名前が死んだと知ったのは、あいつがこの世を去ってから二年経った頃だった。
「よ!」
青い芝生を撫でる肌寒い風を受けながら佇むそいつに声を投げた。背中を向けていた相手は、肩越しに一瞥する。俺であることを知って目を見開く。驚きを全面に出す反応に笑いを転がしたが、そいつが消えかかろうとして慌てて止めた。
「お前に会いに来たってのに挨拶も無しかよ」
「は……? え、私?」
「他に誰が居るんだ?」
ここには見える限りじゃ俺と彼女のふたりだけ。自然に言ったんだが、彼女は目に見えて狼狽し生前とは結び付けられないほどの震えた声で「見えてるの?」と聞いてくる。俺と対峙する眼差しは不安と恐怖に揺れていた。なんでそんな目するんだろうな。
「見えてるよ」
はっきりと断言すれば「嘘だ……」とやっぱり信じてくれない。嘘じゃないさ、はっきり見えてる。風になびかない髪も、水に溶けた水彩絵の具のような肢体も、俺に怯えて逃げてる瞳も。幽霊が生きてる人間を怖がってるなんておかしな話だよな。俺はお前になんもしないのに。なんもできないのにさ。俺と彼女しか居ない森の最奥、崖になってる地面に寝転がる。隣に立つ彼女は言葉にも行動にも迷っているふうだった。
「寝っ転がってみろよ。結構気持ちいいぜ」
「いい」
「そう言うなって。なっ?」
執拗に食い下がったのが功を奏した。渋面が和らぐことはなかったが、彼女は隣に腰を下ろした。寝ないのは抵抗の表れというヤツだろうか。俺たちの間に会話はなく、ただ空を眺めていた。雲が渋滞を起こしぶつかり合っている。目を突き抜ける青さは分厚い雲に隠され、薄暗い影が広がる。なんとなしに彼女へ視線を流すと、雲が落とした影に今にも隠されてしまいそうに見えた。ふと視線が重なってしまうが、彼女は渋面のまま何も言わない。俺が空を映した時、隣から言葉が零された。
「なんで来たの」
責めるようでいて、やはりまだ俺を怖がっていた。何もしないのに。
「死んだ理由なんて聞かないさ」
息を呑むのが伝わってくる。いっそうの混乱も。ああそうか。俺はその時確信した。温かい感情が身体の底から込み上げてきて、つい溢れてしまった。そんな俺を責めるように睨めつける。
「なんで笑ってるの。なにがおかしいの」
「すまんすまん。変わってないんだと思ったらな」
「は?」
「雰囲気が変わってもやっぱり名前は名前のままなんだな。嬉しいよ」
「ヨハンの頭おかしいとこも変わってないね」
棘がふんだんに含まれた言葉だったけど、俺にとっちゃ生前のあいつのままであることが堪らなく嬉しかった。幽霊だと知っていても抱き締めたくなるくらいに。
「お前のこと忘れたことなんてなかった」
「忘れてほしかった」
「今度は手を取ってくれないか」
「幽霊に何言ってんの」
「幽霊でも好きだよ」
「私は好きじゃない」
一刀両断して突っぱねた。またダメかと頬を掻くが、片方の手の冷えを感じて視線を落とすと、顔いっぱいに暖かな充足感が柔らかく広がっていく。幽霊だろうと人間だろうと、お前がお前であるならなんだっていいのさ。