男は柚木と名乗った。
 柚木さんの絵を見たい。わたしがそう発言すれば、柚木さんは少し考えた後に、「じゃあ僕の家に来るかい?」と言ってくれた。わたしは勿論頷いた。
 柚木さんの家は二階建ての一軒家で、柚木さん曰く此処は知人から借りた家らしい。一人で住むには少し大きいけれどね。笑いながらそう言っていた。
 アトリエは階段を上ってすぐの部屋。扉を開ければ、そこは色とりどりの柚木さんの世界が呼吸をしていた。絵のことはよく分からないけれど、わたしは柚木さんの世界に圧倒されていた。携帯を打つ手も、いつもより震えている気がした。

「す、すごい! 柚木さんの世界がいっぱいあります!」
「ありがとう。そんな大したものじゃないけどね」

 そう言って柚木さんは苦笑するけれど、きっとこれらの世界は絵に詳しい人たちをも感動させたに違いない。その証拠に、奥に置かれた棚の上にいくつかの賞状やトロフィーが置いてある。どれもが、柚木さんの世界を褒め称えているものだった。
 柚木さんが見ている世界はどれも優しい色に満ちていた。

「ねえ、ゆかちゃん」

 ふいに柚木さんがわたしを呼んだ。そして、「何ですか?」と首を傾げるわたしに、「絵のモデルをやってくれないかな」そう言った。


 そうしてわたしは、学校帰りに柚木さんの所に通うようになった。
 何でも、今度のコンクールに出す絵の題材が決まらず困っていたらしい。そんな大事な絵のモデルがわたしで良いのか。そう言ったわたしに柚木さんは勿論だと笑った。

 モデルと言えど、何かポーズをとるわけではなかった。柚木さんは自然体を描きたいから、君はそのまま座っていてくれと言っていた。わたしは本当に座ってボンヤリとしているだけ。そして、柚木さんは途中経過の絵を決してわたしに見せてくれなかった。

 わたしがモデルとして柚木さんのところに通うようになって半月ばかり過ぎた。その間わたしと柚木さんはたくさんお話をして、その距離は大分近くなったと思う。
 携帯電話を通して声を発するわたしに、柚木さんは何も言わずに、それが当たり前のように接してくれたことがとても嬉しかった。
 だから、かもしれない。いつの間にかわたしは柚木さんとの時間が当たり前になっていた。そうして、わたしは時間を恐れるようになった。

 モデルを始めて一ヶ月ばかり過ぎた。絵を描く前に柚木さんは、「今日は仕上げだよ」そう言っていた。ドクリ、心臓が疼く。ゆらゆら、視界が揺らめく。
 言わないで。その言葉を言わないで。この時ばかりは声が出ない自分が恨めしかった。

「お疲れさま、ゆかちゃん。そして今までありがとう」
「…………」
「モデルは終わり。だから、もう此処には来なくていいよ」
「…………」

 柚木さんはやっぱり優しい笑顔だった。



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