彼のことが好きだった。大好きだった。いつからなんて思い出せなくなるほど盲目的に。好きな人の顔が過ぎると、決まって彼の新郎姿に掻き消されてしまう。純白の姿の隣には朗らかな笑顔が可愛らしい新婦。つい先日、私の好きな人は永遠に手が届かない場所へ行ってしまった。彼の晴れ舞台に参加したのは、この気持ちに踏ん切りを付けるにはちょうどいい機会だったかもしれないからだ。新婦の姿を見て不思議と嫉妬や怒りは湧いてこなかった。自分自身、彼へ気持ちを告白することに尻込みしていたのだから当然と言えば当然の結果だと受け入れられたからだ。あんな素敵な人に恋人ができない方が可笑しい。それくらい眩しく輝いていたひとなのだ。じわり、目の縁に涙が浮かぶ。
「よう。何してんだ?」
そんな折、男性の声が投げられた。陽気な声音にはっと我に返ってごしごしと袖で目元を擦る。存外強い力が込められたせいで少し痛むが、涙が乾いたことを自覚すると振り返った。彼は陽射しに眇めているのか、目を細めている。白い歯を惜しみなく晒して浮かべた笑顔に、何故遊城十代がここに居るのか解らなくて目を瞬かせる。きっと見るに堪えない酷い顔だと思う。だけど彼は「おっ、いい顔だ」なんて言った。名前は知っている。むしろ彼が在学していた時に知らない人なんて居なかったくらいだ。でも私と彼に接点はない。一方的な顔見知り程度だというのに、彼は私に笑って話しかけている。まるで友人のように。
「いい天気だな」
「え? うん、そうだね」
「なあ」
「なに?」
「こういう時はさ。釣りでもしたくなるよな」
「なにそれ」
唐突なことにぷっと噴き出してしまう。
「そんな気分になるの十代くんだけだよ、きっと」
「そうかあ?」
「私の周りじゃ釣り好きは居ないからね」
くすくすと笑えば、彼も「そうかもしれねえな」なんて言って隣に腰を下ろした。芝生に転がり、空を仰ぐ。私も空に目を向ける。たくさんの白と水をふんだんに使ったような青が、綺麗なグラデーションを描いて空を染め上げていた。彩度の薄い青を白の厚い雲が自由気ままに漂っている。涼し気な風が芝生の一面を撫ぜ、髪を拐う。沈黙に伏す私たちを熱のない陽射しが包み込む。穏やかな静けさに気が落ち着きながらも、やはり拭えない痛みがちくちくと主張してくる。ぼうっとすればするほどその痛みはまるで鼓動のように大きくなっていくのだ。私はそれに、とうとう我慢の限界を迎えてしまった。
「気持ちを捨ててたんだ、今」
呟くように吐き出す。隣に座る彼は何も言わなかった。静かに聞いてくれるからこそ無様を晒してしまえる。今、自分はそんな心情だ。もういいよね。我慢できたよね、私。これ以上は我慢できそうにない。視界を埋め尽くす青に歪みが生じ、目の縁が炙られるような熱を持つ。堰を切ったように大粒の涙が流れ出した。漏れそうになる声を押し殺すため唇を噛んで、両膝を丸めて顔を埋める。
「好きだったの、彼のこと。とってもとっても好きだった」
大袈裟かもしれないが愛してたんだ。彼が重篤になって誰かの命が必要な状況になったら、にべもなく自分の命を差し出すくらいに。映画の見過ぎだと笑われるかもしれないけど、彼のためなら命を落とせるくらい好きだった。好きになったのも自分、言わないと決めたのも自分、彼の恋を応援すると言ったのも自分。ぜんぶ自分が決めたこと。だから彼が純白の祝福に迎えられる時、私は腹を括って微笑めると思っていた。だって愛していたから。愛する人の悲しむ顔なんて辛いだけだし、その人が笑うなら隣に居るのが私じゃなくても喜べるだろうと思っていたの。実際どんな些細なことでも彼が笑えば私も笑えた。どんなに辛くても、憔悴しきっていても、彼の歓喜の声ひとつで嘘のように吹っ飛んだから。少しは悲しくなるかもしれないけど笑って祝福できると思っていたのに。現実はそんなに甘くなかった。私の心臓は私が抱く理想の私とは似ても似つかないほどに悲鳴をあげ、心臓の持ち主でさえ投げ出したくなるほどの痛みを植え付ける。寝ても起きても考えてしまうのは式場での彼。笑った顔に心が掬われたかと思えば、次の瞬間、傍らに寄り添う女性が過ぎって、心臓に通い出した熱を引き抜かれる。ふたりが見つめ合って微笑む様は私を深い絶望へと突き落とすのだ。彼を見守ると決めたのは自分なのに。彼のことは好きだ、大好きだ。なのにその彼の門出を祝えない自分に嫌気が差す。
「最低だ、私。友人で居られる資格もない」
膝頭に埋めた顔を更に強く押し付ける。心臓が痛い。張り裂けそうだ。泣き声を抑え込んでいたせいで喉まで悲鳴をあげる。何故私は他の皆のように純粋に祝福できないんだろうか。こんな最低な自分を、彼が知ったらどう思うんだろう。背筋に冷たいものが走る。きっと軽蔑するんだ。ずっとそういう目で見ていたのか、と。ううん違う。人を軽蔑するような彼じゃない。長年友人として接してきた私からの告白は、彼を困惑に突き落とすだけだろう。でも彼なら笑って言うんだ。「気持ちは嬉しい」って。人の気持ちを否定できない優しい彼。その優しさに一抹の苛立ちを覚えてしまうのは、私が我儘すぎるからだろうか。
「消えちゃいたい……」
こんなにも溢れる気持ちをどうやったら捨てられると思っていたんだ、私は。涙したってこの思いは少しも減らない。息苦しいだけだ。踏ん切りをつけて前が見えない今、私はどうしようか。それから私たちの間に会話はなかった。さめざめと泣く私の傍らに動かない温かさ。飽きて帰ることもできるのに、十代くんはそれをしなかった。来た手前帰るタイミングを失ってしまったのだろうか。もしそうなら悪いことしたな。私なんかの鬱憤に付き合わせてしまって。初対面である彼に申し訳なく感じた。ひとしきり泣くと涙は勢いを無くしたので、目元を拭い顔を上げる。
「ごめん」
「なにがだよ」
「泣いちゃったこととかこんな話聞かせちゃったこととか」
どう考えても初対面の人にするような話じゃないし、おまけに反応に困る痴態を晒してしまった。
「なあ」
「ん?」
「気持ち、捨てたんだよな」
「そうなるね。抱えて生きていけるほどの余裕はないから……」
「そうか」
言って、十代くんは黙り込んでしまった。何が言いたいんだろうか、彼は。気に障ったことでもあったろうかと心配して様子を窺えば、突然彼は起き上がった。驚いて視線が釣られる。目を丸くして見上げる私に、彼は笑って見せた。
「なら俺が拾ってもいいよな!」
そんなことを言うものだから私は言葉が出なかった。意図を理解するのに黙っていたら、彼がどさっと腰を落とし身を乗り出す。急に距離を詰められて、反射的に背筋が反る。私は彼の視線を直視できなかった。逃げようとしたら頬を両手で固定されてしまい、正面からぶつけられる。
「ずっとずっと好きだったよ、お前のこと」
眩しくて、熱い十代くんの視線。混乱を極める思考がついにショートした。そういえば。ぼんやりと脳裏に鮮やかさが点る。私が好きだった人は、私のこと少しはその片隅に残しておいてくれるだろうか。