これと繋がってる。
近親相姦。
とうとうこの日が来てしまった。薄い生地の服が月明かりを受けて瞬く様はまるで星のよう。耳や首元を飾る大粒の宝石も、清廉な鈴の音を響かせる足輪も、身体には白檀を用いた油剤を塗られ、夜の深まった冷たい空気に混じって香る。王の寝室へと続く長い回廊を踏みしめる度、静寂な闇に鈴の音が響いた。一歩、また一歩と確実に彼の部屋に近づく。胸中に巣食う苦々しい気持ちはその都度膨らんでいくばかりで、辿り着く時には吐いてしまいそうだ。いくら王であり夫であるからと言っても、あの愚弟に抱かれるなんておぞましきことこの上ない。道端に刃でも転がっていれば飛び付いておのれの心臓に突き立ててやる。満ち満ちる嫌悪が殺意へ変貌しようとした頃に、王の寝室に着いてしまった。吹き荒れるおのれを諭して扉を開ける。
「ファラオよ」
開けた途端、床に敷かれた絨毯やその他の調度品に焚き染められた麝香の匂いが、準備のできていない鼻の奥を強く刺激した。思わず鼻の上に皺を湛えてしまう。部屋の中央に佇む人物に声をかける。私の自室よりも広く、天井なんて空のように高い。彼の背後には大きな月が顔を覗かせて、蝋燭が立ち並ぶ部屋に温度のない明かりを降らせる。私の声に彼が反応し振り返った。待っていたとでも言うように余裕ぶった態度で近づいてくる。何十歩もあった距離はあっという間に詰められ、結われた髪に指を絡ませて玩ぶ。けれどもその視線はどこか恍惚としているような気がして、足指を丸めた。
「綺麗です、姉上」
横髪を掬い上げ口付ける。手を払ってやりたい衝動を押し殺してぴしゃりと言った。
「私はもう姉上ではありません。どうぞ真名でお呼びください、ファラオ」
「いいや、俺の中ではあなたはまだ姉上のままだ」
「何を言っているんです、ファラ」
「アテムと」
「は?」
何を言っているんだと悪態をつかずにはいられない。王位継承のために婚儀したというのに、まさかこの期に及んで抱かないつもりなんだろうか。これにはさすがに舌打ちをしたくなる。私がどんな思いでここに来たか知らないくせに、挙句血を分けた姉だからと哀れむつもりか。何もかも残すことなく奪っておいて今更。哀れむくらいなら私から奪っていくな、産まれてくるな。心の底に押し込めた様々な感情が首をもたげる。このままだと気が狂いそうだ。
「アテム、あなたは私を姉だと捉え抱かないつもりですか? 教えられたでしょう。同じ血が通っていても私は」
「俺の妻。解っています、そんなこと」
「だったら何故」
「姉上。何か勘違いしているようですが、俺は『抱かない』などと一言も言っていませんよ」
彼の言っていることが飲み込めない。これは私が可笑しいのだろうか。それとも妻となった女を、閨でも姉と呼ぶ気なんだろうか。解らないしこの男の真意なんて解りたくもない。この手には何も残っていないんだ、さっさと役目を終わらせてしまいたい。
「むしろずっと抱きたいと思っていました」
「何を言って……」
自分の耳を疑ってしまう。彼は今、なんて。頬にアテムの手のひらが宛てがわれても、愕然とする今の自分にはそれを払うことも考えられなかった。腰を抱き寄せられた時にようやく我に返ることができ、身を捩る。だけど抵抗を見せれば見せるほど、彼の腕は許さないと言うように食いこんでくる。岩壁ごとき胸板にぶつかる。この時初めて彼が、私がいつも見ていた弟ではないと気づいた。
「例え姉上が俺のことを蛇蝎の如く嫌い、反逆を奸詐するほど憎んでいたとしても、そんな姉上を俺はずっと愛しています」
脳天に降り掛かった雷が、疾風のように全身に駆け抜け、衝撃から咄嗟に彼の身体を突き飛ばした。絡みついていた腕は容易く離れ、圧迫された肺に酸素が殴り込まれる。息苦しさに喘ぎながら彼の方を凝視すれば、アテムは片方の口角を吊り上げた。その様はまるで全てを見透かしているよう。寒気が背中を撫でる。
「すべて知っていましたよ。約束された王位を弟に奪われ、今まで積み上げてきた物全てが無に帰したことで俺を憎んでおられたこと」
言葉を失った。弟は、アテムは、全部見透かしていたのだ。私の絶望も、弟への憎悪も、父への諦観も。それらを見通した上で彼は尚も胸に秘めていたというのか。王位継承者である彼への弑逆の画策さえも。本来ならば断頭台行きは免れないような事柄なのに。冷たいものが背筋をなぞる。目の前に居る彼は誰だろう。何故彼はそのような一切を黙っていたの。それが弟の言う愛だとでも言うつもりなの。震える脚に力を入れて、逃げたくなる彼の視線に向き直る。
「どうして黙っていたの」
我ながら動揺が隠しきれていない声だと自責するが、平静に努めるだけでせいいっぱいなのだ。その質問を待っていたといわんばかりに眼が、口が弓なりに歪められる。肝を冷水に投げ入れたような怖気に駆られて視線を逸らしたくなるが、そんな自我は欲情に濡れる彼の双眸が許してくれなかった。
「可愛いでしょう?」
「は……?」
「顔を見るだけで総毛立つほどの感情を一途に向けてくださるなんて、可愛い以外あると思っていますか?」
「く、狂ってる……。異常よ……、可笑しいわ。アテム、あなた、自分が何を言っているのか理解しているのですか。とても正気の沙汰とは思えませんよ」
「ええ、そうでしょうね。俺の正気は姉上、あなたに狂わされてしまった」
何を言ってもこの男は笑みを消してくれない。まるで言葉の通じない狂人を相手してるような気分だ。じわじわと身体の隅から形容し難い気持ち悪さが広がってくる。この男は一体何を考えているの。途端、彼に抱かれているこの身体を引き離したくなった。気持ち悪い、この男に見られているだけで、素肌をさらけだしているような辱めに襲われる。
「離して! 触らないでっ」
胸を叩き、腰に回された腕の中で必死にもがく。喉を枯らすこともお構い無しに叫びながら身体を捩る。でも神様は私に味方してくれないようだ、もがけばもがくほど拘束具はきつく締めてくる。逃げようとする私を、アテムは薄ら寒い笑みを湛えて見下ろす。取り乱す私の様を限りなく楽しんでいる。
「俺から逃げてどこへ行こうと?」
「やだ、離して、離しなさい!」
「あなたはファラオの妻で、王族なんですよ」
それは暗にお前の味方など居ないと言われているように聞こえた。父だって、側妻たちだって、臣下たちだって、その場しのぎのファラオより即位した真のファラオを受け入れるだろう。それがどれだけ狂気じみて、人の道を外した非道であっても。あまねく善と見なし首を振るのだ。いつしか私は願った。いや、希望を持っていたんだ。たとえこの身を憎い実弟に差し出さねばならないのだとしても、いつかはこのしがらみから解き放たれるのだろうと。どんな形でもいい、身分を剥奪され庶民に落とされてもいい、だからどうか。私に唯一無二の自由を、と。だが現実はついぞ私を見てくれなかった。ラーは微笑んではくださらなかった。私に与えられたのは、姉に欲情する弟だった。なんて惨い。こんなことのために私は生かされたのか。牢獄に繋がれた人生なんて。喉元に迫り上がる感情に泣きたくなった。声を上げて、喉を枯らして、呪詛を吐きまくりたい。私が一体どんなことしたというの。なんでこんな試練を与えるの。足元から戦意が抜けていく私に、その獣は牙を見せた。