百合描写アリ
今一度振り返ってみよう。授業へ赴く際、同室の子を追うように最後に出た私はきちんとドアを閉めて鍵をかけた。ガチャリと鍵がかけられる音だって聞き届けている。窓だって閉めたし鍵もかけて、こうやって授業が終わって帰ってくるまでの間一度も開けていない。なのに、どうして。
「何故入ってるんですか先輩!」
女子たるもの云々を叩き込まれて育ってきた私だが、そんな静粛さは部屋のソファに腰を下ろしている先輩を対面にしたら本能に掻き消され、声が張ってしまうことを抑えられない。招待された来客よろしくの態度で私を手招きし、全校の女子生徒が蕩けてしまうような柔和な微笑を湛えている。おかしい、なんだこの人は。一個上の天上院吹雪先輩もとい、彼の行動を理由に自身の間でつけた渾名は「ストーカー先輩」であるわけだが、その先輩は「そんな怖い顔してると亮みたいになっちゃうよ」なんて言いながらどこからか用意したか、優雅に紅茶を飲んでる。足を組んで。
「ここ、女子寮なんですけど」
「やだなぁ。キミ、僕が他の女の子の部屋に入るような男に見えるのかい? 安心して、ここしか入っていないから」
「尚更タチ悪いんですけど。いやもう、まじで出てってくださいよ。これから同室の子たちとお茶する約束が」
「なるほど、そういうことだったんだね」
「はい?」
唐突に納得した顔されて思わず言及してしまった。いかんいかん、早々に立ち去ってもらわなければ。ストーカー先輩、じゃなくて! 吹雪先輩のこの不法侵入や行く先々での邂逅という名の先回りなんてものは今に始まったことじゃないから頭を抱えている反面、嵐のようにやってきて風のように去っていくだけだからと気にしていない一面もある。なのだが今日は「はいそうですか」と流すわけにもいかない。いくら女子に人気な吹雪先輩とあっても彼は男性。ここは男子禁制の女子寮。こんな場面に第三者が遭遇したらあらぬ噂がでっち上げられ吹聴されかねない。これが丸藤先輩だったり良識ある人ならそんなことないと一蹴してくれる期待も抱けるのだが、相手は自由気ままなストーカー先輩なわけで。なんだろう。やっぱり気を許しちゃいけない気がする。
「ともかく! 今日だけは相手できませんから帰ってください」
荷物を勉強机に置いてソファに近づく。未だ紅茶のカップを握り締め何かを考え込む様子の先輩に、投げ出すように手のひらを差し出した。もちろん「さっさと行くよ」という退出の意だけを込めた動作なのだが、どこをどう歪曲して解釈したのか、一変して目を輝かせ手のひらを重ねてきた。手を繋ぐために差し出したんじゃないんですよ、先輩。微動だにしない彼の腰を持ち上げるべく引っ張ってみる。健闘虚しく彼はにこやかに座っているまま。柳眉には僅かな淀みもない。爽やかな笑顔がいっそう苛立たせた。
「早く! 帰って! くださいってば!」
なんだって今日はこんなに執拗いんだこの人。こんなことしてる場合じゃないのに。今日は、今日だけは。だって。脳裏を掠める後ろ姿にはっと我に戻って頭を振る。熱に惚けるのは後! 今は眼下に座する先輩を追い返さなければ。私のなけなしの膂力をフル活用して体重をかけるが敢え無く撃沈。ぜえはあと息が上がっている私の様子にすら笑顔を崩さない。む、むかつく。荒い息を肩で宥めているその瞬間の出来事だった。
「わっ!?」
電車の中から見る窓外の景色のように、急に視界のピントがぶれた。頬を打つ風に当てられながら痛みが襲いかかることを想定して目を瞑ってしまう。だけどそれは一向にやってこなかった。それどころか腰に何かが這っているような気持ち悪さを感じるような。少しだけ手が痛い。恐る恐る瞼を持ち上げると、飛び込むのは至近距離の先輩の顔。それも唇が触れ合ってしまいそうなほど近くて、遅れて現状の体勢を理解した私は、それこそ風を切る勢いで首を仰け反らせた。
「せっ、せせっ、何を!?」
やばい、自分でも何言ってるのか全部解らない。先輩は軽やかな笑みを浮かべたままに言う。頬が紅潮しているし、どういうこと。
「キミって見かけによらず案外大胆だね。大胆不敵かつ華麗なデュエルをするのだから当然っちゃ当然かな?」
「いいい、意味解りませんから! 先輩、手離してっ」
「解らないのは僕の方だよ。追い出す素振りを見せながら僕を誘うなんて」
「誘ってなんかっ」
「そうかい? じゃあなんで手を出してきたの?」
「だからそれは!」
全く動こうとしないあなたを引っ張り出すためなんですってば! その言葉は先輩から向けられる眼差しによって重い蓋が被せられてしまう。冷静に考えれば傍から見たら私が先輩を襲っているように見えてしまうだろう。全然違うのに。先輩に手を引かれ体勢を崩した私はそのまま先輩に馬乗りする形で覆い被さっている。咄嗟のことに突き出た片腕がソファの背もたれを押し出して、全体重をかけてしまうところを寸でのところで支えている。おかげで先輩は私の顔を至近距離から見上げ、私は見下ろす形になってしまった。この距離でその顔はやばい。そしてこの体勢もやばい。どうにかしないと。
「キミはいつも僕をこんなに遠ざけるのに」
「ひっ」
顔が近づいたかと思うと首筋に埋められた。なまぬるい鼻息が首筋の皮膚をくすぐり思わず肩に力が入ってしまう。規則正しい鼻息が皮膚を撫で、そして「ふっ」と口から息を吹きかけられる。
「ふっ、吹雪先輩っ」
「あーあ……。だめだよ、今名前呼んじゃあ」
「ひ、ぃっ」
なまぬるいものが、やわらかいものが、何か解らないものが当たった。いやちがう、当たったんじゃない。当てられた。ふにふにした感触はくちびるで、ねっとりとした粘液を肌に着けながら這うこの硬いものは舌? 首筋を舌先と唇でなぞりながら肩へ辿り着く。背中に冷たいものが侵入してきた。弓なりにしなる背骨を伝う先輩の手。素肌をまさぐる感触に目頭が熱くなった。
「やっ、やだ! せんぱい、やめて」
込み上げてくる恐怖に負けじと声を振り絞る。今、自分の目の前に居る男はだれだ。こんなの私が知るせんぱいじゃない。誰、だれだれ? やだ、怖い、こわい。なんで今まで私。服の中に忍び込んだ手がぴたりと止まる。砕けそうになる腰を奮い起こして先輩に目を向けた。肩に埋めていた先輩と視線が混ざり合う。
「こんなところ、明日香に見られたらどう思うんだろうね」
発せられた名前に瞳が揺れてしまうのを自覚した。言葉を飲み込んだ私に先輩は言葉を続ける。
「彼女の性格はキミも知っているだろう? 恋人でもない男と女がこんなふうに交合っていると知ったら、彼女はきっとキミに幻滅するよ」
やめて。
「恋人だったら。まあでも校則破ってこんなことしてる時点で軽蔑モノか。それにこの体勢は誰が見てもキミが襲っているようにしか見えない」
やめて、言わないで。
「それとも正直に告白するかい? ほんとうは明日香が好きなんだって」
「先輩!」
言われたことを掻き消すように声を荒らげる。涙目だったとしてもありったけの激情を持って睨めつけるが、私を見上げる彼の双眸は揺らがない。平坦として淡白だった。怖気すら抱いてしまうほどに静かで、私の方が総毛立ってしまった。何故そんな冷静で居られるの。なんでそんなこと言うの。なんで私の気持ちに。否定はできなくて唇を噛み締める。それが肯定だった。私は明日香さんが好きだ。最初は憧れとして、次は友人として、今は恋愛として。でも言うつもりなんてない。同性だし何より彼女はデュエルに恋してる。その一途な想いに私という不純物なんて混ぜたくないのだ。誰にも言ったことないのに、どうして先輩はそれを。ひとりで抱えていた秘密を暴かれたことを言及する視線を受けて、彼は口を開く前に私の頬に手を添えた。硬い指が肌に溶けて身が震える。けれども彼は謝ることもなく、私を見据えたまま語った。
「キミ、僕に何したんだい?」
じっと見つめられるふたつの瞳。いつになく真剣で、固い。何したかなんて知らないし、いみわかんない。私を捕らえて離さない手が徐々に痛くなってくる。しらないよ、しらないから離してよ。身を捩っても当然ながら腰に回った腕がねじ伏せる。なんで私、先輩のこと軽んじていたんだろう。優しくて紳士的と謳われる吹雪先輩。そんな人が実は、本能に突き動かされて恋人でもない女に舌を這わせる男だなんて誰が予想できるだろう。ただ、これまでの平和な日常は確実に終わったことを感じていた。