ネオンのライトが彩る大人の繁華街。見かける人は当然だが二十歳を超えた風貌の大人ばかり。風俗や飲み屋で繁盛する並びの一角の外れに構えるのは対岸を結ぶ石橋で、その土手に腰を下ろして私は月見酒を嗜む。
「いっそ死んでやろうかコノヤロー!」
なんてわけもなく、私は皓々と輝く満月に鬱憤を叫ぶのであった。腹が立つ、とっても腹が立つ。でも怒号を浴びせても月は顔色を変えないし先行きを明るく照らしてはくれないのだ。だからこそ余計気が立ってしまう。手にしている酒瓶をそのままラッパ飲みする。アル中になってぶっ倒れようがお構いなく。
「あーあ。どうしようか、これから」
二日連続で酒を浴びたせいで、声はガラガラ、思考回路はまるで産まれたての小鹿のようにおぼつかない。今の姿を他人が見れば間違いなく渋面して距離を置く。腹を割った友人でさえ煙たがるのだから想像に難くない。そんな廃人寸前になるまで落ちぶれている理由は単純で、職を失ったのだ。二十歳で拾ってくれた会社に勤めて早数年。過酷な労働にもそろそろ余裕が現れた矢先に唐突な解雇宣言を下された。私の夢も、家賃も、人生もすべてパーだ。労働に見合わない安月給で来月を食い繋げるはずもなく、少しの返しを期待するべく早めに今の家を出なければならない。
「私の家がぁあ」
これからどうしよう。ついにホームレスの仲間入りを果たすことになるのか。そう考えたら込み上げてくるものがあり、寝そべる私の頬をなぞるように雫が伝った。そして堰を切ったように次から次へと涙が溢れ出して止まらない。家のことも食事のこともだけど、こんな急に解雇されるとは思ってもみなかった。コートのポケットに手を侵入させれば丸められた紙の角に指が当たる。冷たく渡された紙に書かれてあるのは「解雇」という黒いインクの二文字。今日渡されて今日職を失った。家に帰れるのも時間の問題。いよいよ自決してやろうかと腹を括りそうだ。
「誰か私に仕事ください!」
「他人任せで仕事が降ってくれば誰も苦労はしない。それも解らんか」
自己満足でしかない吐露に、聞いたことのない男性の声が被さってきて、後ろの方に顔が引かれた。土手の上に立っていたのは高身長の男性だったけど、私はその顔に見覚えがない。つまりは他人ということ。見下ろす彼は私の叫んだ声を聞いていた? 理解すれば、身体がみるみる熱くなっていく。
「き、聞いてました?」
「あれほど姦しく叫べば、たとえ耳を切り落としても頭に響いてくるだろうな」
「うっ」
なんていうこと。誰も寄り付かない土手だからここを選んだのに、まさかここに来る人が居るなんて。これには熱を持て余していた感情もすっかり搾んでいき、肩が身体にぴったりくっつく。それにしても彼は何故、ゴミなどで淀んだ川しか見所がないここに来たんだろう。その疑問は顔に出ていたのか、背の高い彼は尋ねる前に教えてくれた。
「散歩のロードを歩いて何が悪い。それともここら一帯貴様の私有地とでも言うのか?」
「そんな大金あったらこんな所で飲んだくれていませんって」
「フン、だろうな。凡庸な面を見ていれば貴様の所得など手に取るように解る」
「さようですか」
何が悲しくてこんな日に見知らぬ男性にこんなにぼろくそ言われなければいけないんだろ。私が何かしましたか神様。高飛車な男性の独り言なんて聞くだけ時間の無駄だと思って、地面に置いたばかりの酒瓶に手をかける。どうにかなるわけでもなし、なら思う存分酒を飲んで酔っ払ってやる。記憶さえ忘れてしまうほどに。残り少ない酒を一気に呷ろうと持ち上げたら、その瓶は肩から伸びた手によって奪い取られてしまった。
「私の酒!」
すぐ後ろに立っていたのは高飛車な男性で、その手には私の数少ない手持ちで購入した酒瓶が握られていた。ラベルを見て男性は鼻で一蹴する。
「飲むに値しない安酒に縋るとは。同じ人間として哀れみさえ感じるわ」
「別に哀れまなくていいんで酒返してください。今日は飲んで飲んで、飲みまくるって決めてるんですから」
「こんな物が仕事を与えてくれるとは思えんがな」
「じゃあ貴方が代わりに仕事をくれるって言うんですか」
あまりにも煽られるのでムキになって突っかかってしまった。男性は変わらず酒瓶を持ったままで、私に返してやろうという気配は見受けられない。第一、他人の物を許可なく奪うってどんな神経してるんだ。親の顔を見せろってんだコノヤロー。
「与えられないですよね? ならいい加減」
「与えてやってもいいぞ、飲んだくれ」
「返して、って、はい?」
「耳まで麻痺したのか。この俺が飲んだくれの貴様に職を与えてやると言っているんだ」
失業の憂さ晴らしに飲んだくれていた私にとって、まさに青天の霹靂で、棚からぼたもちとしか言えない僥倖だが、ほんとうに職をこの男がくれるのだろうか。残念なことに断言する男の言動にどうにも嘘が感じられない。驚きとも呆気とも言える様で目を丸くしていれば、男性は立つことを促すように言った。
「俺に着いてくるかは貴様が判断しろ。この更地でくたばるか、俺の手足の一部となって馬車馬の如く働くかどちらか選べ、飲んだくれ」
「ちなみにお給金の方は」
神妙に尋ねる私に男性はフンとまたしても自信満々に鼻を鳴らす。
「二十でいいだろう。もちろん貴様の働きぶりによっては昇格、昇給の機会もある」
「に、二十!? それって桁は万の方ですよね?」
「貴様は子供の小遣いを稼ぎに職を探しているのか?」
「違いますよ! ただあまりにも大きいお給金だったんでつい」
「よほど前職が不甲斐ないものと見える。雀の涙程度の財産に驚くとは」
「一円を笑う者は一円に泣きますよ」
「くだらん。俺はその一円を一千万倍以上増やしてやる」
迷いなく言い切った姿勢に、この男性はなんて自分に自信がある人なんだろうと思った。だけどここまで言えるのは、もしかしたらそれだけ実績があるからかも。私に残っているものは今月を乗り切るだけで精一杯の預金と前職で培った経験だけ。これを倍に増やし、預金額も倍増できるのならこれに乗っからない理由がない。
「さあどうする。飲んだくれに費やす時間はたとえ一秒であっても惜しい。俺の誘いを受けるか受けないかさっさと選べ」
「事務だろうが技術だろうがなんだってやります! やってやりますよ! むしろやらせてください!」
「まともな判断を下せる程度には機能していたようだな。俺の部下に愚鈍は要らん。汚泥まみれの生活を脱するべく精進しろ」
「はい、社長! って、今更ですけどほんとに社長なんですか? そもそも名前すら知りませんし」
そうだった、まだこの男性のこと何も知らないんだった。提示された条件に食いつくまま頷いてしまったが何かやばい所だったりしないだろうか? もしかしたら反社だったり? うわあぁ、もしそうだったら私めちゃくちゃ危険じゃん。そんな不安をまたしても男性は鼻先で笑い飛ばした。思うんだけどこの人、鼻で笑うのがマイブームなのか?
「この俺の顔すら知らんとはな。井戸の中の蛙、大海を知らずという言葉があるが、貴様の場合は井戸の中のおたまじゃくしのようだ」
「息吐くように人を貶さないと死ぬ病気にでも罹患してるんですか。身元開示を要求します」
「飲んだくれの脳味噌によく刻み込んでおけ。俺の名は海馬瀬人、海馬コーポレーションの社長である海馬瀬人だ」
前言撤回。鼻で笑うのがマイブームの変人とか思ってすんませんでした。え、でもほんとにあの超有名企業の社長である海馬瀬人さんその人なのか? その疑問はまたしても尋ねる前に彼が教えてくれた。胸元から引き出した名刺カードが投げられる。
「訝しむならそこへ電話してみろ」
「ま、まじだこれ」
「飲んだくれに吐いてやる嘘など俺のプライドが許さん」
白い紙にくっきりと刻むは紛うことなき海馬コーポレーションと海馬瀬人という名前。信じられないものを見るように見つめる私に男性、いや、社長は言った。
「明日八時に本社へ来い。持ち物は身分証と印鑑のみ。履歴書など要らん」
言うや否や傍に立っていた社長はさっと踵を返した。舞うコートが顔にぶつかって思わず「ぶっ」と顔を顰蹙する。会社の理念や指針、勤務時間などその他諸々知りたかったのだが社長はそれらを口にする余裕も与えずに歩を進める。え、まじで私あの海馬コーポレーションに入社できるの? 名刺カードと消えかかった社長の後ろ姿に視線を往復させても仕方ないけど、今でも実感がないほど驚くべき事が行われたのだ。ちょっとは間抜けで居られる時間が欲しい。面接の時間など、ようやく落ち着きを取り戻した脳が飲み込んでいく。こうしてはいられない、今すぐ家に帰ってタンスの奥にしまいこんだスーツを取り出さなきゃ。淀む川に背を向けた私が居たところには、安月給で縋っていた酒瓶が転がっていた。