これと繋がってます。
名前の顔が明るさを取り戻しつつあるように見える。歯を見せないように笑みを浮かべる口は、今じゃ白い歯を惜しみもなく晒して笑ってくれる。その姿に胸を掬われる僕が居た。
「今日はありがとね、色々付き合ってくれて」
「新しい職場に早く慣れるといいね」
「頑張ってみるよ。あ、家帰ったらまた連絡するね。それじゃ」
「またね」
太陽の眩さに負けないくらいの笑顔を見せて、彼女の身体は雑多に覆われてしまった。高校、大学と進み僕らは社会人になった。高校卒業と同時に杏子はアメリカへ、城之内くんは地元の会社に無事就職し、本田や獏良くんも自分の道を築いている。僕は実家の営業を手伝いつつゲームを創ることに専念している。彼女もつい先日就職先が決まって、今日は仕事場に着ていく服などを新調するために付き合っていたのだ。手を振って去った彼女の後ろ姿がまざまざと蘇る。もうひとりの僕、アテムが還った当初は顔色に翳りがあったけど、それも数年が経った今は跡形もないほどに明るい。言葉にはしないが、多分彼女の中で彼への踏ん切りが着いたのだと考えている。しかし彼女が一歩前進したからと言って僕との関係に変化があったかと言われれば、それは依然として停滞したままだった。そろそろ言ってもいい頃合かと思わないこともないけど、彼女も僕も現状に着いていくことで手一杯だから中々勇気が出ない。高校の僕が今の僕を見たらきっとがっかりするだろうなぁ。もしこのまま言い出さなかったら彼女は他の誰かを好きになって、そのまま付き合ってしまうんだろうか。裏表ないあの笑顔の隣に知らない誰かが立っている想像して酷く胸が苦しくなった。何かに託けて逃げるのは僕らしくない、よね。その時だった。顔を上げた僕の視界に飛び込んできたのは、ふたつの大きな太陽で。けたたましく鳴るクラクションが最後に聞いた音で、全身にぶつかる衝動が最後に感じたものだった。僕の意識は電線が抜かれた電話のようにぷつりと事切れる。
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懐かしいと感じた。どこが、何が、そんな具体的なことは解らない。だけど確かに目の前に広がる光景を、泣きたくなるくらい懐かしく感じて、ずっとこのまま居たいと思ってしまった。通い慣れた教室で城之内くんと杏子がデュエルしてて、本田くんと御伽くんは城之内くんを揶揄してて、獏良くんは苦笑いしながら眺めてて、僕は本田くんたちと城之内くんの言い合いを仲裁しようとして、もうひとりの僕は澄ました表情で見つめてて、そしてそこには心から楽しそうにはしゃぐ名前が居る。僕の日常がここにあった。楽しいことも辛いことも悲しいこともあったけど、こうやってみんなと過ごす時間だけは何よりも大切なんだ。ふと僕の名前が呼ばれた。嬉しそうに笑う彼女が僕を見ている。楽しいね、と言って。僕もそう思うよ。そしてもう一度僕が呼ばれた。落ち着き払った低い声。僕をそう呼ぶのはひとりしか居ない。彼と目が合う。君が何を言いたいのかその眼差しを通って伝わってくる。そうだよね、いつまでもここに閉じこもっているわけにはいかない。瞼を下ろす寸前に見た彼は、どこか吹っ切れたような笑いを口元に湛えているように見えた。
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次に聞こえてきた音はピー、ピー、という電子音だった。突き抜けるような匂いがする。なんだろう、身体の至るところがとても重い。全身が鎖で縛られているようだ。ぴくりと指先を動かせばシーツの冷たさが伝わってくる。ここがどこか知りたくて瞼を開けたいのに、眠気の重さに負ける月曜日の朝みたいな感覚のせいで思うように開けられない。自分の身体の不自由さに悶々としていると、シャッ!と何か軽いものが滑る音がした。
「遊戯っ」
名前を叫ぶ声は痛々しく、そして絞り出したように上擦っていた。切羽詰まったように繰り返されるたびに僕の心臓が焦がれるように呼応する。名前の声だとすぐに解った。鼻を啜るのが聞こえた。返事がしたい、君の名前を口にしたい。君の顔が見たいよ。だけど唇が動いてくれなくて、僕の気持ちを知る由もない彼女は涙に声を震わせながら「起きて、起きてよ」と連呼する。こんなに近くに居て話せないのがもどかしい。ようやく笑い始めた君の涙なんて見たくないのに、それを拭うことさえできない。僕が起きなければずっと彼女はこのままなのだろうか。大好きな彼女がシーツにしがみついて喉を拉げる姿を想像して、全身の底から力が沸いてきた。そんなの嫌だ、もう彼女のあんな顔は見たくない。
「名前……」
「遊戯!」
渾身の一声は掠れていた。けれどもそれを見逃さなかった彼女は、僕を名を呼んで顔を弾くように起こすのがうっすらとした視界の中で見えた。暈ける視界が徐々に鮮明さを取り戻していく。白いタイルをはめ込んだ天井と自分の腕に刺さっている無数の管が、ここは病室なのだと教えてくれる。僕が何故ここに居るのかに対する答えは、途切れる寸前の記憶が教えてくれた。そうだ、道路を横断する僕に一台のトラックが突っ込んできたんだった。こうして瞬きできてるってことは最悪なことにはならずに済んだよう。身体を覆う倦怠感に堪らず深い息を零す。名前は僕を覗き込み、丸められた目から溢れ出した雫が寝起きの頬を叩く。ふたつの目元はうっすらと赤く腫れている。泣き止んでくれた。君の顔が見れた。自分の状態は良くないだろうという予想ができても、嬉しさを感じられずにはいられなかった。彼女は、氷が麗らかな陽光に当てられ融解していくような表情を浮かべる。
「よかった、よかったぁ……」
よほど体力を使ったのか、ベッドの脇に立っていた彼女の身体は床に吸い込まれるようにして崩れていく。不謹慎だと解っていても、ここまで心配されたことが嬉しかった。
「だいじょうぶ、だよ」
指一本すら動かせなかった先程と比べて、今はだいぶ身体にも力が入るようになった。すると彼女の眦は吊り上がり、口角がへの字を作る。
「無理に喋っちゃダメだよ。今看護師連れてくるから」
「待って!」
立ち上がって、閉められたカーテンに手をかける。僕は出ていく寸前の名前を、横たわったまま喉に力を入れ強い語調で呼び止める。彼女は前のめりに立ち止まり、きょとんと小首を傾げた。
「きみに、伝えたいことがあるんだ」
彼女は何を悟ったのか顔色に険を含む。
「言わないで。ダメ」
「だいじょうぶだよ。だから聞いて」
信じさせるために笑って見せれば、眉間の皺が少しだけ和らいだ。
「僕、ずっと名前のことが好きだったんだ」
彼女の双眸が衝撃に揺らぎ、小さな感嘆詞を漏らすのが聞こえた。鳩が豆鉄砲を食らったような表情をする彼女に僕は続ける。
「高校の時からずっと。あの時は君がもうひとりの僕を好きってこと知ってたから言うつもりなんてなくて、還った後も言うか迷ってた。立ち直ろうと頑張る君の負担になりたくなかったから」
みんなが帰宅して閑散になった教室でのこと、今でもその情景は瞼の裏に色濃く残っている。もうひとりの僕を想って堪らず涙を零した君の顔。耐えて耐えて、でも我慢できなくなって泣いたあの時。気持ちを伝えるよりも先に辛そうな表情をする君に僕はどうすればいいか、それだけを考えたんだ。君は僕の好きな人でもあり、大切な友達だから。結果髪を切ることに繋がったんだけどね。その後でも言うことはできたけど、前を見ようとする名前の眼差しに竦んでしまった。だけどもうそれじゃ駄目なんだ。彼に背を押されても尚言えないんじゃ、それこそ君を想う資格すらないかもしれない。ううん、そんな難しいことなんかじゃなくて、君の隣に僕が居たいと思ったから。他の誰かじゃなく、もうひとりの僕でもなく、僕自身であればと。静聴する彼女を真っ直ぐ見つめる。怖がってちゃ駄目なんだ。
「名前にそういう気持ちがないってことは解ってるんだ。だから付き合うとかじゃなくて、僕の気持ちを知ってくれるだけでいいよ」
大怪我しちゃったしね、と情けなく笑った。彼女に積年の思いを打ち明けることができたからか、長い間胸の中に巣食っていた深いわだかまりが消えたように清々しい気分だ。たとえ関係が崩れても僕は後悔しないと思う。布擦れの音が告白した後の静寂を裂く。傍にあった小さな椅子に体重を預けた名前は顎を引いた。絹糸の髪が動作に揺れ顔を覆ってしまう。どんなことを思い、なんの表情を浮かべているのか、何も言わない姿がその焦りを助長させた。看護師の声や患者同士の雑談、見舞いであろう人の歩く音などが、長い静寂の中へ混ざり込む。困らせちゃったのかな? そろそろ心配になってくる。でもなんて言うか迷った。名前を呼ぼうと開口した時、震える溜息が遮った。
「私ね、遊戯の事故のこと聞いた時心臓が止まるかと思った」
聴覚に全神経を尖らせてようやく聞き取れる声量だった。それは酷く頼りなく震えていて、でも自分の思いを紡ごうとなんとか平静を保っているようにも捉えた。
「遊戯にも置いて行かれるのかと思って、すごくすごく不安になったんだよ。事故って言っても生命に関わるほどじゃないって聞いた後でもね。不謹慎だけど最悪の想定しちゃってさ、怖くなったの。茫然自失同然の私をいつも気にかけてくれた遊戯が居なくなるの、私には耐えられなかった。遊戯が死んじゃってたら多分後追ってたと思う」
言葉が短い間途切れた。息を吸い込むのが聞こえる。
「遊戯のこと好きだよ」
俯いていた名前の瞳が僕を捉える。その瞳に映る僕は情けなくも目を丸くしてぽかんとしていた。彼女が放った言葉に現実味を感じられないのだから無理もないと思う。夢じゃないのか、気持ちを上手く呑み込めない僕に言い聞かせるように彼女は言った。
「いつからとかそういうのは覚えてないし、関係を壊したくなくて言えなかったんだけど、気付けば自分にとって遊戯は大切な人になってた。なんだろう、遊戯にはあの時もだけどいつも助けてもらってばかりだね」
「ゆ、夢じゃないよね?」
「まだ寝ぼけてんの? なんなら今ここでキスしようか?」
「えっ!?」
「冗談だよ」
驚いて真っ赤になる僕を、彼女は悪戯っぽく笑った。だってこれじゃ、まるで。
「良かったら私を彼女にしてくれませんか」
返す言葉はひとつしかない。ねえ、もうひとりの僕。君はあの時、あの空想に閉じこもっていたいと思ってしまった僕の背中を押してくれたよね。なら僕はその決意に応えられるよう、名前を幸せにしてみせるよ。だから見守っていてほしいんだ。