今日は仕事がいつも以上に早く終わったため、瀬人の許しを得て彼の自室に入り浸っていた。ふかふかの長いソファに寝転がり、同僚に勧められた漫画を黙読する。瀬人はまだ勤務時間なため、寛ぐ私とは反対に忙しなくキーボードを打っていた。
「あっ、そうだ。瀬人」
「なんだ」
PCから目を動かずに疎ましげな声を発する。仰向けの体勢から身を回して彼を見遣る。液晶画面を睨めつける顔は険しい。遊戯くんでも映っているのだろうか。
「私ね、できたんだ」
平然と言った私へ、硬直した視線を送ってくる。書類作成してるであろう腕は止まっていて、彼は衝撃を受けたような表情をする。
「は?」
「だから、できちゃったんだよ」
仕事のし過ぎで耳が疲労したのだろうか。そうだ、今度肩が休まる場所に連れて行こう。現役の社長が難聴なんて悲しすぎる。漫画を閉じてガラスのテーブルに置く。今週の土日は珍しく彼との休暇が重なるので、早速宿を探すとしよう。献身的な彼女に喜べよ瀬人。
「わざわざ言うまでもないかなーとは思ったんだけどね? でもやっぱ瀬人に知ってもらいたくて」
検索結果に表示された大量のホテルをスクロールしていく。できれば童実野町を離れたいんだよね。彼ってばここに居ると日課のようにデュエルしだすから。この前なんかエンカウントした遊戯くんと、私そっちのけでデュエル続けて、終いには私にまでそれを要求してきたのだ。日暮れまでぶっ続けておいてよく飽きないよなと思う。デート中に彼女を放っておくことができる神経もある意味凄い。申し訳なさそうにしてた遊戯くんを見習って欲しいよ。
「いつ解った」
「今朝。なんかおかしいなーって思ってたら案の定」
「貴様は馬鹿なのか」
「え、なに急に」
なんでいきなり怒られたの、私。目を丸くして瀬人を見れば、彼はそれ以上に動揺しながら怒りをあらわにしていた。がたん、と席を立つ。私の座るところまで大股で近寄り、呆けて見上げる私の肩に掴みかかる。怖い怖い、なんで目血走ってんの!?
「い、痛いんだけど!」
「何故即刻報告しない? 俺をどんな男だと思っているんだお前は」
「えっ、えっ、何が? なんのこと?」
「白々しい! だいたいお前は常日頃から危機感というものが足りなさ過ぎるのだ」
「そんな大袈裟な」
「まさかお前、その格好で職場へ赴いたわけじゃないだろうな?」
「いや、このままだけど……」
言い切った私に、瀬人は絶句する。しばらく黙した彼は携帯を取り出したかと思うと、どこかへ繋げて「磯野! 今すぐ医師を呼べ! 今すぐにだ!」怒号にも似た声量で言いつけて乱暴に切った。この場で唯一私だけが置いてけぼりを食らっている。何が何だかとんと解らないんだけど。
「せ、瀬人? なんで医者なんか……」
「その様子では病院に行っていないだろう。この場で診てもらう」
「えっ、なんで!?」
「安心しろ。診断の最中は俺も付き添ってやる上に、この部屋には看護師と医師以外立ち入らせないようにしてやる」
「違う、そうじゃない」
ますます混乱を極める。なんか話が飛躍しすぎて理解の届かない場所にいるような気がするんだけど。困惑する私に、普段の瀬人らしくない真面目な顔をした。真剣な眼差しで見つめてくる。遊戯くんと対峙する時に似ているようで違う。
「もし陽性であれば即刻入籍するぞ。異論は認めん」
その言葉を聞いてようやく事態を飲み込めた。もしかして瀬人、私が妊娠したと思ってる? おのれの会話文を振り返れば確かにそう捉えられても不思議じゃない言い方だ。有り得なさすぎる誤解に気づいて全身が熱くなった。
「瀬人、落ち着いて聞いてほしい」
「なんだ」
言葉を選ぶべきか率直に言うべきか逡巡する。茶化すように言うのは間違いなく彼のプライドに傷をつけかねないのでそれはないとしても、率直に言った場合も一緒な気がするのだけど、どうするべきか。だからと言ってまごつく余裕はない。磯野さんに医師の手配を辞めさせないと、まじで来てしまう。こうなったらなるようになれ!
「できちゃったの、口内炎なんだよね……」
躊躇いがちに真実を伝えれば、瀬人は「は?」と低い声を出して固まった。できたことを伝えた当初と同じように。
「妊娠、してない……」
誤解を解くだけなのに、教える度申し訳ない気持ちが胸を針のように突き刺さってくる。や、やばい、瀬人の顔が見られない。彼から滲み出る雰囲気が険悪になっていくのを、肌で確かに感じ取った。噴火直前の火山のようだ。
「で、でも! 責任取ろうとしてくれたのはその、嬉しか」
「出て行け」
言い終わる前にコートを翻し、短く、感情を飲み込むように静かに言い放った。ぐっと言葉が喉に押し込められて、一瞬息が詰まる。怒ったというのは直感で解った。いつも以上に怒っている。やばい。
「瀬人」
「今すぐ出て行け。俺から連絡を入れるまで現れるな」
こりゃだめだ。瀬人と喧嘩するのは一度や二度のことじゃない。だからこそ解るものがある。今の状態の瀬人はどれだけおだてようが、物腰を低くしようが、突き放される。会話の気持ちがないのだ。でもそういう時は、ひとりで考える時間も必要だろうと思い、なるだけ距離を置くようにしている。今もその時だ。
「帰るね」
気にするほどの事柄でもないと思うが、必要以上に動揺した自分が許せないんだろう。今は頭に昇った血が引いてくれるのを待つしかない。そそくさと支度を済ませて部屋を出た。出る時も、彼は何も言わずに背中を向けたままだった。ビルのフロアを歩きながら脳裏に瀬人を呼び起こす。嬉しかったという気持ち、あれは嘘じゃないんだけどな。阿りでもないし。もう少し柔軟になってもいいじゃないかとは思うけど、今はそれよりも私と結婚する気持ちがあることを知ったことへの嬉しさが勝った。そっかぁ、結婚してくれるのかぁ。理不尽に怒られたにも関わらず、溢れてくるのはふわふわした幸福感。帰宅した私はそれからひとりで過ごし、夜に電話がかかってきた。それは瀬人からで、ただ一言「結婚するぞ」と。私の旦那様は、相変わらず気難しい人だ。