クロウたちが子供の頃の設定
ドアをノックする。待ってみるが返事はない。もう一度ノックし、「せめて飯くれえ食えよ」と声を上げた。だが返事はない。女の部屋に押し入る趣味はないが、この部屋に引きこもっているあいつは朝から何も口にしていない。外に置いとくだけじゃあいつが絶対に食べねえことは、一日中配膳した俺がよく解っている。我慢も限界を達した。
「悪いが入らせてもらうぜ」
断りを入れてドアノブを回し入室する。中は暗かった。カーテンは僅かな隙間も許されず締め切られ、消沈間近の豆電球は延命されているかのように点けられていない。日が沈んだらサテライトには光が差さない。家具の輪郭も溶けた闇を手探り状態で掻き分け、培ってきた夜目でそいつの姿を視認した。ベッドで横たわり毛布を頭から被っている女の頭を小突く。
「いつまでも寝てんじゃねえ。起きろ馬鹿」
肩を竦め、傍にあったテーブルに夜食が並んだトレイを置いた。いつもなら間髪入れず「馬鹿って言う方が馬鹿なんだよ、馬鹿クロウ」と憎たらしく反抗するのだが、頭を小突いても挑発しても、食ってかかる気配は見られなかった。身動きもせず死体のようにうずくまっているだけ。小さなパイプ椅子を手繰り寄せ、重い腰を下ろす。片膝の上に肘を置き手のひらで頬を支えた。
「あのなあ。そんなに嫌なら無理することねえだろ。ここじゃお前を追い出そうとする奴なんざ誰も居ねえんだし」
返事はなくともいい。聞いてほしいがために吐いた俺の意見だ。今朝方、俺たちが身を寄せているマーサの家に治安維持局の奴らが訪ねてきた。アポ無し、天敵、おまけに相手は俺らを「卑陋なガキ共」と嫌悪している。当然のように諍いが生じることになった。真っ先に俺は冷たく見下ろす警官のひとりに殴りかかったこともあり、見兼ねたマーサにこっぴどく窘められた。まあそんなことはいい。肝心なのはあいつらが俺らの仲間のひとり、名前を引き抜きたいと言ってきたことだ。これには食い気味に反対した俺の言い分に、マーサも口を閉じる。だがあいつらは「これは上層部の総意の上、決定したことだ」と、まるで俺らの意見も当の本人の気持ちも鑑みずに断言してきやがった。その場で聞いていた名前の顔からは血の気が引いて、乾いた唇を虚しく開閉させていた。引き取りは明朝。それまでに支度を済ませるようにと伝えて出て行ったのである。
「安心しろって。あいつらがどんな強硬手段を取ろうとマーサが突っ撥ねるし、俺や遊星、ジャックがお前を守ってやる」
だから考え直してくれよ。最後にそう付け加える。治安維持局の横暴さや残虐さを知らぬ俺たちじゃない。それゆえに名前は「明日、出てくよ」と意を決した顔で受け入れてしまったのだ。マーサはもちろんだが、特に強く引き止めたのは俺と遊星、ジャックだ。この四人で長いこと一緒に居たからこそ、こいつが今何を考えているか、どんな気持ちでいるのか、それが痛いほど解った。尚のこと行かせるわけにはいかないと思ったんだ。いつだって三歩引いて着いてくるこいつは誰より我慢強く、実は四人の中で一番泣き虫。ただでさえ弱ったところを見せないこいつを、俺たちが居てやれない場所なんかに行かせてやれない。ひとりで泣かせるもんか。もぞっと布団が動いた。
「クロウ」
「なんだ?」
「わたし……」
「おう」
「……いきたくない」
息を吐くように零された本音だった。ゆっくりと上半身を起こし、細っこい腕で支える。その動作に後ろにあったカーテンが引っ張られ、月明かりの一筋が部屋に滑り込む。温度のない明かりを背にした姿を見た時、俺は思わず言葉を飲んでしまった。月の光が輪郭を白く照らし、双眸に透明感を与える。だがそれは涙によるものだとすぐに気付いた。硝子玉のような瞳から大粒の涙の雨が降る。
「やだっ……、いきたくないよ……っ」
一日中ひとりで抱えていた感情が爆発したんだろう。降り始めた雨は勢いを強めていき、耐えきれなくなったのか、俺の懐ん中に飛び付いてきた。後ろに倒れそうになるが脚に力を入れて受け止める。ずるずると頭が下がっていき太腿に顔を埋めて、漏れる嗚咽を噛み殺しながら何度も何度も「いきたくない」と繰り返した。いつもの名前を見てる奴はこいつの泣く姿は絶対に想像できない。むしろ泣かないとさえ思っている。だがこいつは人間だ。俺より小さくて細くて、意地っ張りで負けず嫌いだけど、痛いのが嫌いな泣き虫なんだ。しゃっくりが肩を大きく跳ねさせる。俺はここまで泣かせる維持局の奴らが許せなかった。土足で乗り込み、まるで道端の石を拾うかのように攫おうとする。荒々しいものが全身に波及していくのを感じた。おのれの拳に更なる力が入る。
「行かなくていい。いや、行くな。行くんじゃねえ。あいつらなんかにお前を渡してやるもんか」
さめざめと泣きじゃくる名前の頭を撫でてやる。努めて優しい手付きで。太腿に顔を埋めて泣く様を傍らに、苦々しい味が口いっぱいに広がり奥歯を噛み締めた。悔しい。悔しくて堪らない。俺がもっと大人で、もっと力があれば、こんなにも泣かすことはないのに。こういう時にいかにマーサが凄いか感じさせられる。マーサなら俺にできないこと、簡単にやってのけてしまう。遊星やジャックは頭がいい。だからこの件だって俺じゃ考えつかない良案が思いつくだろう。他の奴もそうだ。じゃあ俺は? 俺はこいつを守るために何ができる? 遊星みたいな知恵はない、マーサみたいに大人じゃない。そんなことが脳裏を過って頭を振る。比べる必要なんてねえ。俺にできないことは仲間に任せ、仲間ができないことを俺がやればいい。ここに居る奴ら全員名前を送り出すことに反対してるんだからな。
「泣くな」
「クロウ……」
「言っただろ、ここに居る奴らみんなお前の味方だ。家族みたいなもんだ。その家族を維持局の奴らにむざむざ引き渡すかよ。だから安心しろ」
両肩を掴んで、上目遣いに見上げる名前に力強く言い切った。ゆらゆらと不安定に揺れている瞳が俺を映し、しばらく名前は俺を見つめて、俯いた。俯いたまま「うん」と小さく零し、両手がおのれの涙を拭おうと顔を擦る。信じてくれたんだ。全身に循環していた怒りはどこか、今の自分は明朝に向けてどうするべきかだけを考えている。気持ちを入れ替えるように太腿を叩いて椅子から立ち上がった。泣き止んだ名前は床にへたり込んだまま見上げる。
「よし! とりあえず飯食えよ、マーサがせっかく作ってくれたんだ。それに何を始めるにしてもまずは腹拵えから、だろ?」
にかっと笑えば、泣き顔に不器用ながらも笑みが戻った。ひとりで立ち上がったそいつは俺に手を差し出す。きょとんとする俺に、白い歯を見せて笑った。
「ありがと、クロウ」
「気にすんな。飯食って早く寝ろよ」
差し出された手に自分の手を重ねた。元気づけるように握って、俺は部屋から出ようとする。その時、急に言われた。
「ごめん」
こいつのことだから、どうせ迷惑かけてとかそんなこと考えてんだろうなと思った。だから「謝んな」と短く言って部屋を出たんだ。それが全然違う意味であることに気づきもしないで。疑うこともしないで。俺は早速、遊星とジャック、マーサや他の連中と一緒に作戦を立てることに勤しむことにした。あんなんでもあいつらは権力を持っている奴らだ、真っ向から言い合えばぜってえ俺らが捕まる。だから別の、被害をなるべく出さないような案を考えた。昨日ならこの時間にはとっくに消灯されて、全員寝ている頃合だ。それでも家の電気は消されずみんな起きてそれぞれの考えを出し合った。途中、俺は船を漕ぐ時があったが、それでもあいつらが来る時間にはなんとか作戦が決まった。窓からは顔を出し始めた太陽の光が差し込まれている。みんなが「これしかない!」となった案をあいつに伝えるべく、俺は走り出すように部屋の扉を叩いた。「起きろ!」そう言って。でも返事はない。昨晩あれほど泣いたんだ、熟睡してるんだろう。そう思ってドアを開ける。俺は自分の目を疑った。そこには誰も居なかった。俺よりちっこくて細っこい、だけど負けん気が人一倍強い名前の姿がない。カーテンはなびいていた。ベッドの後ろにある窓が全開なことに気づく。橙色の淡い陽射しが、もぬけの殻の部屋を隅々まで整然と照らし、その光を呆然と佇む俺が全身に浴びた。それからの記憶はだいぶ虫食い状態だ。家中が騒然とし、現実は無情にもそいつらは家にやってきた。だが名前が逃げ出したと知ると、逆上して俺らに当たり散らし、汚物から逃げるかのように去っていった。維持局のその後の調査報告を又聞きしてようやく、俺の仲間であるあいつの居場所を知った。いや、状態を知ったと言うべきか。あいつは、シティとサテライトの間にある海の水面に揺らされていた。
つまり、名前は死んだのだ。