モブ視点





エド・フェニックスという人間は弱みを見せない。泣き言を並べず、膝を折ることもしない。衆目の面前でも、ただの雇われの身である俺の前であっても、その鋭さに一点の陰りもない。そんなエドにプロである以前の人間としての尊敬の念を抱いている。だが、あの完璧人間に腰を下ろす時間があるのかと、ふと気になった某日の午後下がりのこと。俺は通常通りの業務を淡々とこなしていた。重要な事項が堅苦しい文体で羅列している紙束を胸に抱き、斜陽で赤く染め上げられた廊下を進む。これを渡すべき人、エド・フェニックスその人を探して。

「どこに居るんだ? 俺も暇じゃないってのに」

沸き立つ苛立ちが溢れるが無理もないと言えよう。なにせこっちは行方知れずのエドのために、三十分以上も彷徨っているのだから。秘書のエメラルダさんも知らないと首を横に振るので、やむなしと新入りの俺が探すはめになった。新入りなのに。重たい溜息が空気に溶ける。腕に巻いた時計を見てもう一回。エメラルダさんにエドが居そうな場所をいくつかリストアップしてもらったんだが、結果は推して知るべし。そろそろ白旗掲げても彼女に文句は言われまい。持ち場に戻ってやろうかという気持ちがふつふつ沸いてくる。棒になった足を引きずる形でひとつの部屋を通り過ぎた時だった。

「歌……?」

意識を別に向ければ鼓膜から離れていくほどに微かだが、確かにどこからか歌声が聞こえてくる。つつやかで、混ざりっけのない清廉な歌声だった。初夏の芝生を撫でていくそよ風のような。首を忙しなく回すが、その出処は掴めない。どこから流れているのか、それが知りたいという好奇心に駆られて脚が勝手に動いてしまう。勤務中に余所事にかまけてしまうのはこれが初めてだった。確証もなく、けれども脚はその声に手招きされるがまま廊下を突き進む。そうしてひとつの部屋に辿り着いた。褪せた扉はひとけのない場所にひっそりと佇み、陽の光さえ授からない。無機質で、退廃的な雰囲気が漂うただ中、件の歌声は止むことなく響き渡る。薄暗いこの空気にそれは恐ろしいまでに澄み渡るのだ。背筋がひんやりと冷たくなる。額から一筋の汗が垂れ、腕がかくつきながらもやっとこさそれを拭った。何故自分はただの歌声にこうまで揺さぶられ、臆しているのか。ただの歌声だぞ。早急に事実を確かめ持ち場に戻らなくてはいけないんだ。こんなところで油を売ってる場合じゃない。固唾を飲み込んでノブに手をかけた。きい、と痛ましい金属音が鳴りながら扉を僅かばかりに開ける。盛れだした部屋の明かりに目が眩み、一瞬視界が黒に染まった。痛みが和らぎ恐る恐る瞼を開ければ。

「女、か……?」

見覚えのない女がそこに居た。光に包まれ、ソファに優雅に腰を下ろして歌っていた。そしてその膝の上には横たわって瞼を伏せている我が雇い主、エドの姿がある。俺は眼前の光景に自分の目を疑った。高潔で孤高であると憧憬の念を一身に浴びているあのエドが、女の膝の上で寝ているのだ。その寝顔はどこまでも安らかであった。そんなエドを女は歌を口ずさみながら髪を撫でている。斜陽に照らされているせいだと理解しているが、それでもどんな画家が心血注いでも眼前の光景は作り出せないだろうと思えてならない。自分という存在を異物と捉えてしまうほど美しい。刹那、眼球に埃が入り込む。鋭い痛みを感じて目を擦った。ひとしきり掻き、目の違和感が無くなったところで視線を上げてみると俺は息を飲んだ。女の姿が無くなっていたのだ。夕暮れの赤に満たされた部屋に寝そべるエドの姿のみ存在し、清澄な歌声を響かせていた女は音もなく消えていた。

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