拝啓、親愛なる友人へ。早くバイクで駆けつけてほしいです。
「アメリカで同じ日本人に会えるなんて、これもう運命じゃねえ? しかも可愛いしさあ。超ラッキー」
「あの、すみません、友人と待ち合わせしてて」
「声まで可愛いとか反則っしょ! その友人も誘って遊びに行かね? 俺すっげえいい場所知ってんのよ」
男は蛮声をあげて笑う。嫌そうに顰蹙する私の顔を知ってか知らずか、それとも興味が無いのか、男は尚も執拗に絡んできた。アメリカの空港に着いたのはつい先程のこと。迎えに来る友人が渋滞で遅れるとの連絡があったので空港内を見回っていたら、突如この男に声をかけられたのだ。道を聞かれたので教えたらいきなり豹変して現状に至るというわけである。
「すみ、ません。やめてくだ、さい」
見ず知らずの男性にこんなに執拗く食い下がられたのは初めてで、人の助けに縋るように周りを見ても他の人は何処吹く風である。声を上げてやろうかと思っても声が出ないし、第一英語が喋れないから助けも求められない。やだ、怖い、どうしよう。日本語が通じてるのは不幸にもこの男だけで、他の人には通じない。声すら出なくて困っていると、ついに男が私の肩に手を回してきた。
「やだ、やめっ」
怖い、怖いよ。誰か助けて。我慢の限界を迎えてしまい目頭からいくつもの涙が溢れてしまった。いつもならすぐに拭ってるけど、今は泣いてることにすら気が回らなくて、ただ手を震わせることしかできなかった。言葉が出てこない。この人はなんて言えば引いてくれるか解らない。どうしよう、助けて。誰でもいいから。ぎゅっと目を瞑る。現実を遮断した脳に響いてきたのは男の短い悲鳴だった。弾かれたように顔を上げる。
「嫌だって言ってるのが聞こえないのか、離してやれよ」
見たことない男性が絡んできた男性の手を掴みあげていた。手をきつく絞め上げているのか、絡んできた男性が目を眇めて「うっ」と喘ぐ。そのまま力に任せたら折れそうな体勢だ。
「離せよ!」
「おっと。彼女、僕の大切な人なんだ。今度ちょっかいかけたらただじゃおかないよ」
すっと目を細めて睨めつける。絡んできた男性はすっかり肝を抜かれたのか、若干赤くなっている手首を擦りながら去っていった。ぽかんと立ち竦む私に助けてくれた男性がさっきとは違って落ち着いた、優しめな語調で話しかけてきた。
「大丈夫かい? 君」
「あ、はい。ありがとうございます」
「気にしないで。ここじゃああいうの多いから嫌なことは強く言った方がいいよ。なあなあにすると向こうの思うツボだから」
「うっ、そうですね。これから気をつけます。よく言われるんです、意志薄弱だって。直さないとだめですね」
誤魔化すように笑えば、男性は考え込むように黙ってしまった。訪れた沈黙に戸惑いを覚える。何か変なことを言ってしまっただろうか。何か喋った方がいいかもしれないけど何を喋ればいいのか解らず瞠目する私に、しばらくして彼が口を開いた。
「アメリカには旅行で?」
「はい。久しぶりに友人と再会するんです」
「そうか。それは最悪な出だしになってしまったね」
「まあ。でもそろそろ友人が迎えに来ると思うので大丈夫です!」
「友達も日本人なのかい?」
「はい。高校の時の友人なんです」
男性は言いたいことや聞きたいこと、そして会話の広げ方が上手だった。違和感も不快感も覚えないのは、他人という境界線をきっちり守っているからだろう。初対面の人とこれほど長話するのは私の人生の中で初めてのことで、彼が作ったというドラゴンダイズ&ダンジョンズ、通称「DDD」の話に夢中になった私を叩いたのは鞄の中で震えた携帯だった。
「あっ」
「どうしたんだい?」
「友人がターミナルに着いたって」
「となると近くに居るね」
画面に表示された友人の通知。それによって会話に終わりが訪れた。最初の嫌な記憶が霞むくらい楽しい会話が終わると知って、胸の中に苦い気持ちが広がる。けれども彼の連絡先を聞く勇気は持ち合わせていなかった。だいたい見ず知らずの人なのはこっちも一緒。いくら談笑したからと言って連絡先を聞くのは失礼かもしれない。考えれば考えるほど気後れしてしまい、とうとうお別れとなった。
「僕も待ち合わせしてるんだ」
「あっ、はい。いろいろありがとうございました」
「気にしないで。君と話せて良かった」
彼は未練なく笑うけど私は同じように割り切れなかった。いいのだろうかこのままで。今聞かなかったら一生会うことはないかもしれない。拳に力が入る。私は男性に向けて口を開いた。けれど言葉が出ることはなかった。私が話すよりも最初に彼が言葉を発したからだ。
「これあげるよ」
鞄の中を探っていた手が差し出したのは小さな箱だった。可愛らしくラッピングされた箱には、メーカーのロゴらしき文字が筆記体で箔押しされて輝いている。何が入っているか解らず不思議がる私に彼は説明してくれた。
「チョコレートさ。そこの売店で買ったばかりだから何も変な物は入ってないよ。安心して」
「えっ。でもいいんですか? 誰かにあげるために買ったんじゃ」
「貰ってくれるはずの人が甘いもの嫌いだから、君が貰ってくれれば助かるんだけどな」
「甘いもの好きなので大丈夫です! ありがとうございます」
「君ってばそればっかだね」
くすくすと目を細めて笑う。頬に熱が集中していくのを感じた。は、恥ずかしい。
「じゃあもう行くよ」
「はい!」
「Have a nice day.」
さらりと英語で返した彼は背中を向けた。行き交う人の中に姿が掻き消されてしまうと、やってきたのは一抹の寂しさだった。胸に空いた針穴の隙間に仕方ないことなんだと言い聞かせる。話が楽しかったからと言って調子に乗るのはいけない。断られたらどうするつもりだったんだ、自分。初対面に連絡先を教える人なんて居ないのだから。未練がましく見つめる私は気付く由もない。渡された箱の裏に貼ってある小さなメモ用紙の存在に。