澄み渡る快晴に似合わず、私は人の往来を顧みることなく怒号を上げた。なんだなんだと好奇心の視線の豪雨を浴びるが、それでもこの男の視線は少したりとも揺らぐことはない。それが余計感情の爆発材料となる。
「朝からうるさい女だ。静かにできんのか」
「うるさくさせてるのは誰なのさ! いい加減浪費を抑えろって言ってんでしょうが!」
「情緒というものが解らんのか。このジャック・アトラスの朝はこの珈琲一杯から始まると言うのに」
「その珈琲代は誰が払うと思ってんの!」
「無論、お前だが?」
私がおかしなこと言ったかのようにふんぞり返る彼に、腹の虫は次々と沸いてくる。爆発寸前のところを喫茶店のウェイターに宥め賺されたことで、込み上げる感情の一切を抑え込むように、椅子へ全身の重心を投げ打った。家計の帳簿係を前にしても彼の動作に淀みはない。注意する私の言い分もまるで歯牙にも掛けずに、悠々自適に珈琲を口に運ぶ。日常的に見かける動作にこれほど怒り心頭に発することができるのもジャックのおかげだ。全くもって嬉しくない。
「無職男」
「なんだと?」
「ニート」
「おい」
「わがまま王様」
「この俺を愚弄する気か!」
「珈琲代払えるようになってから怒れっての! 馬鹿ジャック!」
「馬鹿となんだ、馬鹿とは! 俺に見合う仕事がないのが悪いのだろう!」
「見合うんじゃなくて合わせるもんでしょ!」
「解らん女だな」
「解りたくないわ」
朝から空気は一触即発モード。視界の片隅で女性ウェイターの狼狽する姿が見え、昂った気持ちが少しだけ冷静さを取り戻す。ふう、と深い溜息をテーブルに落として額に指を立てた。お互い毎朝こんな水掛け論してるばかりで一向に進展しない。ジャックが理解してくれればいいのに、彼は到底理解できない持論を持ち出して意地を張ってくる。体裁とか矜恃とか腹の足しにならんものより、考えなきゃいけないもんがあるでしょうに。だと言うのに全然解ってくれないし、なんならこの珈琲だけじゃない出費も私に出させてくるときた。旧友の誼みということで遊星たちの家計簿係を買っているが、ジャックの浪費癖が頭ひとつ飛び出て足枷となっているのが現状だ。この領収書だけでいくつのホイールパーツが買えると思ってんだこの野郎。
「だいたい珈琲なんて自分で淹れりゃいいでしょうがよ。毎回一杯三千するやつ頼みやがって」
「貴様。ここの珈琲の良さを理解できんと言うのか」
「値段を考えろって言ってんの。クロウなんかあんたの浪費を補うためにバイトひとつ増やしたんだよ? もうちょい見習いなって」
「それは俺に言うのではなく仕事場に言え。ちょっとしたミス程度で堪忍袋の緒が切れるようじゃ、この先長くないだろうがな」
「あんたが行った仕事先の一件から、壊した機械の修理代の請求書が届いてんだけど」
渦中の本人がこの様子じゃ更正を期待するだけ馬鹿を見るだろう。だめだ、きかん坊の相手は荷が勝ちすぎる。ジャックよ、あんた今いくつなんだい。同年代の子らは私同様職に就いたりして逞しく生きてるというのに。遊星なんか、夜通しホイールの整備したその身体で依頼人のところ行ってんだよ? クロウはバ先ひとつ増やしたということで昼時間が更に短くなったし。寸志程度にしかならないが、実は私も彼らの生活費の足しになるよう貯金を割いていたりする。白皙の陶器に悪びれる様子なく指を絡めるジャックを見て、私の脳裏にある提案が閃いた。
「そうだ!」
「突然立ち上がるな、珈琲が零れるだろう」
椅子から全身の重心を弾いた私は、鼻の上に皺を湛える彼に自信ありげに身を乗り出した。嬉々とした私の姿に彼は鼻白み、衝撃によって波紋が広がった中身を零さぬようマグカップを慎重に、大切に持ち直した。今は彼の顰蹙に感けている時間が惜しい。
「私がこれから毎朝淹れてあげるから、それならお金の無駄遣いやめてくれるでしょ?」
「何を馬鹿なことを言っている。俺は珈琲を飲みにここに来るのではない、ブルーアイズマウンテンを飲みに来ているのだ。ままごとなら龍可たちとやれ」
「何がままごとだよ、ニートキング。あっ、元キングか。なんとかマウンテンくらい自費で払えるようになってから物を言うんだね」
「俺の足元にも及ばないくせに口先と威勢だけは一人前だな。フン、貴様など所詮おたまじゃくしにもなれぬ蛙の卵。この俺の舌を唸らせる珈琲など淹れられんわ」
「ははーん。ジャック・アトラスともあろう者がまさか私の手腕に怖気付くとはねえ」
「何?」
腕を組み、顎を持ち上げて俯瞰する。余裕綽々の意を全面に押し出せば、目論見通り単純なジャックは食い下がってきた。あと少し。
「私が他の人に焙煎の腕を認められたから、それに陥落する自分が怖いってワケね。そっかそっかあ。天下のジャック・アトラスに、まさかこーんな弱点があるとは」
「ふざけるな!」
「『元キングをも唸らせる敏腕バリスタ』とか記事のトップを飾るにはちょうどいい文言と思わない?」
煽れば煽るほど彼から滲み出す険悪な色が濃くなる。よしよし、あと一押しだ。緩くなってしまう口元をさらにぐいっと弓なりに歪める。珈琲を飲む彼の手はいつしか止まっていた。次はなんて言ってやろうかなあ。挑発させるという当初の考えは、実行しているうちに徐々に気が乗ってしまって、今は彼の反応がただ面白くて揶揄している。興奮気味に稼働するおのれの頭の回転は、ジャックが声を荒らげたことでぷつんと突然切れた。
「そこまで豪語するならいいだろう! 貴様の道化に乗ってやるぞ、名前」
「おおっ!」
「俺の貴重なコーヒーブレイクを奪ったのだ、生半可な味は許さん」
「望むところ。これでもバーに勤めて一年、喫茶店に勤めて二年経つんだ、自信はあるよ」
それになんと言っても私自身、大の珈琲好きであるのだ。勤務時間に限らず家でも豆から焙煎し淹れている。知識や仕入先だって全部その筋の方直伝。一杯三千円するなんとかマウンテンにも負けない、わがまま王様の舌を唸らせるどころか、飲みたいとせがまれるほどの珈琲を淹れてみせるわ! 意気込むついでに遊星とクロウへの土産話もできたなと、内心ほくそ笑むのであった。