ファラオがだいぶ腹黒い。
ヘイトに近い描写あり。







こんなにもあっさりと惨めに死んでいくのかと、冷めきった双眸に見下ろされながら私の意識は暗転した。最後に聞いたのは「こいつを牢に繋いでおけ」という誰かの声だった。










何かごつごつとした感触に起こされ、ねっとりと全身にまとわりつく倦怠感から脱するように瞼を開ければ、視界に入ったのは規則的に並ぶ鉄の棒と何かの輪郭だった。薄ぼけた視界は徐々に覚醒していき、波打つ輪郭が、こちらに背を向けて座る見張り番のものだと理解する。身を起こせば、それを支える手のひらが歪なものに押し当てられぴりりと痛みが走った。「痛っ」と顰蹙して周りを見渡せば、ここが罪人を閉じ込めるための牢獄であることを知る。そういえば牢に繋いでおけって言われたんだっけ。窓もなく、明かりは見張り番が持つ松明のみ。だとしたらここは地下なんだろう。溜息を吐くと同時に後頭部に鋭い痛みが走った。鋭利な刃で突き刺されたかのような激痛。喘いで倒れ込む音でようやく見張り番が私の起床に気づいたようだ。立ち上がる動作で松明の火が頼りなく揺れる。

「起きたか、この大罪人め」

男は地に伏す私を賎しいものを見るように見下し、言葉のひとつひとつに嫌悪をたっぷり込める。

「このまま火炙りにしたいところだが、お前を連れて来いとの沙汰を受けている。待っていろ」

言って、番人は去っていった。唯一の光源が消えた今、私の視界を埋め尽くすのは縹渺とした闇だった。先程見えた鉄格子も暗闇に消され、耳に届いたのは微かな金属音。遠くから反響したそれはおそらく別の囚人のものだろう。自身の手すら見えない中、長いこと押し込められているのなら気を狂わせても仕方ない。だけど自分はこの暗さに慣れていた。いや、慣らされたと言うべきか。手探りで壁らしきものに背を預ければ、研磨されていない岩壁が背中の肉を突く。鉄格子を引っ掻く音、誰かに追われていると主張する金切り声、それらが絶え間なく心臓を突き刺す。男は連れて来いという沙汰を貰ったと言った。誰かに会わされるのだろうか。何かされるのだろうか。震える唇で溜息をそっと吐けば、傷口が呻いた。

「どうせ死刑なんだ、さっさと殺してくれればいいのに」

吐露して膝頭に顔を埋める。そうして何時間が過ぎただろうか。いつしか完全なる無音に馴染んでいた鼓膜を、唐突に靴音が叩いた。のそりと顔を上げる。闇を穿つ一点の明かりは、見張り番の顔貌を浮かび上がらせた。先程の男だ。茫然自失に眺める視界の中で、男は腰に巻かれている鍵束からひとつの鍵を出しそれを牢獄の鍵穴に挿す。重々しい音が扉が開けられたことを知らせる。

「出ろ。ファラオがお呼びだ」

何故、という疑問は見張り番の催促によりついぞ口にできなかった。ファラオが私に? 何故? どういうつもりで? 私を「裁く」のではなく「呼んでいる」? これには役目を放棄した思考も動かざるを得なく、王の間に通されるまでひたすらに考えていた。斜脚の空に晒された身を容赦なく貫くは、人々の侮蔑に近い眼差しだった。聞こえてくる陰口はいずれも私を罵るもので、見張り番によって手を拘束されてるのをいいことに、見物人は責め立てるように小石をぶつけてくる。誰が投げてるかなんて一々数えてたら星が頭に浮かびそうだ。罵詈雑言と石礫の雨を全身に浴びながらようやく王の間、つまりファラオの御前に辿り着く。脹脛が岩のように固まって、足の裏は素足で砂利道を歩かされたせいで、指の付け根の膨らんでる箇所が、ひっきりなしに悲痛を叫んでいる。

「跪け、罪人」

「うっ」

持っていた槍の柄で膝の裏を殴られる。簡単に力が抜けていき、膝頭が床にぶつかった。殴らなくても跪くっての。遅れてやってくる痛みに目尻がうっすらと潤むが下唇を噛んで耐えてみせた。人前で無様を晒すことは絶対にしない。泣き顔を晒すのは火炙りより苦痛で惨めなこと。どうせこれから死ぬのだしあれこれ考えるのはやめよう、最期くらいは安らかに逝きたい。こんなこと、罪人なら思ってはいけないのだろうけど。俯く自分の視線は縄に括られた手元を映す。昨日まで鮮やかな赤をもって肌を焼き付けていた傷口が、今ではすっかり汚く変色して化膿していた。なんて汚いんだろう、そう思わずにはいられない。思い返せば一度たりとも洗濯された服を着たことがなかったな。傷だって汚水で流して適当に布で巻いただけ。死ぬまで汚いんだな、私は。もはや笑いが溢れそうだった。

「これより大罪人に厳罰を下す」

ひとりの男の声が高らかに反響した。目を覆うように垂れた前髪の隙間から、声の主を見上げる。海のような瞳の神官だった。

「貴様はこの世で最も邪悪なカーを持つ罪人だ! あろうことか神たるファラオをその手にかけようとしていたのだからな」

その言葉により、それまで沈黙に伏していた周囲にどよめきが波及する。「痴れ者め」どこからか耳に入ってきた。そりゃそうだろう、彼らはファラオを神だのなんだのと傅くんでいるのだから。彼の言うとおり私はファラオを暗殺しようとした。結果はこの有り様だが。しかし何も突発的にファラオに刃を立てたわけではない。金にならないことはしない主義の私が、ファラオに刃を向けた理由、それは単純に依頼人が居たからである。一生遊んで暮らせる金をひとつの命を消すだけで貰えるというのなら、その手を振り払う方が可笑しい。金があれば学を養える。金があれば綺麗な服を着られる。金があれば腹を満たすために汚水を啜らずに済む。私は普通の生活を送りたいがため弑逆しようとした。

「よって貴様を火刑に」

「待て、セト」

神官の言葉を遮るなど本来ならばあってはならない。この場の誰にも許されない所業だ。だが、それが許される者がたったひとりだけ存在する。

「如何されたファラオよ」

セトと呼ばれた神官は玉座を顧みた。天井より降り注ぐ日差しに、身に付けている装飾が眩く光る。ファラオの割り込みに周囲が目を瞬かせるが、私は怪訝な顔をした。玉座に腰を据えるファラオは片肘を突いて私を見下ろすが、その眼差しが私の全身を柔らかく逆撫でするようで、言いようのない気持ち悪さに襲われた。なんだこの王は。溝鼠のように泥水啜ってきたからこそ培われてきた勘というものがある。それが警鐘を高らかに響かせ言うのだ。「自分は取り返しのつかないことをしたのだ」と。弑逆すれば死罪であることは重々承知、それでもこう感じてしまうのはもっと別の、そう、死罪なんかよりもっと恐ろしい目に遭うんじゃないかと、それを意味するのだ。ファラオが何を考えているかまるで解らない。今までならそんなことなかったのに。ここで初めて手が湿った。目を眇める仕草に固唾を飲み込む。何を言われるのか、ただそれだけに全神経が注がれた。

「お前は何故俺の命を狙った」

「ファラオ、それは」

「止めるなマハード。俺は知りたい、己の死を見据えてまで及んだこの行為の真意を。そして覚悟の程を」

突拍子もないことを言ってる自覚はあるのか、いや、ないだろう。ファラオにそんな常識はない。解らないことを聞いただけなのだから。賤民の罪人が紡ぐ言葉なんて聞くに耐えないものであろうに、なんて酔狂な。ぐっと唇に力を入れてきつく結べば、ファラオは「言え」と、ただ一言、静かに落とす。言って死ぬか黙って死ぬか。どちらも多分一緒だろう。変わらないなら言ってしまえばいい、どうせ死ぬのだから。

「頼まれたから。貴方を殺して欲しいと」

「それはお前に依頼を持ち込んだ奴が言ったのか?」

「言い出しっぺは恐らくそいつの主人と思われる人。身なりは綺麗だったけどそいつ自身は多分奴隷だと思う」

「それで? 俺に刃を向けた理由はなんだ」

「金だよ。金が欲しかったから」

「貴様! ファラオに向かってっ」

「やめろ」

見張り番が手に持っていた槍が私に突き刺さる寸前、ファラオの鶴の一声によって鋭利な刃は肉を裂かずに渋々引いていった。憤懣遣る方ないといった風情で舌打ちを溢す。私は、見張り番に割く関心も視線も全てファラオに向けて微動だにしなかった。死はとっくに受け入れた、今更動じる必要もないからだ。

「飢えるのも泥水に縋るのももう嫌だった。だから何としてでも金が欲しかった。例えそれが最も許されない行為であっても」

だがもう全ては遺言でしかない。結局何ひとつとして成し遂げられないままであったが、死ぬ時まで悔いを残すのはやめることにした。ほんのひとつまみ分の未練でも、それが楔となるかもしれない。私は転生なんてしたくないのだ。いい加減こんな生活も飽きてきたしね。ちょうどいいや、さっさと死んで逃げてしまおう。

「そうか」

静聴していたファラオは何かを考えているふうだった。私を舐め回す視線は値踏みしているようでもあり、大変居心地が悪いがそんなことおくびにも出さないように顔を引き締める。ほんとうに何を長考しているんだ、神官たちもどうすればいいか解らないで居るじゃないか。死罪の人間にファラオが傾聴するだけで前代未聞だというのに、これ以上何をしようと言うのか。私の目標は潰えたんだ、さっさと死なせて欲しい。焦らすファラオに少しだけ苛つきを覚えた。その時だった。片肘突いて物思いに耽っていたファラオがついに動いたのだ。

「ここに居る全員に告ぐ。こいつを妻に迎えることにした」

「はっ?」

これには無表情に努めていた私も、低い声が盛れてしまう。だけど私以上に受け入れ難いと顰蹙したのは神官団だった。私に処罰の沙汰を下した神官が、前へ乗り出す。

「ご乱心召されたかファラオよ。賤民を、しかもファラオのお命を狙った度し難い罪人を妃に召し上げるなど」

「セト、これは決定事項だ。お前は俺に逆らう気か?」

「恐れながらファラオ。この者には邪悪なカーが宿っています。そのような者を神聖な場所に招いては如何様な災いがもたらされるか」

王の御身を鑑みれば、と別の神官が言った。セトと呼ばれた神官が私を睥睨するが、私だってこの状況を咀嚼しきれてはいないのだ、当たるな。ファラオに取り成すこともしていない。何がどうなってる、誰か説明してくれ。そんな切な願いもファラオが浮かべた笑みに、思わず憐憫してしまうほど簡単に潰されてしまった。

「異論は聞かない。こいつを娶ることを変えるつもりはないぜ」

それは暗に私の意見すらも許さないという意味を孕んでいる。周りが言葉を失う中、ファラオはその中央を威風堂堂と歩いてくる。一歩、一歩と近づくにつれて私は堪らず逃げ出したくなった。誰だこの人は。こんな人間初めて見た。やばいと脳がけたたましく訴える。その反対に自分の脚は寸分たりとも動かない。その視線に縫い付けられたかのようだ。いち罪人がファラオを直視するなんて本来ならば許されない蛮行なのに、それを窘める者はこの場に一人として居なかった。張り詰めた沈黙に響くのは、ファラオが私の手を拘束していた縄を切った音。情けないことに肩が音に大きく反応する。携えるのは見張り番が持っていた槍で。はらりと床に散らばるそれらを見て、槍は床に転がされた。未だ言葉を発せずに見上げる私に、ファラオは冷笑する。

「少しは楽しめそうだ」

金が欲しいからと狙った人。昨日の自分がいかに愚かで、世間知らずであったかと後悔した。私を捉えて笑うこの人はまるで、静観に徹して獲物の隙を狙う鷹のようだった。底冷えする微笑みにこれほど戦慄いたことはなく、あれだけ鳴り響いていた警鐘もいつしか止んでいた。

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