバッグの中を無造作に漁り、今まで宝物だった人形を出した。
手のひらで窮屈そうに座る茶色いくまの人形。私の我がままに答えてくれた彼の最初で最後の手作り人形。無理を言うなあ、と笑いながら不器用な手で一生懸命に作ってくれたこの人形は私の一番の同居人。
その同居人とも今日でお別れなのだ。
「一緒にいてくれてありがとう」
彼には言えなかった言葉を、手のひらの小さな同居人に伝えた。
君がいたから私は寂しくなかったよ。でも、でもね。今は君がいると私は苦しいんだ。ごめんね。
手のひらの同居人はまるで、気にしていないよとでもいう風に私の手に収まっていた。
一度目を閉じて、そして開けた。腕を大きく川に向けて振る。別れの言葉は、あまりにも胸が痛くて言えなかった。
同居人を捨てた帰り道。
達成感と虚無感とがぐちゃぐちゃに混ざり合って、私を苦しめる。なのに口をついて出る言葉は「どうしてかなぁ」のたった六文字。
苦しいはずなのに、確かに苦しいのに。そのことが何だかおかしくて笑った。でも、笑ったはずなのにどうしてか笑った気がしない。「どうしてかなぁ」再び漏れ出すたった六文字。
川原から町を通らずに帰ってきたからだろうか。何だか物足りない気持ちを抱えていると、目の前に帰るはずのマンションが見えた。あそこに帰るのは、もう私だけ。マンションの前で、寂しそうに葉を落とす木々を見ていたら、彼を思い出した。
木々が私で、葉っぱが彼で。
胸が痛い。きしきしと悲鳴をあげるかのように骨が軋む音が聞こえているようなそんな感覚に陥る。
苦しい。呼吸が何かに阻まれて、酸素が肺にまで届かない。ひゅーひゅーとそんな音がどこからか聞こえる。
ああ、まただ。鞄をまさぐってあの白い錠剤を探すけれど、見つからない。いつまでたってもあの小瓶の感触が手に、触れない。もしかしたら、同居人が一緒に持って行ってしまったのかもしれない。それとも、彼が。
滲む視界で、一本の木がたった一枚の葉っぱを一生懸命に繋ぎとめていた。
「 」
彼の空白の台詞が今は、ただ――