授業を終えそそくさと昇降口を出た私は、飴を食べながら校門を抜けようとしていた。けれども足は耳に届いた微かな悲鳴に先導された。行こうとした理由に大層な理屈などない、言ってしまえばただの気分だったのかもしれない。いつもなら興味無いと遮断する私が目の当たりにしたのは、ひとりの男の子だった。紅葉のような特徴的な髪型をしてる男の子。他人には何処吹く風を変えない私であっても名前くらいは知っていた。彼は確か武藤遊戯。その彼が何故ボロボロになって地面に座り込んでいるかなど、彼に聞くまでもなく察する。城之内たちのイジメか。ここで帰ることもできたけど、私は、這って散乱している教科書を手に取る彼に近づいた。
「手伝うよ」
「えっ」
「これ。君のでしょ」
「う、うん」
どこからともなく現れた他人に拾われたことに彼は驚いているようだが、私の行動が自分でも驚くくらいらしくないことは自覚していた。派手にやられたものだ。土まみれならまだしも、教科書の中までこんなに折れてたんじゃ使い物になるかも怪しい。破れてそうだしおそらくゴミ箱行きかな。ひととおり掻き集めた彼の私物を持ち主に返せば、彼は痛々しい顔でへにゃりと力なく笑った。
「ありがとう。助かったよ」
「あ」
「うん?」
「鼻のところ、切れてる」
そう言って手鏡を渡せば彼は「ほんとだ」と言うと同時に校舎の本鈴が鼓膜を震わせた。最終下校時刻を知らせる鐘だ。今から保健室に行っても先生は居ないだろう。時間にも校則にもゆったりしてるのに帰る時間だけは厳守するんだから、あの先生。ポケットの中に手を突っ込んで何か応急処置に値する物はないか探ってみる。かしゃ、と紙の一端に指が触れる。
「あったあった」
それは絆創膏だった。柄付きじゃない至ってシンプルな絆創膏。一枚しかないから他の傷口は施しようがないけど、鼻くらいには使えるだろう。あげると差し出せば彼は驚いたように笑って、そして子供みたいに喜色満面に受け取ってくれた。教科書を拾って絆創膏をあげただけなのにそんなに嬉しいものかとも思ったが、そこはそれ、人の感性というもの。気にするだけ野暮だと姉から聞いた。
「ねえ」
「なに?」
「泣かないの? こんなことされて」
あまりにも平然としてるからちょっとだけ聞きたくなったのだ。暴力を振るわれて笑える人なんて見たことないし、目の前の彼はむしろ泣くだろうとばかり思っていたからそれが不思議に感じたのかもしれない。でも彼は首を横に振る。
「泣かないよ。慣れてるから」
目を見張った。平気だと思っていた彼は全然平気なんかじゃなかったと気づいたから。影を差す瞳を見て、なんで私は平然としてるなんて思えたんだろう。そっか、そりゃそうだ。イジメられて平気なわけないか。どうにかなるでもない現実に諦めてしまった少年を見て、今まで傍観に徹していた自分が少しだけ惨めに思えた。
「君は、強いね」
「えっ? ううん、そんなことないと思うけど」
「これあげる」
「飴?」
「私が愛用してるメーカーの飴。美味しいよ」
「貰っちゃっていいの?」
「いいよ。お詫び」
「お詫び?」
「武藤遊戯、だっけ。君」
地面に座っていたせいで着いてしまった砂を払う。見上げた空は、滴るほどの水を含んだ青で掃いた、雲の影もない快晴。こうも愚直な青に見ていられれば、自分の心に偽りも億劫も、冷たさだって消えていく。
「またね」
きょとんとする彼にそう言って、堪らず地面を蹴った。最初から最後までらしくない自分だった。けれど一歩踏み出して得られたものが彼なら、その一歩は後悔しないものと言えるかもしれない。