アテムと姉弟






先生の教えも終わり、息抜きとして回廊を歩く私を、幼い声音が引き留める。声に釣られればそこに居たのは私の弟だった。

「またお稽古を抜け出してきたんですか、アテム」

「だ、だって、痛いし……」

「ああもう、そんなに擦っては腫れますよ。じっとしてなさい」

彼の目線に合わせるように膝を折って、自分の目元を痛めつけるがごとく擦るアテムの手をやんわりと引き剥がす。私を見つめ返すつぶらな瞳は大粒の涙によってゆらめき、まだ幼い体躯には数多の傷跡が痛々しく残っている。ここに来るまでずっと擦り続けていたのか、彼の目元は少しだけ赤くなっていた。後で氷を宛てがわなければ。

「マハードが探していることでしょう」

「あねうえ」

丸い手が私の手首を掴む。力など入っていないに等しい、振り払うことなど容易いまでに無力な手。けれどもそれの意図は彼の顔貌を見ていれば簡単に読み取れた。毎度の事とはいえやはり面倒くさい。溜息を吐けば頷くように項垂れた。

「解りました。束の間の休息をしましょうか」

「やった! セネトしましょ、あねうえ!」

「やったらきちんとマハードの元に行くと約束してくれますね?」

「はい!」

泣き顔から一変して喜色満面に頷く姿に、この約束はまたもや守られることはないと理解した。遊びたい盛りのアテムに手を焼くマハードがまざまざと思い浮かぶ。鳥が躍るように手を引くアテムが、将来この国を引っ張っていく。一挙一動が神官を動かし、民を束ね、そして誰もが彼を偉大なる賢王と讃えるのだ。姉ごときの膂力で振り払えるこの手もいずれは私を縛るだけの鎖に変わっていく。「国とは何か」なんてまだ漠然としか思い描けないアテムの後ろ姿に吸い込まれるように見つめる視線を、何気なしにずらしてみる。天上より注がれる陽射しは、草の一本まで整えられた庭園を荘厳に照らしあげる。造られた池は太陽の粒子を細やかに、けれども見る者の目を焼くように反射させた。目の奥が痛い。あの池は大人の腰ほどの深さだと聞いたことがある。

「あねうえはご立派ですね」

「は?」

靄がかってきた思考が一瞬にして弾けた。文脈がなく、あまりにも突然だったことについ素が出てしまった。謦咳をひとつ取り繕ってみせ、彼にその理由を尋ねる。

「ちちうえがいつも言っています。あねうえのようにありなさい、と」

「師の教えから逃げたことはありませんね」

「うっ。でもあねうえ、あねうえはどうして勉強がお好きなんですか? むずかしいのに」

「知識があって損はしませんよ」

それに身に付けた知識たちは、ずっと私の味方でありどんな時でも助けてくれる。

「あねうえ?」

視線がアテムが離れ床に落とされた時、不思議そうな声を彼があげた。我に戻って彼を見る。

「しっかり勉強なさい。いつか役立つ日がきます」

「ここに居られましたか王子!」

回廊の奥から走ってきたのはアテムに就けられた教育係、マハードだった。随分走り回ったのだろう、私とアテムの前であっても息遣いは荒く、肩の浮き沈みが激しい。アテムといえば、繰り返される授業の放棄に付き合わされる彼の気苦労などツユも鑑みずに私の背後に回ってしまった。床にまで届く服の裾をきゅっと掴む。怯えるというより頑なにマハードの授業を受けたくないと見える。私はアテムの姉だが、彼は王になるための教えを受けている身。その邪魔は許されない。助けを求める視線に背中を押されて、背後に隠れるアテムに向き直る。

「お行きなさい、アテム」

「でもあねうえっ」

「我儘を言って困らせるものではありませんよ。ファラオになられる方が勉学を拒むなど言語道断。無知はいずれ国の基盤を揺るがし、隣国の侵攻を許しかねない。あなたは歴代のファラオ達が築き上げたものを崩す気なのですか?」

「そんなつもりは……」

「賢いアテムなら今成すべきこと、お解りですね?」

「はい」

萎れるように項垂れると共に裾を掴んでいた手も引き下がった。晒されたつむじにそっと手を置く。アテムは顔を上げ、大きな瞳を向けてくる。

「誠心誠意励みなさい。アテムならできます」

綿を包み込むようにアテムの頭を撫でてやれば、一転して嬉しそうに、そして自信に溢れる表情になった。私を映すふたつの双眸は硝子のように輝き、太陽のように私を苦しめる。溌剌と頷いた彼は私の背中から飛び出してマハードと共に去っていった。中庭より傾いた太陽の光の筋が入り込んでくる。空気中に漂う微細な埃が生暖かい匂いを発し、睫毛をくすぐった。誰も居なくなった回廊はそれはそれは静かで、白昼だと言うのに女中の生活音ひとつ届いてこない。広大で豪奢なこの宮廷でここを好むのは私だけ。誰からも見捨てられるのなら何故こんな場所を造ったのだろう。精巧に造られた支柱、花紅柳緑の庭園、そして自分だけは見ているといわんばかりの同情の陽射し。ここにある全てが。

「ほんとうに忌まわしい」

言葉に吐き出すだけで口の中に苦いものが広がった。自ずと眉間に皺が寄る。聡明だ、異才だ、名君になる器だと持て囃しながら、結局どいつもこいつも男児をとる。肉親さえ。妥協による王ではなく真の王が誕生すれば手のひらを返したように一切の視線を向けてこない。お前はもう用済みだと言外に言って。勉強を嫌い抜け出すようなファラオより、私の方が優れているのに。いずれ私は実弟に組み敷かれるのだ。王位継承権を委ねるためだけに。くそ、くそくそくそ! 何もかもが妬ましく疎ましい。期限付きの愛など最初から無かったらよかったのに! 掻き消えそうな吐露は静寂に包まれ、けれども太陽は我関せずと私の顔を焼いた。

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