脳天を突き抜ける匂いで意識が覚醒した。気だるげに開けられた視界へ飛び込むのは滲む白。風になびく布のように波打つ白は徐々に質量を帯び、やがてそれは天井にはめられたタイルの白だと気づいた。瞬きをする。視線を下へ滑らせれば天井と同じ白が飛び込んできた。動かせないけど自分の身体は白いシーツに覆われているのが感じ取れる。熱を逃がさないシーツのおかげで、全身は心地よい暖かさに包まれている。ここは病室だろうか? 異様なまでの白さと鼻腔にこびりつく消毒液の匂いがそう推測させた。耳に男性と思しき声が届く。
「起きたようだね」
鼓膜を震わす落ち着き払った低い声。寝惚けたままの脳に、その声は煩わしさなど微塵も感じさせなかった。むしろ聞いているうちに寝入ってしまいそうなくらいだ。その主と視線がかち合う。ベッドの傍にあるパイプ椅子に腰を下ろし、私に付き添っていた。窓からなだれ込む日差しが錦糸の髪を暖かく照らしあげる。日の暖かさが混じっているのか、私を見つめる眼差しが穏やかだ。何か言おうと踏ん張るが、喉に重い蓋がされているようで声が出せない。しばらく彼は私の返答を待っていたが、私の心中を察したようで「無理することないよ」と労わった。
「心配したよ、君が階段の下で倒れてるから。急いで病院に連れてきたんだけど、医者曰く軽い脳震盪だけで大事ないって。取り敢えず無事で良かった」
怪我人を慮っているのか、彼は終始微笑を貼り付けている。頭に重さがまとわりつき、何か言うでもなく、何かを考えることもできない。重い、痛い。寝たいと思っていないのに瞼が言うことを聞かずに降りてこようとする。マリクに聞きたいことあるのに。でも怠いな。拭えない倦怠感に少しづつ気が立ってくる。そんなことしてもまとわりつくそれを拭うことなんてできないって解ってるのに。
「今はゆっくり休んで。会社のことなら心配ないよ、僕が事情を話しておいたから。帰ったら好きな物作ってあげるからさ」
気遣いは一身に私にだけ注がれているのが解る。それなのに腑に落ちない。いや、だからこそと言うべきか。彼を見つめたまま寝ようとしない私にマリクは微笑んだ。落ち着かせるように、安心させるように。今の彼は誰の目にも恋人を気遣う心優しい青年に映るだろう。これが事故であれば私だってそう思うはずだ。でも私は知っている、これが事故ではないことに。ねえなんでなの? 私、マリクの気に障るようなことした? 訳が解らなくて、彼のこの行為でさえ何か裏があるんじゃないかと思えてならない。追い立てられるように涙が出てくる。なんで優しくするの。私を階段から突き落としたの、マリクなのに。