誰しも一度は耳にしたことのある化粧品会社から、新色のネイルポリシュが発売された。深い青色は光を受けてうっすらと紫色を反射させる。まるで葡萄のような色。長持ちすることに定評のあるメーカーだから、新色が出ようと出まいと気に入った色があれば買ってしまう。校則違反だという罪悪感は、目の前の友人にネイルの筆を渡した時の好奇心によって掻き消された。
「上手だね」
「まーね。何回あんたの爪塗ってると思ってんの」
「毎回頼んでる気がする」
「いい加減自分で塗れるようになったら?」
「んー。でも自分で塗ると利き手の方が下手になるんだよね」
「それこそ慣れでしょ」
「それよりやってもらった方が手っ取り早くない?」
「私はネイリストになりたいワケじゃないんだけど」
「ごめんって」
眉間を寄せた友人を見て、軽い語調で平謝りする。ぶつぶつ呟いていた彼女も、最後の爪を塗る頃には「まあいいけどさ」となんとか許してくれた。改めて、彼女に塗ってもらった爪のひとつひとつに視線を落としていくと、知らずのうちにほうっと感嘆の溜息を零していた。刺繍や絵を描くことが好きな彼女はやはりと言うべきか、手先が器用でいる。形が不揃いであってもその爪たちはみんな均等に塗られていて、ひとつとしてはみ出していない。自分で塗ったら、なんて考えたくもない。「できたよ」と言って友人は手を遠ざける。きゅっ、と音を立ててネイルポリシュの蓋を閉めた。
「ありがと。また頼むね」
「はいはい」
乾くまで動いちゃだめだよ、そう言って彼女は鞄を持って席を立つ。壁にかかった時計を見れば、時間はとっくに五時を回っていた。待ってくれてもいいのにと思わないでもないが、爪たちを眺めるひとりの時間も好きなので友人を見送ることにする。窓から吹き込む乾いた風は、塗られたばかりの爪を冷やしていく。
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深紺と紫を混ぜたような色から覗く白色。もうそんなに経ったのかと、色が剥げた地爪を見ながら肩を落とす。今回は二週間持った。耐久性を謳うだけあって質もそれなりにいいよう。前回買ったやつなんて水に当てただけで剥がれてきたから。しかし弱ったなぁ。あいにく今日はネイリストの友人は居ない。シフトあるからと早々に帰ってしまったのだ。
「自分で塗るのやだなぁ」
爪からはみ出て気力を失う姿が容易に思い浮かぶ。小さい頃から爪に落書きするのが好きで、中学に上がった頃からペンから筆に変えたはいいが、塗りの腕は上達しないままネイルの筆は友人に託してしまった。しょうがない、除光液で落として帰ってお母さんに頼んでみよう。残念だと思いながら鞄から除光液を出す時、教室の扉が開かれた。
「まだ帰ってなかったのか」
「まーね。ちょっと野暮用。遊戯は?」
「俺もそんなところだ」
「ふうん」
教室に入ってきた遊戯と、自分の爪に付着している色をコットンで落としながら会話する。何とはなしに彼を視線で追って初めて、彼の席に鞄がかかっていたことを知った。鞄を取った彼は私を見て不思議そうに目を丸める。
「それはなんだ?」
その視線は私の机に向けられていて、除光液のボトルを手に取り軽く振る。その振動に中の液体が重々しく揺れるのを感じた。
「除光液。今落としてる最中」
「ああ。剥げたんだな、色」
「そ。いつもなら友人に塗ってもらうんだけど、その子、今日バイトだから帰っちゃったんだよね」
「自分で塗るのか?」
「無理無理。下手だもん。だからお母さんにやってもらおうかなって」
「なら俺がやっていいか?」
てっきり「そうか」で済ますのかと思っていたから、自分から乗り出したことに目を瞬かせた。意外だ、その気持ちは顔に表れていたようで、遊戯は「爪を塗ることくらいできる」と半ば拗ねている。面白そうだしやらせてみようかな。いつもならネイルが無駄になるからと、素人には絶対塗らせないが、今日はなんとなく気が綻んだ。
「いーよ、よろしく」
彼は鞄を持って私の前の席に移動した。名前の知らない席の持ち主に内心で「借りるよ」と断りつつ、そこに躊躇なく座った彼の手際の良さに惹かれていた。私の手をそっと取り、液体に浸した筆を自爪の上に滑らせていく。時には強く、時には弱く。その強弱の付け方がやけに熟れているように見え、私は「やったことあるの?」と尋ねた。
「これが初めてだ」
「えっ、マジ?」
「ああ」
「めっちゃ上手じゃん。才能あるよ」
現にはみ出てないし。私の友人と言い遊戯と言い、ネイリストの卵がこんな身近に居るなんて。彼らがネイリストになったら常連になる自信がある。
「コレ、好きなのか?」
そう言って液体に浸した筆を、瓶の縁で量を調節する。コレって多分ネイルポリシュのことだろう。私は「うん」と隙も与えずに頷いた。
「私の爪って異様に白いでしょ?」
「そうだな」
「だから色を乗せることで血が通ってるってこと実感してるの。あとは単純にいろんな色を乗せて、それを眺めるのが好き」
好きなことにそこまで深く考えたことはない。好きだからやる、興味湧いたから試す、そんな感じ。物は試し、百聞は一見に如かず、この言葉は私の理解者だから好き。青紫っていうのかな。葡萄みたいな深い色が病的な白を飲み込んでいく様は、私に完成された時への好奇心と少しの安堵を与えてくれる。底知れぬ井戸を覗き込むように遊戯の作業を見つめていれば、彼の低い声が鼓膜を震わせた。
「できた」
「あ、ほんとだ。ありがとう」
十本の指の先を彩る葡萄の色。両手を目の高さまで持ち上げれば、ほうっと感嘆の溜息が零れた。初めてだと言う彼の手先が器用すぎて、ほんとは家でやったんじゃないかと疑いが首を擡げる。どの爪からもはみ出ていなくて、教室の電気を受けて爪先に光が乗る。すごい、万華鏡見てるみたい。きゅっ、と瓶の蓋がきつく締められる音に私の視線は彼に戻される。
「凄いね、上手」
「言っただろ、爪を塗るくらいできると」
「いいなー、私も遊戯に塗ってもらいたい。遊戯の彼女になる人が羨ましい」
自分で塗れとか言われたら、私は絶対ネイリストに縋る。色が縒れないように腕を机から投げ出し、項垂れた。机に突っ伏した状態で布が擦れる音が入ってくる。帰る支度をしているんだろう。鞄のファスナーの音が止んで背負う音が聞こえる。上履きが床を叩き、教室の扉が軋む。帰るかと思っていたら。
「ならこれからは俺が塗ってやるぜ」
扉が閉められた音が聞こえてきた。弾かれたように顔をあげたけど、当然ながら遊戯の姿はなかった。誰も居ない教室に、私の「えっ!?」という大きな声だけが反響する。言い逃げされたと少しづつ理解したところで、また机に額をぶつけた。痛いというよりいっそのこと追っかけてやろうか、そのことだけ考えた。窓から入る風で乾かす爪たちを見やる。葡萄色に塗られた爪たちに罪はない。私の気まぐれに付き合わされただけだから。だけど、それでも。この爪が白いままなら、彼を追えるのに。そう思わずにはいられなかった。